野球の未来を見ていた男〜近藤貞雄伝
証言者・権藤博(後編)

前編:「権藤、権藤、雨、権藤」が生んだ革命 日本初の投手分業制を近藤貞雄はなぜ発想したのか>>

 近藤貞雄が投手分業制を発案するきっかけのひとつとなったのが、短命に終わった権藤博の野球人生だった。中日の投手コーチを務めていた1961年当時、投手起用の権限は監督の濃人渉とヘッドコーチの石本秀一が握っていた。近藤は、新人だった権藤が酷使される状況に疑問を抱いていたものの、自身もまだ「若輩だった」ため、意見を述べることも提言することもできなかった。

 当時の近藤は36歳。10歳上の濃人は戦地での軍隊経験があり、投手が肩や肘を痛めても「命まで取られやせん」と言い放つような、いわば昔気質の指導者だった。さらにヘッドコーチの石本秀一は、近藤より28歳年上。広島商監督時代に行なった"真剣刃渡り"の指導で知られる精神主義者で、広島カープの初代監督も務めた。同じ広島県出身の濃人とは師弟関係にあり、近藤が西鉄へ入団した際の監督でもあった。

 そうした人間関係のしがらみもあって酷使に歯止めはかけられず、肩を故障した権藤の投手生命は実質3年で終わった。近藤にすれば、その罪滅ぼしか、反省からか、ひとりのエースに負担をかけない起用法を考えるに至ったのだ。

 ただ権藤自身、酷使を厭(いと)わなかった。「自分は5年でつぶれてもいい。その間に投手としての頂点を極めたい」と石本に言っていた。

 それでも近藤の胸中には、「ほかのピッチャーの力をひとりでも多く引き出して、権藤の負担を減らすことができたんじゃないか」との思いが残ったという。投手分業の原点のようだが、当人はこの言葉をどう受け止めるのか。権藤に聞く。


1961年にシーズン69試合に登板し、35勝を挙げた権藤博氏 photo by Sankei Visual

【35勝よりもうれしかった監督の言葉】

「それはもう、あとで言ったってしょうがない話じゃないですか。近藤さんらしいね。あとから理屈をつけてくるけど、じゃあ、その時に何でやらなかったか。その時にやらなかったら、あとでどれだけ言ったって何にもならないですから......。ただ、たしかに監督の濃人さんが権限を持ってますから、負担を減らそうと思ってもできなかったのはしょうがないですね」

 権藤が言う「権限」とは、投手陣全体の起用ではなく、濃人が権藤を起用する「権限」だったのかと思えてくる。

「1年目、最初は中4日ぐらいのローテーションで回ってたんです。それが5月のある試合で完封した翌日、同点になったところで次の回から出て行って、結局、1点取られて負けるんだけど、その時に監督の部屋に呼ばれて。怒られるかな、と思ったら『稲尾でも杉浦でも、完投した翌日に投げるんだから、これからも覚悟しとけ!』って言われて。うれしかったですね」

 西鉄(現・西武)の稲尾和久は監督の三原脩に抜擢され、1年目の56年に21勝、57年から3年連続30勝以上。その3年間合計で1149回を投げ、3連覇に貢献する。61年には日本記録の42勝を挙げた。

 一方、南海(現・ソフトバンク)の杉浦忠は監督の鶴岡一人に重用され、59年に38勝。対巨人の日本シリーズでは4連投で4連勝。権藤にとっては、ふたりとも憧れの大エースだった。

「『なんとか10勝以上を挙げるぞ』なんて思ってたのに、あの人たちと一緒に扱ってくれたということが、すごくうれしかったんですよ。稲尾さんはその年に42勝を挙げ、杉浦さんも59年の日本シリーズで4つ勝つとかね。そんな夢みたいな記録を持つ人と一緒かと......。35勝した時よりも、そっちのほうが、今でも頭に残っていますね」

【投手分業制を本格スタート】

 35勝の大エースがいても、結局、61年の中日は2位。わずか1ゲーム差で巨人に栄冠を奪われ、62年も3位に終わって濃人は辞任。

 新監督に杉浦清が就任すると、「路線に合わない」という理由で近藤は解任される。その後は評論家となったが、64年のシーズン途中、成績不振で杉浦が辞任。監督代行となった西沢道夫に招聘され、近藤は一軍投手コーチとして中日に復帰した。

 65年、西沢が正式に監督に就任。投手起用の権限を任された近藤は、分業制を本格的にスタートさせるべく西沢に提案している。

「ひとりのエースが八面六臂の働きをするのではなく、総合的なピッチャーのグループで勝つ時代が必ずくる。だったら1年でも2年でも、それを先取りしたほうが得ですよ」

 早速、松山キャンプでは、先発組と救援組に分けて練習方法を変えた。すると球団OBから先行きを危ぶむ声が出て、大半の投手は救援組に回されるのを嫌がった。まだ投手といえば先発完投の時代、リリーフを積極的に引き受けようとする者はいない。だが、そのなかで板東英二だけは違った。近藤にとっては「分業制の実験台を買って出てくれた男」だった。

