新京成電鉄は2025年4月1日、親会社の京成電鉄と合併し、新京成線も同日から「京成電鉄 松戸線」へと路線名を改めた。開業から79年目を迎えた“松戸線”の歴史は、旧日本陸軍との関係にとどまらない。“寅さんの街“「葛飾柴又」(東京都葛飾区)への延伸計画や、自社の事業エリアへ進出しようとした他社鉄道との攻防戦、大手電機メーカーとの関係性など、昭和時代の新京成電鉄にまつわる”裏”歴史に迫ってみたい。

※トップ画像は、昭和時代の新京成線(現・松戸線)をゆく100形電車=1984(昭和59)年12月、上本郷駅〜松戸新田駅間(松戸市仲井町)、撮影/菅野秀行

旧財閥が”あと押し”した松戸駅開業

この4月1日から、長年親しまれて来た“新京成線”の名は、「松戸線」へと改称された。松戸線は、松戸駅(千葉県松戸市)と京成津田沼駅(千葉県習志野市)を結ぶ。耳がなれるまでは、「以前は新京成線だった・・・」と、枕詞を必用とすることもあるだろう。先の大戦が終わりを告げ、今年で80年を迎える。そうした年に、松戸線の前身となる旧日本陸軍・鉄道第二連隊「軍用”松戸線”」の名が、“先祖返り”したのは何かの縁であろうか。

さて、松戸線が走る船橋市内には、かつて軍需製品を生産していた「日本建鐡工業」という会社があった。同社は、軍事工場として航空機(戦闘機)の部品製造を担っていた。 そしてなにより、三菱財閥(現・三菱グループ)との関係も深かったという。戦後、1950(昭和25)年に会社は解散したが、現在は三菱電機の子会社となった「日本建鉄」が事業を継承している。新京成線は、この「日本建鐵工業」の存在によって、線路を松戸駅まで延伸することができた、と言っても過言ではないのだ。

新京成線は建設当時、“資金不足”により鎌ヶ谷初富(現・初富/鎌ヶ谷市中央)駅から松戸駅までの延伸工事が中断する事態となっていた。そこで、この日本建鐵工業と関係が深かった旧三菱財閥が、その理由は定かではないものの、新京成電鉄に対し「資金援助」を行ったという。事実、これによって延伸工事は再開し、松戸駅開業を果たしている。

 “火の無いところに煙は立たない”ではないが、この延伸工事に“協力”したとされる「三菱グループ」との間で、いったい何があったのだろうか。まことしやかに伝わる話として、「建設資金を拠出する代わりに、新京成線で使用する電気機器は”三菱製品”を購入する」といった“密約”があったのではないか、ともいわれる。実際のところ、新京成線(現・松戸線)で使用している“電車の電気部品”などには、「三菱電機」の製品が多用されており、今なお“鶴の恩返し”は続いているのだという。このことは、新京成電鉄50年史のなかでも触れられており、古き良き時代が“新京成線を松戸へと誘った”のであろう。

新京成線(現・松戸線)の電車は、三菱電機の車両部品(電気機器)を多用している。この車両は、2021(令和3年)年まで活躍した“タヌキ顔”の8000形電車=2005(平成17)年4月23日、三咲駅〜滝不動駅間(船橋市三咲)

三度も場所が変わった新津田沼駅

松戸線のレール幅は、京成線と同じ1435mmだが、新京成線が開通したときは、JR在来線と同じ1067mmだった。なぜ、レールの幅が過去と現在で違っているのか。それには、”京成電鉄”が深く関係している。京成津田沼駅(習志野市津田沼)には、1981(昭和56)年まで駅に隣接して津田沼第一工場という車両整備工場が設置されていた。その後、1953(昭和28)年にこの工場を拡張することになり、現在の「新津田沼駅」の裏手に第二工場を建設した。

