「ずっと我慢してきたから」…相続財産600万円を“アジア周遊旅行”に充てた60代夫婦が、帰国後に直面した〈静かな分岐点〉
長年働き続け、子育てや住宅ローンを終えたあとに訪れる老後。そこでは「自分のためにお金を使いたい」と考える人も少なくありません。金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査(2023年)』によれば、60歳代二人以上世帯の平均金融資産は2,026万円ですが、実際には資産分布のばらつきが大きく、十分な余裕を持たないまま老後を迎える世帯も多く存在します。限られた資産を「生活の安心」に充てるか、「人生の充実」に使うか――その選択は、後の暮らしに大きな影響を及ぼすことがあります。
「人生で一度くらい、好きに使おう」
関東近郊に住む元会社員の健一さん(仮名・68歳)と妻の和子さん(仮名・66歳)は、相続で約600万円を受け取りました。和子さんの母が亡くなり、実家の預貯金を姉妹で分けたものです。
「生活費に回そうか」と健一さんは言いましたが、和子さんは首を振りました。
「私たち、ずっと我慢してきたじゃない。旅行もほとんど行かなかった。人生で一度くらい、好きに使ってもいいんじゃない?」
夫婦は話し合い、アジア各国を巡る長期旅行を計画しました。期間は約3ヵ月。クルーズと周遊ツアーを組み合わせ、費用は約400万円。残りは予備費に充てました。
「老後の思い出作りだね」
出発時、二人はそう笑い合っていました。
シンガポール、ベトナム、タイ、マレーシア。観光地を巡り、現地の料理を楽しみ、ホテルのバルコニーから海を眺める日々。
「こんな贅沢、初めてだね」
「仕事をしていた頃は想像もできなかった」
長年節約してきた夫婦にとって、その時間は確かに特別なものでした。写真は数百枚にのぼり、帰国後も何度も見返しました。
帰国して1ヵ月ほど経った頃から、家計の重みが現実として戻ってきました。年金は夫婦合計で月約22万円。持ち家のため家賃はありませんが、固定資産税、光熱費、食費、医療費を合わせると毎月の支出はほぼ同額か、それ以上になります。
総務省『家計調査(2024年)』では、高齢夫婦無職世帯の平均消費支出は月約25.6万円とされています。年金だけでは不足する世帯が多い実態が示されています。
健一さんは通帳を見て言いました。
「……やっぱり、400万円は大きかったな」
「楽しかったよ。でも…」
和子さんも同じ思いを抱いていました。
「後悔はしてない。でもね……もし病気になったらって考えると、ちょっと怖いの」
旅行中は忘れていた「老後資金」という言葉が、帰国後の生活の中で現実味を帯びてきたのです。
夫婦の間に生まれた“温度差”
問題は、お金そのものよりも「感覚の差」でした。
健一さんは節約志向に戻り、外食や買い物を減らし始めます。一方、和子さんは「せっかく経験した楽しさ」を手放したくありませんでした。
「また近場でも旅行したいね」
「いや、もう控えよう。貯金も減ったし」
同じ旅行を経験したはずなのに、帰国後の価値観は少しずつズレていきました。老後の資産は、一度使えば戻りません。平均寿命を考えると、60代後半はまだ老後の入口に過ぎません。
厚生労働省『令和6年簡易生命表』によれば、65歳時点の平均余命は男性約19年、女性約24年。60代後半でも20年前後の生活期間が想定されます。
400万円は、月3万円の補填でも約11年分に相当します。旅行で短期間に使ったことで、長期の安心資金が減った形になりました。
ある日、健一さんが言いました。
「これからは、少し生活を見直そう」
それは責める言葉ではなく、現実を受け止める提案でした。和子さんは頷きました。
限られた資産を「思い出」に使うことは間違いではありません。しかし、その後の生活設計とのバランスが崩れると、不安や葛藤が生まれます。
老後資金の使い方には正解がありません。ただ一つ確かなのは、「使う喜び」と「残す安心」は、同時には最大化できないという現実です。帰国後に訪れた静かな変化は、贅沢の代償というより、「人生の優先順位」を問い直す時間だったのかもしれません。
