窓の外は、屋根から下ろした雪の壁と大きな氷柱。おしゃべりもBGMも一切なし。しんと静かな工場で、職人たちが集中して取り掛かっているのは、稲庭うどん職人の必修科目「手綯(てな)い」作業だ。

写真拡大

稲庭うどんの里、秋田県湯沢市稲庭町は深い雪にすっぽりと覆われていた。2月中旬、日中の最高気温は氷点下2℃。稲庭うどんを製造する「寛文五年堂」の工場では、白い作業着を着た女性たちが窓の外の積もった雪に向き合うように並び、手綯(てな)い作業の真っ最中だった。話し声もBGMも機械音も一切なし。時折、手綯いを終えた生地が詰まった木箱を運ぶ従業員の足音だけが聞こえる。

「この手綯いは生地を細くのばしながらよりをかけ、掛け棒にあやがけする作業で、リズミカルな手の動きが大切。うどん職人の必修科目です。大ベテランはそうでもないけど、なかにはラジオやBGMをかけるとリズムが狂ってしまう職人もいるようなので、工場内はできるだけ静かにしています」

説明してくれたのは副工場長の佐藤栄悦さん。入社19年目の佐藤さんは、小麦粉に塩水を加えてこねる生地づくりから、出来上がったうどんの選別まですべての作業を経験した職人で、現在は製造工程のスケジュール管理、技術指導などを行なっている。

佐藤さんの説明によると、生地づくりから乾燥までには多くの工程があり、その合間、合間にうどん生地を“ねかせ”(熟成させ)て生地のコシを強くし、手綯いをしてよりをかけ、細くのばすのだという。各工程で自分の仕事を黙々とこなす職人たちの伝統の技に見とれてしまった。

その昔、稲庭村と呼ばれていた街道沿いの小さな宿場町は昭和31(1956)年に川連(かわつら)漆器で有名な川連町、農業の盛んな三梨(みつなし)村と合併し、稲庭川連町となった(昭和41年に稲川町に改称)。『稲川町史』によれば、乾麺である稲庭うどんを初めて製造したのは、稲庭村に住んでいた佐藤市兵衛ではないかとされているが、はっきりと記録に残っているのは、寛文5(1665)年に創業した佐藤吉左衛門(後に稲庭姓を名乗る)だ。

秋田県内陸南部に位置する稲庭一帯は秋田県内でも有数の豪雪地帯。冬の訪れが早く、春の遅いこの地では穀物の生産は年に一度だけで、冷害の恐れも多い。だからできるだけ確かな収穫が望める穀物が必要だった。小麦は稲に比べて寒さに強く、稲作に適さない土地でも栽培することができる。このため稲庭村の隣の三梨村では江戸時代、小麦の栽培が行なわれていた。収穫した貴重な小麦をよりおいしく、長期間の保存にも耐えられるように試行錯誤を繰り返したのが佐藤市兵衛や稲庭吉左衛門。小麦の主産地でつくられるうどんの数倍もの手間をかけ、丹念に乾麺に加工した稲庭うどんが、高価たるゆえんだ。

稲庭吉左衛門のつくるうどんは宝暦2(1752)年には秋田藩御用となり、「稲庭干饂飩」の名称を与えられた。しっかり乾燥させた稲庭うどんは高級保存食であり、秋田藩の贈答品としては最適。将軍家への献上品や大名たちへの贈り物として使われていた。名声が高まるにつれて偽物が出回るのは世の常。名字帯刀を許された吉左衛門は、偽物の横行を取り締まる「取り締まりの役」を命じられたとの記録も残っている。

その製法は一子相伝で門外不出。稲庭吉左衛門家に代々伝えられてきたが、万延元(1860)年に吉左衛門家から四男を養子に迎え、その製法を伝えられたのが佐藤養助家。江戸時代から連綿と伝えられてきた稲庭うどんだが、昭和に入ってからも地元の人たちの口に入ることは少なかった。稲庭地区のお年寄りたちは言う。