この場所は、旧日本陸軍・鉄道第二連隊の材料工廠(こうしょう)跡地で、現在はイオンモール津田沼が建っている。ここを当時の大蔵省から借り受け、新たに津田沼第二工場を設置したのだった。そこで、この2つの工場を結ぶためには、新たに「連絡線」を建設する必要が生じた。そして、京成電車と新京成電車の異なるレール幅を統一しなければならなかった。これにより新京成線は、“京成線”と同じ1372mmへと改軌(変更)したのだった。

このとき、新京成線の線路は一つ手前の前原駅(まえばらえき/船橋市前原西)から、真っすぐ京成線へと伸びるように付け替えられた。開通当初の新津田沼駅は、現在の駅より300mほど松戸寄りにあった。しかし。この線路の付け替えによって新津田沼駅は、新たに敷設された線路上に移転し、直線距離で400mも移動してしまったのだ。この”駅移転”により利用客からは、「国鉄(現JR)津田沼駅までの乗換えが遠くなり、不便になった」と苦情が噴出したという。この「2代目」新津田沼駅」は、1953(昭和28)年11月1日に開業し、旧駅は廃止された。

3度の移転が行われた「新津田沼駅」の新旧見取り図=資料/国立公文書館蔵
「初代の新津田沼駅」があった辺りを写した現況写真=2025(令和7)年3月21日、習志野市津田沼

7年間だけ存在した「藤崎台」駅

1955(昭和30)年代になると、新京成線の沿線には「日本住宅公団(現・UR都市機構)」により造成された大型団地(公団団地)の建設が相次ぎ、新京成線も公団名を付した「高根公団駅(船橋市高根台)」を開業させるなど、沿線人口の増加とともに急速な都市化が進んだ。利用客や沿線の宅地造成を担ったデベロッパーからは、「新津田沼駅における国鉄線への乗換えの不便さ」が取り沙汰されるようになった。

このため、新津田沼駅は”開通当初”の位置へ戻すことになり、1961(昭和36)年8月に”乗客の利便性向上”を目的として、国鉄津田沼駅に近かった「初代の新津田沼駅」を復活させた。これにより、京成津田沼駅へと至る線路上にあった2代目の新津田沼駅は、駅名を「藤崎台駅」と改称した。これにより、駅は便利になったものの、松戸駅から來る電車は、“新津田沼駅”行きと“京成津田沼駅”行きという、二つの紛らわしい”行き先”が混在することになった。

「2代目の新津田沼駅(藤崎台駅)」があった周辺の現況写真。正面の道路が旧・新京成線の線路跡(道路の奥側が前原駅方向)=2025(令和7)年3月21日、習志野市津田沼

学校の移転で新津田沼駅も移転

1960(昭和35)年12月から、京成本線は都営地下鉄浅草線と「相互乗り入れ」を行うため、京成線のレール幅を再び1372mmから1435mmへと改軌させた。これに合わせて、新京成線のレール幅も1435mmへと再改軌させることになった。新京成線は、前述のとおり”津田沼車両工場”で京成本線とつながっていたため、レール幅を変更せざるを得なかった。もしもだが、このときに改軌していなかったら、現在の松戸線(新京成線)と京成千葉線の乗り入れは、実現していなかったかも知れない。

現在の新津田沼駅の場所には、1965(昭和40)年まで「千葉県立千葉工業高校」の校舎が建っていた。ここも旧日本陸軍・鉄道第二連隊の跡地だった。その後、同校は移転し、学校跡地は空き地となった。この土地に新津田沼駅を新たに建設すれば、国鉄津田沼駅にも近く、乗客の利便性は向上する、という合理的な判断により、駅の設置が決定した。これにより、それまでの「藤崎台駅」と「開通当初の場所にあった三代目の新津田沼駅」は廃止となり、現在の場所へ1968(昭和43)年5月に新津田沼駅は、三度目となる移転を行った。駅周辺の線路が、”S字”を描くようにカーブが連続しているのは、”紆余曲折”の歴史のもとに形づくられたものだった。

1960(昭和35)年12月からの都営地下鉄との直通運転に備え、レール幅を1435mmに改軌することを知らせる当時のチラシ=資料/宮野佳久コレクション(筆者所蔵)

