ミラノ・コルティナ五輪で2つのメダルを獲得した堀島行真【写真:ロイター】

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デュアルモーグルで銀、モーグルで銅…飾らない素顔

 フリースタイルスキー男子モーグルの堀島行真トヨタ自動車)がミラノ・コルティナ五輪で輝いた。五輪新種目のデュアルモーグルでは銀メダル。2大会連続の銅メダルとなったモーグルでは、第2エアで大技「コーク1440」(斜め軸に4回転)を選択し、自らのスタイルを貫いた。

 そのモーグルでは大技を決めながらも、金メダルには届かず、一部ファンからはSNSで採点を疑問視する声も上がった。それは堀島のランがファンを魅了した証拠でもあった。

 堀島は中継局のインタビューで言った。「今日、これまですごく順調にきていた。85点の予選の滑りで、そのままいければというところもあったけど、おそらく少しジャッジの様子が辛くなってきて、大きな点数が見られない傾向に最後あった。そういう中で(決勝2回目に)5位通過で追い込まれていたところはあるかな」と受け止めた。今度は堀島の人間性を称えるコメントがSNSに相次いだ。

 振り返れば、8年前――。2018年平昌五輪でも人柄がにじむ場面があった。

 堀島は決勝で転倒して11位だった。前年の世界選手権で2冠を達成し、メダル候補に挙げられたが、大舞台は甘くなかった。一方、同学年の原大智(現在は競輪選手)が下馬評を覆す躍動で銅メダルに輝いていた。勝負の世界で明暗が分かれた。

 メダリスト会見が終了後、記者は会場の雪山で堀島とばったり会った。ただ、その距離は10メートルあった。大会に懸けてきた堀島の心情を考えれば、簡単に声はかけられない。正直、何と声をかけていいのか分からなかった。すると、堀島の方から小走りで記者のもとに近づいてきた。

「ありがとうございました」

 そう言うと、堀島は頭を深々と下げた。結果の悔しさは計り知れない。瞳は赤く潤んでいた。それでも気丈に、言葉は強かった。まだ堀島は当時20歳、大学2年生だった。

 真面目で、実直で、何より負けず嫌い。それゆえともいえる重圧と向き合った。そして乗り越えてきた。

2017年、競技から離れた1週間

 堀島が一気に名を上げたのは、平昌五輪前年の17年世界選手権。ノーマークの存在から2冠を達成した。つかんだ栄光は、重圧との戦いのスタートでもあった。

 注がれる期待と自己分析する実力が釣り合わなくなった。心配する周囲の声もあった。「あいつ笑わなくなったな」と。堀島は心の閉塞感を、必死に練習量で振り払おうとしていた。

 とにかく「何でも負けたくない」と自分を追い込み続けた。ただ、若者にとって、心技体のバランスは容易ではなかった。「追い込んでいった結果、気持ちも体も動けなくなってしまった」。それも事実だった。

 当時、日本代表チームの外部講師を務めていた上村愛子さんに何度も相談した。ワードにびっしり箇条書きで質問を記した。「一番楽しいと思うことは何か」「何の技術を出したら楽しいのか」など丁寧に助言をもらった。それでも当時は「自分と向き合っていない時は、何も入ってこない」。理解するには時間が必要だった。

 同年の8月下旬だった。競技から1週間離れた。岐阜・池田町の自宅。夏の陽ざしの中で、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。目を閉じて、心をリセットした。ある哲学に行き着いた。「自分に負けた。もう誰に負けても何とも思わない」。違う角度から、自分を見つめると、心が少し軽くなった。同時に腹を括り直した。時間はかかったが、上村さんをはじめ、家族、周囲の人からの助言も胸に染みてきた。

 原点に返った。幼少期から父・行訓さんと二人三脚で積み重ねてきたエア(空中技)だった。小学生時代は夏休みの宿題では「ウォータージャンプ日記」を付けながら、エアを磨いていた。中学時代には実家の庭のトランポリンで空中感覚を磨いてきた。自分のスタイル、世界で戦う武器を再確認。今回のミラノ・コルティナ五輪で「コーク1440」の勝負を選んだのも、堀島らしかった。

 勝負の世界は、常に結果がともなうわけではない。11位だった平昌五輪の後は「気持ちが入り過ぎた。オリンピックの世界、勝負の世界を改めて感じた。4年かけて成績を出せる選手になって戻ってきたい」と言った。その言葉通り、4年後の北京五輪では銅メダルを獲得した。そしてミラノ・コルティナ五輪では新種目に採用されたデュアルモーグルも含め、2種目で表彰台に立った。

 4年に1度の祭典。現状、ウインタースポーツが国民的に注目される機会は限られる。オリンピックの舞台で、堀島行真の生き様が強くにじんでいた。

(THE ANSWER編集部・上田 悠太 / Yuta Ueda)