「われわれ庶民にはまったく縁のない高価な食べ物だったな。だからわれわれが食べたのは、普通のうどん。病気でもしねば食べることはできねがった。口当たりが良く、体の弱った病人でも食べられたからな。もっともわれわれに買えたのは、短くて安い切れ端だったどもな(笑)」

全国でも一部の食通たちにしか知られていなかった稲庭うどんが広く知られるようになったのは、昭和40年代以降のこと。製造業者の数は次第に増加していった。

稲庭周辺では多くの業者が「稲庭」の名のつくうどんの製造を始めるようになり、製品名もさまざま。その規模も昔ながらの家内工業的な業者から、100人近くの職人を抱える業者までと多岐にわたっている。しかし、稲庭うどんを真似た類似品や粗悪なコピー商品が出回るなど、ブランドのイメージダウンが危ぶまれた。そこで本場に伝わる伝統の味を守り、一致結束して良質なうどんをつくろうと、平成13年「秋田県稲庭うどん協同組合」を設立。現在は18社が加盟している。

「われわれ地元の業者は『稲庭』を名乗る以上、伝統の名に恥じないつくり方をしなければならない。そこで伝統製法の一定レベル以上をクリアした業者のみを組合員として認めるなど、品質の高さを守る活動をしています。業者によってうどんの幅など若干の違いはありますが、基本的に製法は同じ。これは手づくりの差とご理解ください」と同組合は語る。

長年にわたり一子相伝で伝えられ、受け継がれてきたうどんづくりの技。製法の門外不出を願った初代の稲庭吉左衛門だが、自分の編み出した技が、雪深い稲庭の経済を支える大きな柱となっていることには、納得しているに違いない。

■稲庭うどんのできるまで

1 こね

上質の小麦粉に塩水を加えてこね始める。塩分濃度は責任者がその日の気温や湿度に合わせて調整する。真冬でも汗びっしょりになるほどの重労働だ。まとめ上げた生地は、室に入れて熟成させる。

2 のばし

ねかせた生地のコシが強くなったところで、いよいよのばし。最初は饅頭形の生地を拳で均一にのばすのだが、生地の弾力が強いため、拳が押し返されるほどだという。その後、ローラーを使って厚さを均一にしながら、円形に整える。

3 板切り

のばした生地を2cm幅に切る作業。のばし棒をわずかに左に転がして止まったところが2cm幅。手のひらの感触でわかるという。「シュー、シュー」とリズミカルに包丁を引いていく。

4 小巻き

2cm幅に切った生地を、手で転がしながら角を取って、渦巻き状(小巻き)にまとめる。生地は3倍ほどにのびる。巻き終えた生地は、再び室に入れてねかせることでさらにコシの強さを増す。

5 手綯い

小巻きにした生地を掛け棒の下に置き、いよいよ手綯いが始まる。よりをかけて引っぱりながら、左右の掛け棒に8の字にあやがけする。綯い終えたものは霧吹きで湿気を与えた木箱に収め、乾燥しないようビニールで覆いをしてねかせる。

6 平押し

丸みを帯びていた生地に、のばし棒で強い力を加えて平らにする。生地の中にわずかに残った空気を完全に押し出し、生地の厚さを均一に。この平押しにより、麺には綺麗な角ができる。乾燥前に室に運び込み、さらにねかせる。

7 のばし、乾燥

最大限にコシが強くなった生地を乾燥室に運び込み、掛け棒の一本を干し台に差し込む。もう一本の掛け棒を持ち、押し下げるようにのばす。湿度と空気の流れに気を配り、2回に分けて慎重に干し上げる。

8 裁断

商品によって切り方もさまざま。最も多いのは、両端を切り落とし、一続きの麺から34cmのものを3本取る切り方。余った短い部分は「切り落とし」と呼ばれ、お徳用として販売される。

9 選別

手作業でつくられるうどんだけに、太さには多少のバラツキもある。裁断の途中で折れるものもある。職人が一本一本を目で確認し、長さと太さを揃える。指先で扇形に広げながら、太すぎるもの、細すぎるものをはじき出す。その手つきは実に鮮やかでスピーディーだ。

(文・小西一三 撮影・小松ひとみ)