他社路線の延伸阻止と地下鉄乗り入れ計画

かつての新京成線は、松戸駅からさらに京成金町線の柴又駅までの路線延伸と、京成本線の国府台駅へと至る「市川線」を建設する計画があった。どちらも実際に運輸省(当時)へ”鉄道敷設免許申請”を行っていたが、実現には至らなかった。

新京成「市川線」は、松戸駅から(千葉大学)園芸学部駅(松戸市松戸)、上矢切駅(かみやきりえき/松戸市の南南西に位置)、下矢切駅(しもやきりえき/同)、里見公園駅(市川市国府台)、国府台学園駅(市川市国府台)、手児奈駅(てこなえき/市川市真間〔まま〕)を経て、京成本線の国府台駅(こうのだいえき/市川市市川)までの5.9kmを結ぶ計画だった。この路線は、1953(昭和28)年9月に当時の運輸省に対して免許申請が行われているが、その前年となる昭和27年2月には「流山電気鉄道(現在の流鉄)」が、馬橋駅(まばし/松戸市馬橋)から市川方面への延伸を計画し、同様に免許申請を行っていた。ここに”競願者”としての、2者の争いがはじまった。

新京成電鉄は、「京成グループの地盤」への進出を企てた流山電気鉄道の“延伸を阻”止するためだけに、「市川線」を計画したに過ぎなかった。事実、1961(昭和36)年2月に流山電気鉄道が路線延伸の申請を取り下げると、新京成電鉄も同年4月に「市川線」の申請を取下げている。こうした事実からも、市川線は”実現することのない”計画路線だったと、言わざるを得ないだろう。

いっぽうの、柴又駅への延伸は本気だった。これは、“新京成線の延伸”として意図され、具体的には1956(昭和31)年3月に、運輸省への「鉄道敷設免許申請」が行われ、用地買収も進められた。終点となる柴又駅からは、京成金町線へ乗り入れ、”都営地下鉄浅草線”への直通運転も視野に入れた計画だった。路線は、1962(昭和37)年7月に敷設免許が認可され、松戸駅から園芸学部駅(前述の市川線に同じ)、松戸高等学校前駅(松戸市三矢小台)を経て”柴又駅”に至る4.7kmであった。

しかし、用地買収に苦戦を強いられ、千葉大学との調整難航(大学実習林の樹木保存方法が未解決)、国鉄(現JR)常磐線複々線化(地下鉄千代田線に乗り入れる常磐緩行線の建設)に伴い用地使用が不可能、市街地の用地買収困難といった理由から、度々の免許期限の伸長(延期)と、早期開業に向けた“ルート変更”をも模索していた。

その後、この計画は1971(昭和46)年7月に”免許失効”となり、実現しないままに終わった。すでに取得済みであった鉄道用地のうち、“松戸高等学校前駅”の建設予定地には、今も京成系列のスーパーマーケットが営業を続けている。そのほかの用地は、道路や宅地などへと転用されており、その痕跡を見つけ出すことは困難であろう。

「新京成電鉄市川線」の運行計画を示した列車ダイヤ(部分抜粋)=資料/国立公文書館蔵
「松戸柴又間線路平面図」。図の着色箇所は、用地取得が困難を極めた場所を示す=資料/国立公文書館蔵

鉄道連隊の面影を辿る

新京成線の線路が、右へ左へ蛇行しているのは「陸軍の演習線だったから」という話は、そのむかし仕事で何度も新京成線を利用していたこともあり、この話は耳にしていた。ところが、いつでも「鉄道遺構は見に行けるだろう」と高をくくっていたら、いつのまにか30年も経過してしまった。

