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1986年よりモデルとして活動を始め、1988年『バカヤロー!私、怒ってます』で映画デビュー。『M/OTHER』、『殯の森』など国際的に評価された映画や、ドラマ『最後から二番目の恋』、『99.9-刑事専門弁護士-』などで活躍。

カンヌ映画祭グランプリ受賞の河荑直美監督、小林政広監督、瀬々敬久監督、園子温監督をはじめ、名だたる映画監督から熱烈オファーを受ける日本映画界のミューズ、渡辺真起子さん。独特の存在感で唯一無二の魅力を放つ渡辺真起子さんにインタビュー。

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◆女優になることは10歳のときに決意

―小さい頃から女優志望だったそうですね-

「そうです。10歳ぐらいですかね。小学校4年生のときに職業を女優にしようと。まあ、女優という意識はあまりなかったと思うんですけど、俳優になりたいなって」

―10歳というと、演じるということがまだあまりわかってないと思うんですが-

「そうですね。演じるなんていうことを多分、わかってなかったでしょうね。学校の課題授業で、演劇クラブみたいなのに入ることになっちゃったんです、ものの流れで。

私はどちらかというと、学芸会でも役が振られないタイプでしたけど、『人数がそろわないとなくなっちゃいそうなクラブに入ります』って言ったら、それが演劇部だったんです。顧問の先生も、『俺もやったことがないけど、担当になっちゃったんだよね』っていう感じでした」

―顧問も演劇を知らない先生ですか-

「そうです。それで、みんなで本を読みながら『メソッド(演技法)っていうのがあるみたいだけど、それは何ですか?』とか『リラックスしなきゃいけないらしいけど、それって何ですか?』みたいな感じだったんですけど、グループワークがとにかく楽しかったんですよ。

リーダーシップを取ることにもなり、少し学校や社会のなかに自分の居場所みたいなものがパッと見えた感じがして…。そんな体験があまりなかったので、『じゃあ、やる』みたいな。一応、公演なんかやっちゃったりして、ほめられちゃったりなんかして(笑)」

-人数は集まったんですか?―

「それが、いろんな友だちに声をかけたら、どんどんメンバーが増えていったんです。それで、公演をやると、意外と学校の生徒たちが見に来てくれたので、その演目を何にするかとか、衣裳をどうするか、ライティングをどうするかみたいなことをやってました。

そのあとずっと何年も演劇クラブみたいなのを続けていくんですけど、チケットを手刷りで作ってみたりとか。果ては脚本を書いてみたりとか。『豆まき週間に何かやってくれ』って言われたら、豆まきの昔物語を創作したりなんかして(笑)。まあ、その自分が稼働している感じがすごく充実したんでしょうね。それでこれを職業にすれば良いって。

だから、何かになりたいと思って考えたというよりかは、その楽しいことを仕事にしようという感じ。ちょっと誰かに受け入れられたという思いが強かったんでしょうね。

それまで何となく学校のなかでも、存在感がフワフワフワフワしていたので…。自分の居場所を見つけたという感じがして、俳優になりたいと思いました」

―ご家族には俳優になりたいということは?―

「話しました。私が中学生ぐらいのときに、『ションベンライダー』(1983年・相米慎二監督)という映画のオーディションの公募があって、それに応募するには、未成年だから親の承諾が必要だったんです。

それが多分最初でした。俳優になりたいと言った最初だと思います。わりと固い両親だったので、『まずきちんと勉強をして、学校に行って、芝居がやりたいんだったら、大学に行って、そこでもう一度選択し直しなさい』みたいなことを言われましたね」

―それでオーディションはあきらめたんですか-

「はい。あきらめたんですけど、悔しかったですね。出来上がった映画を見たら、子どもたちのおとなびた感じが意外にリアルで、等身大という言葉がぴったりくるのかどうかわからないんですけど、何かなりたいものになってじゃなくて、存在そのものでいるというイメージがすごく強くて、それはステキだなあって思いました」

―今の渡辺さんはまさにそういう感じですよね。独特の存在感だと思いますが-

「そうですかね。自分じゃよくわかりません。まあ、何か好きな居方みたいなのは、少しだけあるかもしれないですね。それは自分の不器用さみたいなこともあると思うんですけど。これしかできないというのも悔しいですけど、『所詮私がそこに立ってるんだよね』って。

