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1972年型ポルシェ999(ポルシェ・カイエンのご先祖様)

つい最近、第3世代モデルが発表されたカイエン。背の高いスポーツカーなどと呼ぶ向きもあるが、手を差し入れる隙間もないほど狭い低扁平タイヤとホイールアーチの隙間は、まるで911のようだ。しかし、1972年にこの手のクルマが企画されていたら、状況は違ったものになっていただろう。そんな仮定をしたポルシェSUVの想像図、車名は999とでもしようか。

まず必要なのは、サスペンションの大きなトラベルとゴツいタイヤを備え、オールテレイン性能があること。フロント周りが911似になるのは当然として、その他の部分はフォルクスワーゲンのようになりそうだ。エンジンはもちろん空冷フラット6をリアに積み、ピラー部にはオイルクーラーを冷却するためのエアベントが設けられる。ボディサイドに記されたカイエンの文字は、911におけるカレラのようなグレード名を想定。ビニールルーフやフロントのドライビングライト、ステップとしても機能するサイドシルプロテクターといった専用装備で、差別化を図っている。

1955年型メルセデス・ベンツ119(メルセデス・ベンツAクラスのご先祖様)

50年代半ば、ドイツはいまだ戦後復興の真っ只中で、多くのドイツ人は自転車を日々の足にし、クルマに乗るといってもせいぜいBMWイセッタに代表されるバブルカーだった。

その頃、この国の自動車産業の中心的存在であるメルセデス・ベンツは、ポンツーン・セダンやSLを、富裕層向けに製造していた。それから40年後に、自分たちがコンパクトな大衆車を手がけ、ましてやそれが走行テストで大失態をやらかすなどとは想像もしなかっただろう。

もしも彼らが、色彩にあふれた50年代のファッションに興味を示し、フォルクスワーゲン・ビートルと自社の180とのギャップにハマるようなクルマを生み出したら、というのがこの「119」のコンセプト。エンジンは前置きで、それを覆うのは319トランスポーター的な風貌のノーズだ。

1955年型プジョー103(プジョー1007のご先祖様)

今やプジョーは、フランス3大メーカーの一翼を担う。常に意外性のない、コンサバティブなメーカー、いわばフランスのメルセデスだ。1955年には、戦後式にフェンダーを一体化したポンツーン・ボディを持つ403を導入したが、戦前風にボディからフェンダーが突き出した203もカタログに載せていた。いずれもメカニズムは旧態化したもので、顧客の支持を十分に集めたとは言いがたい。

その当時のクルマでさえ、パリのストリートは走るのに狭く、高品質な小型車があれば、そんな繁華街で暮らす中産〜上流階級のひとびとの需要を十分に掘り起こせたはずだ。質実剛健な大衆車とは毛色の異なる、それでいて頑丈なクルマ、203の要素と403の風貌を掛け合わせた小さなボディに、レストランや煙草屋の前の狭いスペースに駐車しても乗り降りしやすいスライドドアを組み込んだなら、おそらくは。

たしかに、この絵にあるような曲面ガラスのフロントウインドウは生産コストがかさむだろう。しかし、着飾ったドライバーが、それを道行くひとびとに見せびらかすにはピッタリだ。

1960年型アルファ・ロメオ・ジーナ(アルファ・ロメオ・ミトのご先祖様)

技術的には、実現が難しいクルマだったはずだ。60年代のアルファ・ロメオは、FRのスポーティセダンやスポーツカーばかりを造るメーカーだったのだから。アルファのエンジニアたちは、そのメカニズムをフィアット500並みのサイズに凝縮し、4座コンパクトカーに仕立てることはできなかっただろう。一方で1959年には、アレック・イシゴニスがミニを生み出している。きわめて小さく、しかし俊敏で走りが楽しいクルマをだ。最適解はそこにあった。駆動輪を前に持ってくるだけだったのだ。

もしもイノチェンティではなく、アルファが英国製メカニズムをベースに、お得意のツインカムヘッドでエンジンをグレードアップし、ジュリエッタの顔付きやジュリアのボディラインを引き写したコンパクトカーを造っていたら。車名はイタリアの女性に見られる短いもの、そう、ジーナなんてどうだろうか。きっと、500とシェアを奪い合ったに違いない。

