劇場版『チェンソーマン レゼ篇』©2025 MAPPA/チェンソーマンプロジェクト ©藤本タツキ/集英社

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 興行収入45億円を突破し、大きな話題となっている劇場版『チェンソーマン レゼ編』。美しく、どこかミステリアスなレゼに、デンジと同じように魅了された観客は少なくないはずだ。

参考:『チェンソーマン』がもし実写化したらレゼ役は誰? “理想の実写キャスト”を妄想

 本作の公開をきっかけに、SNSではある言葉が広がり始めている。それは「自認レゼ」。かつて“厨二病”の時期を通り抜けた者たちが、過去の自分や周囲を少し距離を置いて振り返る、自嘲めいたミームだ。

■なぜ「自認○○」は冷笑の対象になるのか 似たような言葉では、『薬屋のひとりごと』の猫猫に重ねる「自認猫猫」、『DEATH NOTE』の弥海砂を投影先とする「自認ミサミサ」、Netflixシリーズ『ウェンズデー』になぞらえた「自認ウェンズデー」など。いずれも、特定の人気キャラクターに自己投影していたこと(人)を指す言葉たちだ。

 パッと例に挙がるのは女性キャラクターばかりだが、男性キャラクターに憧れ、自分を重ねていた人たちも根本は同じだろう。『ソードアート・オンライン』のキリトや、『進撃の巨人』のリヴァイに自分を重ねた「自認キリト」「自認リヴァイ」もいたかもしれない。

 「自認○○」という現象が冷笑の対象になるのには理由がある。レゼをはじめ、投影先となるのはたいてい容姿端麗で特別感のあるキャラクター。そこに向けられているのは、「実際の自分とキャラクターには大きなギャップがあるのに、本当にそう思うの?」という、ある種の皮肉めいた視線である。

 けれど、ここで問いたい。そもそも「自認○○」を一度も通らずに大人になった人は、どれほどいるのだろうか。程度の差こそあれ、誰もが何かしらのキャラクターに憧れ、「自分もこうありたい」と願った経験があるのではないか(ちなみに筆者は自認『葬送のフリーレン』フェルンである)。

 その上で気になるのは、「自認○○」に選ばれるキャラクターと、そうでないキャラクターには何の違いがあるのか、ということだ。

 たとえば「自認マキマ」や「自認甘露寺蜜璃」はあまり聞かない。どちらも人気キャラクターであるにもかかわらず、だ。

 本稿では女性キャラクターを中心に見ていくが、選ばれやすいキャラクターには明確な共通点がある。

■“完璧じゃないキャラ”に惹かれる視聴者 第一に、能力が高く、どこか孤独を抱えているということだ。聡明で有能でありながら、心の奥に傷や劣等感を隠している。表面的には冷静でクール、または振り切って明るく見えるが、内面には誰にも言えない痛みがあるキャラだ。

 第二に、容姿に関する絶妙なバランスだ。メインキャラほど華やかではないが、実は容姿が整っている。または派手さはないが美形、あるいは地味に見えて実は端正な顔立ちをしている。そんな「控えめな美しさ」を持つキャラクターが選ばれやすい。

 そして第三に、物語における立ち位置である。彼女たちは世界の主役ではなく、観察者の位置にいる。物語の中心から少しずれた場所で世界を見つめ、時に蚊帳の外に立ちながらも、誰よりも冷静に世界を理解しているキャラが多い。

 例えば「自認○○」としてよく挙げられる『薬屋のひとりごと』の猫猫、『僕のヒーローアカデミア』のトガヒミコ、『鬼滅の刃』の胡蝶しのぶなどは、まさにこうした条件を満たしたキャラクターだ。

 猫猫は薬学に精通し、宮中で次々と事件を解決していくが、その淡々とした態度の裏には複雑な生い立ちがある。胡蝶しのぶは常に微笑みを絶やさない柱でありながら、姉を失った悲しみを秘めている。トガヒミコは猟奇的思考の持ち主であるように見えて、受け入れられなかった自分の本質に苦しんできた。

 さらに『薬屋のひとりごと』の猫猫は、物語のポジションとしては主役だが、その振る舞いを見れば観察者としての性質がよくわかるだろう。宮廷という華やかな世界の中で、常に一歩引いた立場で立ち回り、壬氏をはじめとする人々の思惑を冷静に見つめながら、自分はあくまで傍観者であろうとする姿はまさにこの特徴にぴったり当てはまる。

 そして彼女たちに共通するのは、完璧ではないということだ。「普通とは違う特別な存在」でありながら、どこか不器用で、程度に差はあれど傷ついている。あえて“厨二病”的文脈で言うのであれば、「私も周りと違う」「私も本当の自分を理解していない」。そんな視聴者の孤独感や疎外感と彼女たちの在り方が重なり合い、「投影したくなる存在」になるのだろう。

■「自認マキマ」がいない理由 一方で、冒頭でも少し触れたが『チェンソーマン』のマキマや『鬼滅の刃』の甘露寺蜜璃は、どちらも圧倒的な魅力を持つ人気キャラクターでありながら、自己投影の対象にはなりにくい。それは彼女たちが憧れの象徴ではあるものの、「自分に似ている」とは思いにくい存在だからだ。

 マキマのような圧倒的に美しく支配的な人物像、蜜璃のようにまっすぐ愛を語れる天真爛漫さ。どちらも、どこか自分とは別の次元にいるように感じる視聴者が多いのかもしれない。おそらくそこには「なりたいけれど、なれない」という明確な一線がある。

 対して、自己投影されやすいキャラクターは、その一線の手前、「もしかしたら、私もこうかもしれない」と思わせる絶妙なラインに立っている。手が届きそうで届かない、けれど完全に遠くもない。その曖昧な距離感が、投影を可能にする要素なのだろう。

 創作の指南書では「葛藤がキャラクターを魅力的にする」とよく言われる。だが、メインキャラクターの葛藤はしばしば壮大すぎる。世界を救う、運命と戦う……そうした重すぎる使命は、憧れの対象にはなっても、自分と重ねるには遠すぎるのではないか。

 対して、自己投影されやすいキャラクターの葛藤は、もっと身近だ。居場所のなさ、関係性のもつれ、理解されない孤独。それは日常の延長線上にある、誰もが一度は感じたことのある痛みである。

 彼女たちは世界の中心ではなく、あくまでその周辺で静かに世界を見つめている。その姿が、「決して特別ではないけれど、痛みを知っている自分」という現代のファンの感覚と重なるのだろう。「自認○○」という現象を掘り下げていけば、今の観客がキャラクターに求めているものの輪郭が、きっと見えてくるはずだ。(文=すなくじら)