「ユーミンもそうですし、ニューミュージックの人たちが羨ましくて」

【貴重写真】紅白出場→不遇時代→演技経験ゼロで「超大作映画」に抜擢…武田さんのキャリアを写真とともに振り返る

 フォークシンガー・俳優の武田鉄矢さん(76)は、これまでいくつもの困難を乗り越え、成功を手にしてきた。

 例えば『母に捧げるバラード』が大ヒットして1974年に紅白歌合戦への出場を果たすも、半年後にはフォークブームが去るとともにニューミュージックの波が到来。派手なステージで歌っていたのもつかの間、半年後にはリンゴ箱の上で歌い、「やけくそだった」と振り返る日々を過ごすことになる。冒頭の発言は、当時のことを率直に語った武田さん本人の言葉だ。

 音楽活動を辞めようと思っていたという当時の心境や、その後の活動の礎となる俳優活動に踏み出したきっかけを聞いた。(全3回の1回目/続きを読む)


一時は芸能活動を辞め、九州に戻ることも考えていたという ©三宅史郎/文藝春秋

◆◆◆

娯楽といえば「バナナの皮のにおいを嗅ぐこと」くらいだった

 タバコ屋の次男として生まれた武田さん。家は決して豊かではなく、バナナもおいそれと買えない状況だったから、数少ない娯楽のひとつが、机の引き出しにバナナの皮を入れて、たまに開けては嗅ぐことだったという。

 そんな武田さんにとって、団塊の世代、800万人を味方につけてザ・フォーク・クルセダーズが『帰って来たヨッパライ』をヒットさせるなど、フォークソングの世界は夢のあふれるものだった。

「いまでいう、インディーズですよ。レコード会社の力を借りないで、深夜ラジオで火がついて大ヒットした。いまならば、ちょうどYouTubeで有名になってゆくような、それに似ているのかもしれません」

 1971年、海援隊を結成。しかしすぐに売れるほど世の中は甘くない。72年に上京するもさっぱり売れず。

『おふくろさん』を基に、伝説の1曲が生まれた

 フォークシンガー「武田鉄矢」の名が世に知られるきっかけといえば、1973年に海援隊として発表した『母に捧げるバラード』だろう。ロングヘアにジーンズの風体。曲のほとんどが博多弁の語りで、母への思いを歌い上げ、じわじわと売り上げを拡大していった。武田さんは当時をこう振り返る。

「『これ以上売れなければ福岡に帰れ』と所属事務所の人に言われて、帰郷したときの言い訳に書いたのが『母に捧げるバラード』だったんですよ。当時森進一さんの『おふくろさん』が売れているからそれのコミック版だと。メロディを作っている時間もないからほとんどをセリフにしたんです」

絶頂が一瞬で暗転「ユーミンが羨ましくて」

 それがみごと100万枚を超える大ヒットに。74年のNHK紅白歌合戦への出場も叶った。となればフォークシンガーとして一段上のステージに行けたと、おそらく武田さんも思っただろう。ところが時代の波は武田さんたちを置き去りにしていく。

「私の分析ですけど、学生運動の熱が冷めていくとともに、反抗と旅立ちをテーマにしたフォークブームが急速に落ちていくんです。代わりに台頭してきたのが、センスのいい、ニューミュージックのシンガーソングライター。そのトップランナーがユーミンですよ。

 彼女は旅立ちの歌なんて作らない。おうちに帰る歌ですよ。帰還と物語の歌。『中央フリーウェイ』はその最たるもので、中央自動車道を八王子にある自宅に向けて走っている風景を描くわけですよね。調布基地なんて言ったらわれわれにとっては反米運動と直結するんだけど、彼女にとっては帰り道の目印でしかない。

 そして中央道が滑走路に見えるというんだから、そんな言葉、田舎もんからはでてこない(笑)。衝撃を受けたのは、同志だと思っていた団塊の世代800万人が洒落たニューミュージックに一気に流れていったこと。今だから正直に言いますけど、ユーミンもそうですし、ニューミュージックの人たちが羨ましくて」

妻と皿洗いで糊口をしのいだことも

 紅白出場のわずか半年後には、絶頂期ならば1000人は入ったホールに10人単位の観客しか入らなくなった。

「真っ逆さまですよね。芸能界は怖いです。生活もキツい。12万円ぐらいの給料をもらっていたけど、当時住んでいた代々木八幡のアパートの家賃が4万〜5万円でしょ。都内に実家があって家賃がかからないニューミュージックの人とは違うんですよ。