しかし、現実にはそうならなかった。アルファの販売は低迷し、1986年にはついにフィアットの軍門に降る。やがて、アルファ名義の小型車が誕生するが、それは残念ながらグランデプントのプラットフォームをベースに、アルファの要素を盛り込んだだけのクルマだった。その名は、ミトという。

1956年型BMW E07(BMW i8のご先祖様)

自動車草創期には、エネルギー源は多岐に渡った。2大勢力はガソリンと電気だが、そのほかに薪や蒸気、軽油、ガスなども用いられていた。もしも、そのまま電力が優勢なままだったら、その後の状況は大きく変わっていただろう。1956年のBMW、現在のような「インテリジェント」を意味するiブランドを導入したとは思えないが、スポーツカーの507ががE07になった可能性は否定できない。ガソリンスタンドではなく、充電スタンドが街にあふれていたかもしれないのだ。

そうなっていたら、エンジンルームに首を突っ込んでアルミ製の3.2ℓV8を潤滑させるオイルの量をチェックするのではなく、充電プラグを差す前にバッテリーの液量を確認するのがルーティーンとなっていたかもしれない。さらに、シザースドアや繊細なバットレスを備えるi8のように流麗なスタイリングも兼ね備えていれば、価格面で競合したメルセデスの300SLに一矢報いていたかもしれない。

1962年型シトロエン・シック(シトロエン・カクタスのご先祖様)

60年代の初め頃のクルマにはもっと冒険が必要だったが、シトロエンだけはそれが当てはまらない。古き良き2CVと前衛的なDSがすでに存在していたのに加え、1961年にはアミ6が登場する。これは2CVがベースの小型セダンだが、2CVよりはやや大きく、より洗練され、造りの粗さは影を潜めていた。

この新型車、ほかとの差別化や実用性の点では、もはや不足はなかった。あとは、エレガントなラインのエクステリアと、新時代のサイケデリックなパターンのファブリックを用いたインテリアとを兼ね備えていれば、センセーションを巻き起こし、パリの路上でひときわ目立つ存在になっていただろう。

それを仮定したのが、このシックだ。まさにアヴァンギャルドなこのモデルが実在したなら、アミに投入するにはコストが掛かりすぎるDSのテクノロジーも、簡素化して採用しただろう。もしくは、アミ6のメカニズムに異なるボディを載せた、シンプルだが高級で実用的なシック6だったかもしれない。それは田舎くささを感じるアミに対し、より大きく都会的な派生モデルとなったはずだ。

1936年型テスラ・モデルC(テスラ・モデルSのご先祖様)

100年以上前のニューヨークでは電気自動車が大人気で、1900年にはガソリン車より多くが街を走っていた。また、ヘンリー・フォードが、妻のクララがモデルTに乗るのを嫌がったので、1914年型デトロイト・エレクトリックを購入することになった、というのは有名な話だ。そのクルマは、一充電につき30km/h程度で130kmほど走行可能だった。そのままEVが自動車社会の主役になっていたら、街は今よりずっと静かで、大気汚染も多少はマシだったのではないだろうか。

交流電源の考案など、電気の発展に功績を残す発明家のニコラ・テスラが、もしも億万長者の出資を得て、ニコラ・テスラが最新技術を用いた未来的なクルマを創り上げていたらどうなっただろうか。1930年代半ばまでに、アメリカ国内の充電設備の整備は、ガソリンエンジンへ対抗するのに苦戦する状況だった。しかし、大都市では、静かでクリーンなEVが主流になれたはずだ。

バッテリーの進化と都市部の限られた速度域は、航続距離の延長とより短い時間での充電を可能にしただろうし、このモデルCほどのクルマでなければ、自尊心の高い映画スターや財界の大物でなくとも手に入れられただろう。もっとも、それが現実になっていたとしても、3年もすれば世界中の自動車メーカーは戦時体制へと進んでいったので、ニコラ・テスラ・モーターズが存在したとしてもモデルCに続くクルマは生まれなかったかもしれない。そしてそれ以降、やはりガソリン車優勢の世の中になったのだろう。