何か別のものにはなれないけれど、私がどこでどんな風に生まれて、どんな風に育って…ということで想像していきます。それで、わからないことはわからないまま抱えても良いのかもしれないという風に演じることに向き合っています」

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※渡辺真起子プロフィル
1968年9月14日生まれ。東京都出身。1986年よりモデルとして活動を始め、CM、雑誌、ファッションショーなどに出演。1988年、『バカヤロー!私、怒ってます』で映画デビュー。1989年、ファッション誌『CUTIE』の創刊号の表紙を飾る。

『2/DUO』、『M/OTHER』、『殯の森』、『チチを撮りに』など多くの映画に出演し、数々の映画賞を受賞。ドラマ、CM、舞台、国内外の映画祭で審査員をつとめるなど幅広い分野で活動を続けている。

 

◆遊びすぎて高校をクビに?

何かを押し付けられることなく、自由にのびのびと演技をすることに魅了され、俳優になることを決意したという渡辺さん。俳優になるという決意はゆるぐことはなかったが、その方法、手段がわからず、模索する日々。高校時代、決め事の多い演劇部には敢えて入らなかったという。

―高校生活はいかがでした?-

「高校は放校になっちゃうんですけど。まあ、ちょっと遊びすぎちゃったというか…。思春期のときには世の中のいろんなことがあるじゃないですか。洋服にも興味が出たりとか、アルバイトをしてみたくなったりとか、とにかく自由になりたくて…。

まだ未成年だったし、できることには限りがあるし、両親の圧も結構強かったので、とにかく逃れきれないことから逃れたかった。

例えば家族だったりとか、地域だったりとか、何か自分を受け入れてくれてないかもしれないものから逃れたいみたいな、だから受け入れてくれる人を探しに町へ出たかったんですよね、きっと。

演劇も学校に行って学びたいと考えていたんですけれど、うまく進路が自分で切り開けなくて…。不勉強だったところは大いにあるんですけど、年頃だったし、ソワソワして町に遊びに出ちゃったんですよね。

今思えば、少し高校になじめなかったんじゃないかな。でも、そんなことを考える余裕すらなく、いても立ってもいられなくて町に繰り出して、学校には席がなくなっちゃいました(笑)」

―モデルの仕事を始めたのは、その頃ですか?―

「18歳になる頃だったので、それとスライドするように。もちろんずっと俳優をやりたいとは思っていたんですけど、何かきっかけがないか、どうすれば良いのか、何をやりたいのか、劇団に入りたいのか、映画の俳優になりたいのか、自分が整理できなくて、全部がバタバタしていました。

周りにそういう人もいないし、親はまったく協力的ではないし…。だから、高校の3年間は、とにかく映画やドラマをいっぱい見ました。レンタルビデオを借りられるだけ借りて、お芝居を見たりして、それを見ながら、色んな俳優さんたちのバックボーンを自分でコツコツコツコツ調べたりしていました」

―スタイルも良いし、カッコ良いので、イケてる女子だったのでは?―

「いやいや 全然イケてないです(笑)。あまりコミュニケーションが上手じゃなくて。結構孤独感を、自分のなかで味わえるだけ味わっていたんですよね。私は何か外様感が強くて、自分がどこにもなじめないって感じをずっと抱えたまま、生きていました」

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◆モデルの仕事を始めるも…笑えない

―モデルの仕事を始めたのは?―
「アルバイトするなら、俳優に近いほうが良いって。そっちを狙っていったんです。それをわりと虎視眈々と狙ってたんですけど、運が良いというか、やりませんかというおはなしをいただいて。

高校も退学になっちゃったので、両親も、『仕事しなきゃいけないね』って言っていたので、『じゃあ、モデルやっても良い?』って聞いたら、『よくわからないけどいいよ』って感じでした。俳優という職業に対してはまだ『うーん』って感じだったんですけど」

―仕事はコンスタントにあったんですか-

「そうですね。 結構真面目にやっていました。そうは言っても、いわゆるファッション誌を毎月飾るようなレギュラーの仕事は少なくて、CMのオーディションに行ったら受かるという感じで、打率は良かったんですよね。

