永嗣さんとまた一緒にやりたい。西川周作が持ち続けるライバル・川島へのリスペクト
G K西川周作は高校を卒業後、大分トリニータに加入。デビューするとすぐにレギュラーの座を獲得した。翌年には日本代表に招集されるなど、あっという間に輝かしいスターの座を手にするのではないかと思われていた。

ところがクラブが財政危機に陥り移籍を余儀なくされ、日本代表では強力なライバルが立ち塞がった。ついには3度あったワールドカップ出場のチャンスはつかむことができなかった。

そんな西川は挫折からどうやって立ち上がってきたのか。一番落ちこんだときに救ってくれたのは誰だったか。そして永遠のライバル・川島永嗣をどう思っているのか。いつもは笑顔の西川が淡々と語った。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:森山祐子】


シーズンが終わった後に明かされた話



いつも笑顔を絶やさない西川周作だが、過去を振り返るとき表情が曇ることがある。もっとも辛かった時期としてあげるのは2017年。この年、西川は地獄と天国を味わった。

シーズンが始まると自分の調子が上がらないことは感じていた。ケガも重くはなかったものの、抱えていた。だが、そのせいだけとは言えないほど、体が思い通りに動かない。

開幕戦では2-1とリードしながら2-3と逆転された。決勝点は後半アディショナルタイムに入ってから。その後も失点は止まらず、開幕5試合で7失点を喫してしまう。自分として満足できないときが続き、焦りが募った。

「GKの出来がチームの順位、勝点につながるのは間違いないと思っています。そのころは浦和での失点も多かったですし、自分が流れを変えることができない悔しさがありました。それまでやって来た中で一番もどかしかったですね。体とイメージがマッチしないというか、一番苦しい時期でした」

「自分がやらないと。とにかくやらないといけない」と思い過ぎて、逆に空回りしていた。そんな状態を見たヴァイッド・ハリルホジッチ監督は日本代表から西川を外す。2016年11月まで日本代表のゴールを守っていた西川は、招集すらされない日々が続くことになった。

それまでも西川は日本代表で栄光を手にしたことがなかった。

2005年のデビュー以来、クラブでは正GKとしてゴール前に立ち、日本代表デビューはイビチャ・オシム監督時代の2006年8月と、川島永嗣よりも早かった。それにもかかわらず、これまで3度あったワールドカップのピッチに立つチャンスは、ことごとく実らなかった。

初のワールドカップ出場を目指した2010年南アフリカ大会は、経験を買われた川口能活がメンバーに入り、西川は外れた。

「2010年南アフリカワールドカップのときは、負傷明けの川口能活さんが入りましたよね。メンバー発表を聞いていましたけど、岡田(武史)監督の信頼だったり、みんなの精神的な支えになったり、経験を還元したりという能活さんの役割というのが明確にあったので、素直に納得できました。だから次の2014年ブラジルワールドカップではメンバーに入れるように、というモチベーションになりました」

続く2014年ブラジルワールドカップでは、メンバーに入りながらも出番は来なかった。

「(川島)永嗣さんより先に代表に呼ばれてるからといって悔しいという気持ちにはならないです。僕は常に永嗣さんのこともリスペクトしますし、自分のプレーというのをやっていきたいと思っています。永嗣さんというすばらしい先輩がいて、なかなか永嗣さんの壁を越えることができない状況がずっと続いていました」

2018年ロシアワールドカップに向けて準備が進む中、ヨーロッパで試合出場の機会を失っていた川島が日本代表から外された。ハリルホジッチ監督のファーストチョイスとなった西川は2016年11月15日のサウジアラビア戦まで正GKの座を守った。

ところが、その次の試合だった2017年3月23日のアウェイのUAE戦、苦境にあえぐチームの打開策として、ハリルホジッチ監督はメンタリティを評価していた川島を起用する。西川は「永嗣さんは久しぶりに出ましたけど、ピンチのここぞというときに止めてチームの力になっていた」と振り返る。

そしてそのころから西川の調子は下降気味に陥った。そして2017年6月のキリンチャレンジカップでは代表メンバーからも外れてしまうのであった。

西川は「自分の中でも考え方にばらつきがあった。自分の中の柱が一本なくなっているような感覚でした」という。浦和での自身のパフォーマンスの低さに「スタメンを外されても仕方がない」と感じていた。しかもサブには榎本哲也という経験のあるベテランが控えていた。