1979年型レンジローバー・イヴォーク(レンジローバー・イヴォークのご先祖様)

オイルショックなどどこ吹く風とばかりに、欧州初のSUVが誕生したのは1970年代半ば。クライスラー傘下にあったフランスのマトラ・シムカが開発したランチョがそれだ。レンジローバーのような本格クロカンよりも安価で、水洗いできるビニールシートを備えるなど実用に徹したこのクルマ、オンロード寄りのキャラクターで、大きくタフに見えるが、前輪駆動モデルのみのラインナップだった。やがてマトラが、これも欧州初となるミニバンのルノー・エスパスを開発・生産するようになると、これに取って代わられるように姿を消した。販売面で成功したとはいえないが、80〜90年代の自動車市場における主流は、やはりコンパクトなハッチバックと3ボックスのセダンだったのだ。

しかし、その後はSUVブームが到来し、レンジローバーもSUV的な色合いを深め続けている。では70年代にレンジローバー/ランドローバー、そしてジャガーを傘下に収めていたブリティッシュレイランドが、マトラのようにハッチバックのプラットフォームでレンジローバー的なルックスのクルマを生み出していたら、さらにそこへジャガー的な高級感を盛り込んでいたら、果たしてどうなっていたのだろうか。しかも、当時のデザインは、現在のような安全基準のがんじがらめにならずに済んだのだ。

そう考えると、70年代のイヴォークを見てみたかったという気持ちに駆られるではないか。

1980年型アウディR8(アウディR8のご先祖様)

アウディはGTスポーツカーのアイデアを、長年にわたって温め続けてきた。ポルシェ924へのパーツ供給、2000年からのル・マン6連覇などを経験した彼らは、2006年にとうとうR8を発売する。

70年代に遡ると、スポーツカーの世界ではポルシェが、911と928、さらに924を擁し我が世の春を謳歌。当時のル・マンは、プロトタイプもGTもポルシェの独壇場だった。またBMWはランボルギーニと組んで、1978年にモータースポーツのホモロゲーションモデルとなるスーパースポーツのM1を送り出す。

そこでアウディは、1980年に発表したクワトロでラリー界の制覇に乗り出した。しかし、もしもル・マンがポルシェに牛耳られておらず、そこの覇権を狙ったアウディがクワトロのパワートレインを活用して、BMWのようにミドシップのスーパースポーツを開発していたら、おもしろいことになっていただろう。

4WDシステムが効果を発揮するのはウェットコンディションや荒れた路面のタイトコーナーから脱出するときくらいで、ウェイト増加によるデメリットの方が大きいかもしれないが、ここでは採用されるものと仮定したほうがおもしろいだろう。それはさておき、当時はBMWと協力関係にあったランボルギーニが、いまやアウディ傘下にあるというのは皮肉な話だ。

1977年型トヨタ・プリウス(トヨタ・プリウスのご先祖様)

70年代のオイルショックは、クルマを瞬く間に小型化させ、メーカー各社には電気自動車への関心を再び抱かせた。GMはシェベットをベースに、エレクトロベットと銘打ったコンセプトカーを製作したがおよそ50km/hで80km程度しか走れないものだった。

もしもこの頃、トヨタがプリウスのようなクルマを開発したとしても、当時の鉛バッテリーでは重く、走れる距離もたかがしれたものだったはずだ。

短距離しか走らない、市街地専用の移動手段やタクシーとしてなら、用途はあったかもしれないが。

1965年型ダッジ・バイパー(ダッジ・バイパーのご先祖様)

60年代半ばのダッジは、数多くの作品を残したクライスラーのチーフデザイナー、ヴァージル・エクスナーの物議を醸すような試みに沿って、新たなデザインの方向性を世に問うブランドだった。

もっとも、当時のデトロイトでは、全てのメーカーがテールフィンに取って代わるデザインを模索していたのだが。

そうした新時代のこけら落としに、火を噴くようなマッスルカーほどふさわしいものはない。その手のクルマを投入することで、低迷するブランドが息を吹き返すことも期待できる。

クライスラーが、それをダッジで証明してみせたが、実現したのは60年代ではなく、1991年のことだった。