 しかたなく結婚して間もない妻と居酒屋で皿洗いをしたこともありましたね。地方の神社のイベントなんかに行って食いつないだりもしました。東北の喫茶店に入って次にくる夜行列車を待っていたら、ユーミンの歌が流れているんですよ。この人がヒットするようじゃ、自分たちはダメだと思いましたね」

母の「不思議な厄払い」から、道が開けた

 75年、もう音楽活動を辞めようかと考えながら里帰りし、母親イクさんに会う。「不吉な予感しかしない」と弱音を吐くと、イクさんは息子が哀れに思ったのか、「お前の背中には貧乏神と疫病神が取り憑いている。お祓いしよう」と言い出した。

 何をするのかと身構えたが、やったことといえば2人で乾杯して「おめでたい、おめでたい」と言ったくらい。そうすれば疫病神もあきらめて出て行ってくれるだろうという母のやさしさだろうと、真に受けず「はいはい、カンパーイ」とおざなりに一緒に“祝杯”を挙げて、東京に戻った。

 そのおまじないのような厄払いが効いたとは思えないが、しばらくして風向きが変わった。

 アリスの谷村新司さんとの出会いである。

「当時、うちの妻が原宿のブティックでバイトをして、食いつないでいたんです。私はときどき彼女を迎えに行ったりしていたんですが、その時、その店の切り盛りを任されている女性マネージャーを目にしたことがありました。店の経営者が信頼するその女性は、それはそれはテキパキと仕事をする人で、実は谷村新司さんの恋人だったんです。

 その関係で谷村さんと会うことになるんです。当時アリスは全国でコンサートを展開していたんですが、客の入りにムラがあるそうで、谷村さん、入らないコンサートの話ばっかりするんです。『うちもだよ』という話をしたら、『事務所はどうなんだ?』と聞いてくるんですね。正直に『いや、もう風前の灯火』と言ったら、こんな提案をするんですね。

『自分がいる事務所は新興だけど、必死に仕事を見つけてくるんだ。だからうちに来ないか? リンゴ箱の上で歌う仕事もあるけど、とにかく歌う場所だけは用意するよ』と。谷村さんは人の弱みにつけ込むような人ではないのはわかっていたから、事務所の社長と会うことにしたんです」

 そこで出会ったのが「ヤングジャパン」の細川健社長だ。谷村さんはここでも面倒見がよく、給料についても話をつけてくれたという。

「メンバー均等に12万円だと。で、ここからが谷村さんらしいんだけど、『鉄矢はリーダーで、子どもも生まれたばかりだから5000円プラスでどう?』って」

リンゴ箱の上で歌う「やけくそだった」日々に、耳を疑う「衝撃のオファー」が

 76年12月、ヤングジャパンと契約した。谷村さんの言う通り、スーパーマーケット前のリンゴ箱の上で歌ったこともあった。その頃、武田さんは「やけくそだった」と振り返る。

「もう一発、コミックソングで当ててやろうと思って、羨ましく思っていたニューミュージックの人たちを揶揄し、怒りをぶつけるような歌をつくったんです。それが『あんたが大将』。細川社長も喜んでくれてね。『これは面白い! 一発いくぞ』と」

 77年1月に発売され、スーパーなどで歌い始めると、じわじわとヒットチャートを駆け上がり、しばらくすると有線放送のベスト10にも入る。武田さんも手応えを感じていたそんな時、耳を疑うようなオファーがくる。

 映画への出演依頼である。松竹からだった。しかも、「武田さん、あなたを所望なさっておられるのは……」と名前が明かされたのは、誰もが知る有名監督、山田洋次さん。共演する俳優陣も、高倉健さんを筆頭に有名どころがずらり。二度三度驚いたのは言うまでもない。

「ウソとしか思えなくてね。聞いたら、最初に名前があがっていたお2人と監督が会ったんだけど、どうも違うと。武田さんが3人目なんだけど、どうだと」

 つまり「代役」というわけだが、この仕事が、武田さんの人生を大きく変えていく。

高倉健に「ナンパ」をけしかけると、地元のキャバレー嬢が続々と…武田鉄矢(76)が芝居経験ゼロ→“代役”出演した『幸福の黄色いハンカチ』撮影で忘れられない一夜〉へ続く

(西所 正道)