新京成線(現・松戸線)の線路は、そのすべてが「旧日本陸軍の演習線跡地(線路敷)」を利用しているわけではなかった。カーブのきつい区間では、新たに用地を買収し、線路を敷設していたのだ。つまり、この区間には、手つかずのままの演習線が「廃線跡」として遺されているわけだ。具体的には、松戸駅〜上本郷駅(かみほんごう/松戸市上本郷)間、松戸新田駅(まつどしんでん/松戸市松戸新田)〜みのり台駅(松戸市松戸新田)間、八柱駅(やばしら/松戸市日暮〔ひぐらし〕)〜常盤平駅(ときわだいら/松戸市常盤平)〜五香駅(ごこう/松戸市金ケ作)〜元山駅(もとやま/松戸市五香南)間、初富駅〜鎌ヶ谷大仏駅(鎌ヶ谷市鎌ヶ谷)〜二和向台駅(ふたわむこうだい/船橋市二和東)間の6区間が、これにあたる。もちろん、戦後から100年を経過した現在では、宅地造成や道路への転換などにより、すでに失われた鉄道遺構もある。今回は、廃線跡、廃車体、文化財をそれぞれ1か所づつ見て回ることにした。

廃線跡に残される遺構は、陸軍用地境界標をはじめ、線路敷、橋台や橋脚といったものが随所で確認できるのだが、その中でも鎌ヶ谷市東道野辺(ひがしみちのべ)にある”アカシア児童遊園”にある「鉄道橋跡」を最初の訪問地に選んだ。ここは、鎌ヶ谷市の史跡にも指定され、その大きさからも当時の演習線の規模を肌で感じることのできる鉄道遺構だった。現役当時は、小さな川を越えていたようだが、現在この川は暗渠になっているという。「3径間(3つの鉄橋で結ばれていた)」もある立派な鉄道橋を支えた”橋台と橋脚”は、実に見ごたえのあるものだった。

次に訪れたのは、新津田沼駅の近くにある「津田沼1丁目公園」で、ここには鉄道第二連隊で使用した蒸気機関車「K2型134号」が、展示保存されていた。この機関車は戦後、国から旧鉄道連隊の資材払下げを受けた西武鉄道に引き取られたもので、その後、埼玉県所沢市にあった”ユネスコ村”で長年にわたり保存されていた。やがて、1994(平成6)年3月に同施設が閉園すると、再び“鉄道連隊ゆかりの地”である津田沼へと里帰りを果たした。公園の片隅に佇む蒸気機関車は、屋根がかけられた展示スペースの中で、静かに余生を送っていた。

さらに、この公園から見てJR総武線を挟んだ反対側にある“千葉工業大学”には、同地に置かれていた「鉄道第二連隊本部兵舎の正門(門柱)」がそのままに、「通用門」として使用されている。この門柱は、文化庁の登録有形文化財にも指定される貴重な存在だ。レンガ造りと洒落た門灯(復原品)との組み合わせは、往時を思い起こさせる雰囲気を醸し出していた。

探せばまだまだある鉄道連隊の鉄道遺構。今回は深追いはせずに、3度も移転を繰り返した新津田沼駅と藤崎台駅の跡地周辺を散策して、帰路についたのだった。

アカシア児童遊園内に鎮座する鉄道第二連隊”演習線”の鉄道遺構「橋台と橋脚」=2025(令和7)年3月21日、鎌ヶ谷市東道野辺
津田沼1丁目公園に保存される鉄道第二連隊の蒸気機関車「K2型134号」=2025(令和7)年3月21日、習志野市津田沼
千葉工業大学の通用門として今も使用される鉄道第二連隊本部兵舎の正門(門柱)=2025(令7)年3月21日、習志野市津田沼

路地裏で見つけた“本格二八蕎麦”

新津田沼駅周辺の散策を終えると、時計は14時を指していた。お腹が空いた。津田沼といえば、“ラーメン激戦区”の一つに数えられる地域でもあるが、少々へそ曲がりなゆえ、“ラーメン以外の食探し”と意気込み、新津田沼駅からJR津田沼駅周辺を歩きまわってみた。見つけました、ありました、お蕎麦屋さん。JR津田沼駅北口から徒歩5〜6分の住宅街にある、“本格二八蕎麦”が食べられる「つだぬまや」さんへ、いざ入店。