ところがミハイロ・ペトロヴィッチ監督も、シーズン途中から交代した堀孝史監督も、一向に西川を控えに回す様子はない。選手の調子を一番わかっているはずの土田尚史GKコーチも西川を正GKとして信頼し続け、「一番大事なのはメンタルだから」とアドバイスを贈っていた。西川には監督や土田コーチの思いがヒシヒシと伝わってきたという。そして試合に起用され続けることで落ち着きを取り戻していった。

当時、西川の中には2つの気持ちがあった。「なぜ自分が使われているのだろうか」「自分が今まで守ってきたゴールをそう簡単には明け渡したくない」。挫けそうになる心と、負けたくないという克己心(こっきしん)とがぶつかり合った。

そして西川は一つの結論に至った。当時、浦和は2007年以来のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)制覇に向けて苦しみながらも歩みを進めていた。「とにかく続けよう。自分の中で1つ目標を持とう」。そう思ってアジアチャンピオンに狙いを定めたのだ。

ACLでグループFに入った浦和は4勝2敗得点18失点7の1位で決勝トーナメントに進んだ。ラウンド16、浦和はアウェイの韓国・済州ユナイテッドに0-2と初戦を落とすが、ホームで2-0として延長に。乱闘騒ぎが試合後も続く激闘となったが、追加点を奪って準々決勝に進出した。

川崎フロンターレとの日本対決となった準々決勝も、先にアウェイの川崎で1-3と追い詰められる。ところが第2戦、ホームで奇跡の4-1という逆転劇を見せて準決勝へ。準決勝の中国・上海上港戦は、アウェイを1-1で引き分けると、ホームで1-0と勝利を収めて、ついにファイナリストになった。

サウジアラビア・アルヒラルとの決勝戦は、初戦のアウェイを1-1で折り返す。そして最後はホームで1-0と最少得点で乗り切ってアジア王者に輝いたのだった。決勝トーナメントの4試合は、すべてホーム&アウェイの2試合合計が1点差と、失点がすぐ敗退につながるという接戦になった。その熱いゲームを西川は耐えきった。

「優勝することができて、一つ目に見える結果を目標達成したことで、自分としてもその柱を取り戻すことができました」。

シーズンが終わると、それまで何も言わなかった土田コーチが西川に教えてくれたそうだ。「お前を外すのは簡単だったけど、外したらお前は絶対ダメになると思ったから、オレは使い続けたよ」。

その言葉をシーズン中に言われていたら変に意識をして余計にダメになっただろうと振り返りつつも、うれしさのあまり鳥肌が立ったという。

うれしいことはこれだけではなかった。2017年11月、ハリルホジッチ監督は再び西川を日本代表に招集したのだ。

自分だけにわかる川島永嗣と自分との違い



しかし2018年、西川はワールドカップメンバーから漏れてしまった。

メンバー発表直前の試合の相手はG大阪。ゴールを守るのは日本代表のライバルでもある東口順昭。西川は「代表発表が行われる1カ月ぐらい前から自分としてはパフォーマンスもいい感じで上がってきている」と感じていた。

直前1カ月の6試合のうち無失点試合が3試合。「結果で示せた部分があった」と自信を持った。臨んだG大阪戦も両GKの奮闘でスコアレスの引き分けに終わる。「自分としてもうやれることはやった」と思ってはいた。だが、西野朗監督のチョイスには入らなかった。

「ヒガシ(東口)はまだケガをしていたけど、そこは監督の好みというところもあるでしょうし、実力という点もあるでしょう。発表で自分の名前がなくても、選ばれたGK3人には素直にリスペクトできました。だからワールドカップ期間中は静岡でキャンプ中だったんですけど、ちゃんと試合を見ていました」

だからと言って気持ちが整理されていたわけではない。

「2018年ロシアワールドカップは……行きたかったですけどね」。各国のGKを見て、西川は自分もあの場に出られるレベルだと感じていた。

だが、もしも西川が選ばれていたとしても、本大会で出番があったかどうかはわからない。結局、ロシアでも日本のゴールを守り続けたのは川島だった。遅れてきて、目の前に立ち塞がってきた川島という存在をどう見ているのか。