 65年のシーズンが開幕し、試合中、味方の先発投手がピンチを迎えた時、板東は近藤の傍に寄ってきては「投げさせい」と盛んにアピールしてきた。典型的な出たがりの目立ちたがり屋。常に前向きで明るい性格の持ち主だった。短いイニングであれば持ち前の球威が存分に生き、リリーフ専任として12勝をマーク。さらに先発陣も調子を上げたことで投手陣全体が活性化し、中日は前年の最下位から一転して2位へと躍進した。

 同年は巨人の宮田征典が抑え中心に投げて20勝を挙げ、「8時半の男」と呼ばれて話題になった。板東も一部メディアで「8時45分の男」などと称されたが、巨人が優勝したことで目立たずにシーズンを終えた。

 それでも板東以外のリリーフ専任投手も活躍しており、近藤による分業制実行のきっかけになったと言える。

【先に変えたいがあって、理屈はあとから】

 この年、権藤は内野手に転向したのだが、同じチーム内でどう見ていたのか。

「たしかに、最初に分業制を言い出して、実行したのは近藤さんだと思います。投手分業制の歴史ということだったらね。でも、近藤さんはアイデアマンで、とにかくそれまでと違う新しいことをやりたい、変えたいという人なんです。先に"変えたい"があって、さっきも言ったけど、あとから理屈をつけてくる。

 昔に比べてバッターの技術がすごく進歩して、先発完投が難しい時代になったから分業にするという考えはあるんですよ。だけど、じゃあ中継ぎはこういって、抑えはこれでっていう緻密な計算をしていたかというと、そこまではできていなかったですから。言ってみれば、ツギハギの、行き当たりばったり。分業制とか、かっこいい言葉じゃなくてね」

 まだシステムではなかった分業制の現実。近藤は中日のコーチを68年まで務めたあと、69年、濃人が監督のロッテに招聘された。投手コーチとして木樽正明を抑えで生かすも、当時は1イニング限定ではなく規定投球回に到達。木樽は防御率のタイトルを獲得した。

 しかし、それでも年俸が上がらず、木樽は抑え続投を拒み、自ら先発転向を志願して首脳陣を納得させる。分業制の有効性が認識され始めていても、その価値はまだ球界に浸透していなかったのである。

 ロッテでの近藤は、70年のリーグ優勝に貢献。指導者として実績をつくると、72年、監督に就任した与那嶺要の要請でヘッド兼投手コーチとして中日に復帰。74年導入のセーブ制度を追い風に、星野仙一を抑えで起用し、巨人のV10を阻止する中日の優勝につなげた。そして中日監督となった81年、二軍投手コーチだった権藤を一軍に呼び寄せ、82年にリーグ優勝を果たした。

【権藤博が認めた発想力と実行力】

「やっぱり行き当たりばったりですよ。抑えだって最初は鈴木孝政で、そのうち牛島(和彦)になり、最後は先発の小松(辰雄)を突っ込むような形でしたから。優勝した時だって、巨人が失速したことで中日にチャンスが転がり込んできたようなものです。それこそ近藤さんと私のふたりで『残ったピッチャーでいこう』『次も残ったピッチャーだ』なんて言いながらやっていたら、気がつけば勝っていた。そんな感じでしたね」

 監督としても、じつは確立できなかった近藤の分業制。権藤自身、それを反面教師にしたところもあり、近鉄、ダイエー(現・ソフトバンク)、横浜、中日で投手コーチを歴任。横浜監督として、佐々木主浩を1イニング限定の抑えで生かし、中継ぎのローテーションを整備した98年に日本一を達成した。現在の分業制の基盤をつくった立場から、近藤という野球人はどう見ていたのか。

「アイデアマンだったのは間違いないですね。人がやらないこと、人と違うこと、新しいことをやろうとする。スーパーカートリオなんかもそうです。そういうところは私も似ていると思います。ただ、近藤さんを見ながら『あんなに軽くはやらんぞ』とも思っていました(笑)。頭のいい方ですから、まず変えてしまって、理屈はあとからつける。

 でも私に言わせれば、それでは少し軽い。本当は先に理屈を示して、『だからこう変えるんだ』と説明しなければいけないと思うんです。でも、近藤さんはあまりそういうことを言わない。それでも、発想力は本当にすごかったし、あそこまで実行できる人もなかなかいません。3球団で監督を務めたのも納得です。私は、いい監督だったと思います」

 プロ野球の世界、「いい監督」とはどういうものか。権藤はあえて言及しなかったが、近藤貞雄はどんな監督だったのか──。2006年の逝去から20年の節目に、選手として近藤に仕えた野球人の声を聞いていきたい。

(文中敬称略)


近藤貞雄(こんどう・さだお)/1925年10月2日生まれ、愛知県出身。法政大を中退し、43年に西鉄でプロ入り。翌44年に巨人へ移籍し、46年には23勝を挙げる活躍を見せた。その後、中日でプレーし、54年に現役引退。引退後は中日、大洋(現・DeNA)、日本ハムで監督を歴任し、日本球界に先駆けて投手の役割分担を重視した起用法を導入。82年には中日をリーグ優勝に導いた。既成概念にとらわれない野球を追求した"球界屈指のアイデアマン"として知られる。99年に野球殿堂入り。2006年1月2日、死去。