単発のコマーシャルは一番多かったんじゃないかな。それだけ露出が多いですから、どんどん覚えてもらえたし、勢いのある子だって認識していただいて、結構頑張りました」

―そのときはモデルの仕事をしながら、どうやって女優になるか考えたりしていたのですか?―

「いや、その前に、モデルのなかで、こんな雑誌がやりたいとか、あんな仕事がしたいって、結構最初からあるんですよ。好みがあったんですね、生意気に。

で、それは今の関わっている映画の作品のスタイルとも近いんですけど、やっぱり、ちょっとインデペンデントなものが好きだったり、『今』というものが感じられるものが好きでした。何か自分にできるものって、そういうものなんじゃないかっていうふうに自分勝手に思っていました。

普通にニコッて笑って美しいわけではないし、背が十分高いわけでもないし、その消去法じゃないですけど、自分がどこにどんなふうにいたら職業として、より活かされるんだろうって…。

結構一心不乱に真面目に考えてました。はた目には、ちょっと自由そうな女の子というのをやっていたけど、結構、不自由でした。『そんなにニコニコ笑ってられません。そんな毎日毎日笑えない』って、泣きべそをかいたこともありましたね(笑)」

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◆映画デビューしたのに海外へ?

-モデルとして活動を始めて2年後には、映画『バカヤロー!私、怒ってます』でデビュー-

「そうなんですけどね、まだ早いと思っちゃったわけですよ。まだちょっとモデルをやりたいんで。まだちょっといいかなって。

でも、コマーシャルで使っていただいたことがある中島哲也さんだからやってみたんですけど、自分が下手くそというか、何もできてないということを、だんだんそこから知っていくんですよ。やばいって。

ちょっと芝居っぽいことをしたら、『お前、芝居っぽくてダメだ。うまいとダメだなあ』って言われて、『それはどうとらえたら良いのかな?映画だから芝居っぽくて良いんじゃないか。うまいとダメって何?何か面白いことを言われてるなあ』って。

それで、もう一度俳優って何だろうって考えたかったし、もう少しモデルの仕事を続けたくて、モデルをやって、外国に行ったりとか。ブラブラして…」

-外国は仕事で?-

「20歳のときだったんですけど、『やれる仕事をやっている私ではなくて、やりたい仕事をやれる私になりたい』と思って。事務所も移ったりして転機にはなったんですけど、とにかく仕切り直しをしようと思って。

でもまあ最初にニューヨークに行ったら楽しすぎちゃって。3、4ヶ月くらい遊んじゃったんです。初めて親元を離れたわけですしね(笑)。

で、ニューヨークに行ったら、何もできない私がいて『何もやってないじゃん』って(笑)ついでと言ったら何ですけど、そこで何かできるんじゃないかと、一応事務所のアタックはしたり、仕事のことも学校をのぞいてみたりもしたんですけど…」

-エージェントに売り込むにしても語学力はどのくらいだったんですか?-

「全然。英語は学校で習った劣等生の程度のもので、しゃべれませんでした。駅のアナウンスもわからないし、まず、ずっと実家暮らしだったので、ひとり暮らしは初めて、ご飯は3食作らなきゃいけないし、ゴミも出さなきゃいけない。そういうことを一気に自分でやらなければならない状況に、ほぼほぼ半分は泣いてましたよ。

『何で郵便局に行くだけでこんなに時間がかかるんだ』みたいな感じで(笑)。『寂しいなあ』って思いながら。途中、友だちが一緒に来て、ルームシェアしたりとかしましたけど、その友だちともケンカになっちゃったりして。そのうえいろんな人に『お前、プラプラしてんじゃねえ』って怒られてました」

ニューヨークで約4ヵ月過ごし、いろいろな人種、いろいろな職業、いろいろなセクシャリティ、音楽、芝居、映画…etcと出会ったという渡辺さん。自由に疲れて帰国するが、翌年にはパリからロンドンへと回る計画をたてて出発。結局ロンドンへは行かず、パリで一ヵ月あまり過ごして帰国。

海外でエージェントを回ったものの、言葉も通じない状態では契約も仕事を得ることも難しかったが、ほのかな可能性を感じつつ新しい出会いに大いに刺激され帰国、日本で仕事を頑張る決意を新たにしたという。

数多くの名だたる監督が起用を熱望し、絶大なる信頼を寄せる女優、渡辺真起子さん。次回、後編では女優人生、テレビドラマへの出演、国内外の映画祭審査員を務める思いを紹介。(津島令子)