率直に「川島永嗣」という存在がうれしかったそうだ。

「楽しみというか、ずっとやっぱり若いときから試合に出てたぶん、そこまでの大きな壁を目の前にして、自分が一番成長できるチャンスなんじゃないかなと、そのとき初めて感じることができました」

「永嗣さんと一緒に練習するのが毎回すごく楽しい」と言う。

「なんだ、この人のレベルの高さは!」と思いながらいつも練習をともに過ごし、「人間性や考え方とか、プレー以外のところでも学ぶことが多い」とも感じている。

「永嗣さんの一番すごいと思うところは、たとえチームで試合に出てなくても、代表に来るときは間違いなくレベルアップしてきているところです。ここぞというときにシュートを止められるGKが自分の理想でもありますし、それが永嗣さんかな、と」

確かに川島は優れたGKだが西川には川島と別の特長もある。川島との違いをどう感じているのだろうか。

「なんというんですかね……見ている人があまり感じないのかもしれないですけど、勝利をたぐり寄せられる力というか……。ワンプレーの重みというのを一番理解しながら守っていたのは永嗣さんだったんじゃないかなと思います」

興味深いことに、西川は川島の話をするとき、とてもにこやかだ。目がキラキラする。まるでパズルを目の前に置かれ、攻略法を考えているような雰囲気で話す。

「永嗣さんは気持ちがこもったプレーで運を引き寄せていて、そういう力はどうやって身につけていったのだろうっていう感覚でした。もちろん自分のほうが持っているものもあったのですが、僕の中では『ここぞ!』というときにいかに止めるかというところにこだわってやって来ているので、そういう自分が考えるGK像が目の前にお手本としてあったたんです。そこは自分にとってもプラスにはなったと思います」

ライバルの存在が自分を奮い立たせていた。だから西川は辛い経験をプラスに変換できた。

「自分が認められなかったということが、自分をまた4年後を目指すという気持ちにさせてくれたんですよ」

西川の考え方も前を向くのに役立った。その性格も西川の強みでもある。

「基本的にあまり落ち込まないというか、物事をあまりマイナスな方向に考えないんですよね。それがいいときもあるし、悪いときもあるんですけど、いいときのほうが多いから。マイナスのことをずっと考えるより、いいことを考えたほうが明るく人生を生きることができると思っています。マイナスなことを考えてるのは、時間の無駄じゃないかって思っているんですよ(笑)」

今も西川の心に残る恩師のサッカー哲学



西川が悲しげな表情になるときはもう一つある。それは過去に在籍したクラブについて語るときだ。

2005年、高校を卒業して地元・J1大分トリニータでプロ生活をスタートした西川は順風な日々を送った。新人ながらリーグ戦21試合に出場。2年目となる2006年からは背番号「1」を任され、大分をピンチから救い続けた。

ところが2009年、14連敗というJリーグワースト記録を作ってしまい、ついにはJ2へと降格してしまう。シーズン中にはクラブの財政危機も明らかになった。

2009年のシーズン終了後、当時の大分の主力選手は「契約が残っている選手はみんな他のクラブに出て行ってくれ。そのほうがチームのためになる。もう同じ年俸は払えない」と告げられたそうだ。地元出身の西川も例外ではなかった。

「今だから話せますけど、当時はやっぱり自分も大分の一員としてずっと戦いたいと思っていました。ですが出て行く決断をしなければいけない、好きなクラブを離れなければいけないっていうときが……一番……自分としては辛かったです」

西川は今でも大分の試合結果や内容、あるいはスタッフやメンバーなどがとても気になるという。一度はJ3まで降格した大分がJ1まで昇格してきたのを見て、自分も元気にもなったそうだ。

大分から移籍することになったとき、西川にはいくつか声をかけてくれたクラブがあった。そのとき、サンフレッチェ広島を率いていたミハイロ・ペトロヴィッチ監督が「すごく熱心に声をかけてくれた」ことを西川は覚えている。そして西川自身もペトロヴィッチ監督のサッカーに興味があり、広島行きを決めた。

「自分としてはペトロビッチさんの下でサッカーがしたいという一心で移籍を決めました。自分のサッカー人生においてもペトロヴィッチ監督に出会えたことは、大きな転機になりました」