店舗はモダンな造りで、店内はテーブル席のほかカウンター席、座敷(小上がり)もあり、おひとり様から家族連れ、グループまで幅広い客層に対応しているのはうれしい。ランチタイムのラストオーダーは14時30分で、この日もご近所さんと思しきお客さんで、店内はにぎわっていた。早速、カウンターに座り、“二八蕎麦”を注文する。もちろん「もり」である。歩き回ってお腹がすき過ぎたのか、“ミニ天丼”のセットにしてしまった。

通称「お成り街道」(県道69号線)から路地へ入るとすぐに「つだぬまや」さんはあった=2025(令7)年3月21日、船橋市前原西
カウンターが7席あるのは、“ひとり蕎麦飲み”には打ってつけだ=写真提供/つだぬまや

 店内には、ほのかに出汁の香りが漂い、それだけでも生唾ものである。伺ったのはランチタイムだったので、”昼酒”は自粛。聞けば夜は、“蕎麦飲み”も大歓迎との由。ご主人は、元々日本最大のホテルチェーンの厨房で20年間、和食を担当していたそうだ。どうりでメニューには、“和のおつまみ”が充実しているわけだ。なんでも、ホテル勤務時代に長野県へ転勤したことがあり、そのときに出会った「蕎麦」の美味しさが忘れられなくて、ほどなくホテルを退職し、成田市内の蕎麦店で修業したのだとか。そして、11年前にこの地に店をオープンしたそうだ。

蕎麦粉は、北海道蘭越町(らんこしちょう)の農家さんから、定期的に“挽き立て”を仕入れ、風味を損なわないように店内での長期保存はしないというのが、ご主人のこだわりだという。蕎麦は、その日の気温や湿度に合わせた繊細な水加減で、ご主人自らが打つ。出汁に至っても”削り節”の「酸化」を避けるため、日々、削りたて、味かおりを引き立てることを心がけているそうだ。そんな話を聞いてしまうと、ますます食欲をそそられる。

午前の仕込みで1日の量を打つのではなく、お客さんの入りをみながら数回に分けて打つ“二八蕎麦”は絶品=写真提供/つだぬまや

さて、目の前に運ばれた「二八蕎麦」を実食する。蕎麦は、ほのかなそば粉の香りにコシと歯ごたえのある食感に感激。“つゆ”からも出汁のうま味豊かな“かおり”が漂い、丁寧に“かえし”を取っていることがわかる味わいだった。天丼も、ご主人自らが地元の農家に出向き、直接仕入れた野菜とあって本来の甘みやうま味が引き立つ、文句のつけようがない美味しさだった。

味わいと風味豊かな二八蕎麦「もりそば」=「つだぬまや」にて
野菜のうまみが凝縮されたミニ天丼。「もりそば(二八蕎麦)」とのセットで1330円=「つだぬまや」にて

「今度はぜひ、“月替わり蕎麦”も食べてみてください」と、丁寧な接客をしてくれたマネージャーさんから声をかけられた。4月の月替わりは、「“新たけのこ”の天婦羅」だそうで、これは絶対に「蕎麦飲み」で再訪しなければなるまい。“蕎麦焼酎の蕎麦湯割り”なんて最高だろうな、と想像するだけで顔がニヤけてくる。食後に、“蕎麦粉を使用したデザート”もオススメされたのだが、もうお腹いっぱいである。これも次回の楽しみとして、店を後にしたのだった。

4月の“月替わり蕎麦”は「新たけのこ」の天婦羅とのセット=2025(令7)年3月21日、写真提供/つだぬまや
蕎麦粉を使った”食後のデザート”も、はずせない。「そばくずもち」、「そばプリン」=つだぬまやメニューより

〔店舗情報〕「つだぬまや」船橋市前原西2-5-6、電話047-407-4158、営業時間/昼11:30〜14:30(ラストオーダー)・夜17:30〜21:00(ラストオーダー)、定休日/毎週火曜・水曜と、月曜に不定休が月2回あり、駐車場は近隣にコインパーキングあり。

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。