当時、西川が持っていたペトロビッチ監督のサッカーのイメージは「攻撃的」。そのため、広島に加入したときは「守備のよりは攻撃のことを重く考えるだろう」という感覚だったそうだ。

いざプレーしてみて、西川は驚いた。想像以上に攻撃的だったため、逆にカウンターで攻められることが多く、「思った以上に守備をしなきゃいけない機会があった(笑)」。だが、そこの西川は「やりがい」を感じていた。

「GKが守ることで流れが変わるし、さらにボールを取った後に攻撃参加することもできるようになって、自分のサッカー人生においても幅が広がったと実感しました。そういう自分の可能性を広げてくれた監督だと思います」

西川は今でもペトロビッチ監督の哲学に感銘を受けている。

「対戦するのは相手じゃない。自分たち次第だ、敵は自分の中にある」
「怖れる気持ちを持ってプレーするな、常に楽しんでプレーしろ」

日頃の練習や試合直前でもペトロビッチ監督はそう繰り返していたそうだ。西川は「耳にタコができるほど言っていた」と笑う。

だがGKはミスしたらそのまま失点に繋がるポジション。そんな重要な役割の人間が楽しめるものだろうか。

「緊張感のある中でも楽しむ気持ちを持ってサッカーすることで、よりいいアイデアが出るということも教えてもらいました。気持ちにも余裕が生まれてきていたので、ペトロビッチ監督の楽しむということができたと思います。もし周りがミスしても、切り替えてそれを生かしてやろう、という環境作りをしてくれていたので、ノビノビやっていたと思います」

西川は広島で2年間ペドロビッチ監督、次の2年間は森保一監督の下でプレーし、2012年、2013年とリーグ連覇を達成する。また2010年には下田崇(現日本代表GKコーチ)と一緒にプレーする機会も得た。

そして2014年、西川はペトロビッチ監督率いる浦和レッズへと移籍する。

「移籍を決めたのは、このクラブでリーグ優勝、タイトルを獲りたいと思ったからです。浦和はJリーグで一番の観衆が入りますし、良くても悪くても注目されるチーム。そのプレッシャーがどういうものなのか楽しみにしながら入ったんです」

2014年は2位、2015年と2016年はステージ優勝、2016年はヤマザキナビスコカップを獲った。苦しんだ2017年でもACLに優勝し、2018年は天皇杯優勝とタイトルは必ず獲ってきた。

「まだひとつだけ僕が来てからリーグタイトルが獲れていません。必ずそこは獲りたいと思っています。浦和は優勝しなければいけないクラブなので」

西川はそう決意を語る。日本代表も諦めていない。

「2022年カタールワールドカップのときは35歳か36歳ですけど、それは永嗣さんがロシアに行った歳と同じなので、問題ないと思います。狙います。狙っています。年齢で片付けてほしくないという思いはやっぱりありますから。GKのクオリティは何歳になっても持っている人は持っていますし、また代表に呼ばれたいという強い気持ちは持ってやっています」

では選ばれるためにはどうすればいいのだろうか。

「いかにチームで結果を残すかだと思うんです。これからも失点数というところを意識しながら、ずっとやっていきたいと思います」

日本代表監督、代表GKコーチはともに広島で過ごした経験を持つ人物。西川は自分の特徴をよく知ってもらっているはずだという。

「森保監督のサッカーもわかっていますから、また一緒にやりたいです。もちろん、森保さんも下田さんも僕のことは知っている、とは思いますね。まだ呼ばれてないのは、温めてくれているのかなと(笑)」

西川は明るい未来を信じている。そして過去への感謝も忘れていない。

「これまで自分を育ててくれた人たちの気持ちや、姿勢に感謝しないといけないし、自分がずっと出続けられているのも、自分のことを考えてくれている人たちのおかげだとわかっています。やっぱりトータルで振り返ると、僕は監督にすごく恵まれているというか、いい人ばかりに出会えているというサッカー人生かと思っています」

西川は「まだまだ若手には負けられないという気持ちが強い」という。と、同時に願っていることも一つあるそうだ。

「永嗣さんとまた一緒にやりたいというのはすごく思います。永嗣さんは、今、試合に出てないですけど、そろそろ日本に帰ってきてくれるんじゃないかと期待しているんです。浦和に入ってくれるのも全然いいですよ。そこでまた切磋琢磨できますから!」