細木数子が暴力団組員の指を詰めさせた理由…山口組三代目若頭山本健一夫人・秀子とは違った「女ヤクザ」の顔
「地獄に堕ちるわよ」で戸田恵梨香が演じた細木数子と生田斗真が演じた大物ヤクザの熱き契り。実在の細木数子にも大物ヤクザの後ろ盾は存在した。かつて「山健組にあらずんば山口組にあらず」とまで謳われ、権勢の頂点を極めた山健組を実際に支えていたと言われるのが山健夫人・山本秀子である。天下の山健組を「実態は山秀組」とまで言わしめた「女やくざ」の極北と細木数子、その器量の違いを『細木数子 魔女の履歴書』著者溝口敦氏が読み解く。
「やくざの女というより女やくざ」
占い師の細木数子がやくざの姐さん、あるいはやくざの情婦だったことは間違いない。
最初に細木が関係を結んだやくざは稲川会の滝沢組組長・滝沢良次郎だったが、滝沢の後を引き継いだのが小金井一家総長・堀尾昌志だった。堀尾とは途中、別居状態も挟まったが、細木は終生内縁の妻であり続けた。あげく細木家の墓と隣り合う墓域に堀尾と小金井一家の墓を設けるなど、彼岸に至るまでの関係を続けた。
最初になぜこんなことを記すかといえば、細木は「やくざの女というより女やくざだった」ということを説明したいからである。実は私が書いた本「魔女の履歴書」(講談社文庫)にも、それを参考文献にしたNetflixの連続ドラマ「地獄に墜ちるわよ」にも同じ言葉が登場する。
姉は安藤組幹部と結婚
細木の歯切れよいべらんめえ口調がやくざから影響を受けたことは容易に想像がつく。事実、彼女は東京・渋谷の猥雑な飲食街で育った。渋谷の道玄坂をちょっと登った右側に広がる百軒店(ひゃっけんだな)がその舞台で、そこに「娘茶屋千代」があった。細木は中学入学の頃から店に出入りし、客引きなどをやっていた。
当時、渋谷で知られていたやくざは安藤昇の安藤組だったが、娘茶屋千代を引き継いでいたのが細木数子の姉の弘恵で、弘恵は安藤組の幹部だった志賀日出也と結婚していた。
こうして骨がらみのやくざ環境で育ったのが数子だった。人を人とも思わないやくざ風の決めつけ、断定口調、面と向かった悪罵、その反面の話の闊達さ、明快さ、ある種のユーモアなどはやくざ文化の影響が強いと見られる。
「最強の組は山秀組」
話は変わるが、やくざの女房として名高いのは山口組の若頭だった山本健一の夫人秀子のはずだ。組員たちの冗談だが、山本秀子は「山秀組」を率いているとされ、組員たちの間で、山健組の傘下で最強の組は山秀組だとさえいわれていた。
彼女は大阪・箕面の建設業者の娘で、わずか19歳のとき、神戸・三宮でスナックのママをしていた。小さな店とはいえ、荒くれ男や生き馬の目を抜こうという男たちを相手に、ひとりで何もかも切り回さなければならない。それだけに才色兼備、加えるに男勝りの度胸と気の強さを併せ持っていた。
山本健一は秀子にやや先だって、三宮のナイトクラブ「青い城」のナンバーワンホステス、泉とも交際していた。泉は気配りも頭もいい女性で、若い衆の間では山健の相手として人気が高かった。山健は当時34歳だったが、泉と秀子の間で迷い、結局15歳年下の秀子を女房に選んだいきさつがある。結婚後も泉への思いは断ちがたく、秀子に隠れて交際を続けていた。
もちろん山健組の若い衆たちはこうした山健の行動を知っていた。中には親分は秀子ではなく、泉と結婚すべきだったとまともに考える組員もいた。彼らは山本家に入った秀子を、いわば小姑としていびった。
秀子の回想
秀子は当時を回想して、こう言ったことがある。
「たとえば私が『今日はこんにゃく炊きました』というたとすると、それらがむくつけに『オヤジ、こんにゃく食べへんわい。ジャガイモが好きやのに』というわけ。わたしが主人(山健を指す)のこと何もかも知ってたら、『そやけどな、ジャガイモばっかり食べさせるわけにはいかへんやないか』て言い返せるけれど、知らないから、余計カチンとくるわけですよ。なんであんな者にこんなこといわれないかんの、と。
ひとが折角つくったのに『オヤジ、カレーライス好きでないわい』といわれたとき、どんなにみじめな気持ちになるか。自分が一番知らないかん夫のことを、人が知ってるいうんは耐えられへんですよ。
それに男の意地悪いうたら、女のより程度が悪い。ましてねじ曲がって育って来たのが多いから、常識では考えられんような真似を平気でするわけ。
あたしは黙って十年耐えました。私が権力貯めたとき、そういうのは全部放り出しましたわな(山健を丸め込んで、彼らを破門にしたという意味)」
秀子は組幹部の妻たちを集め、亭主操縦法を教育した。組員たちは秀子の存在にピリピリした。秀子のしつけはきびしく、箸の上げ下ろしから始まって山本健一の女の居場所について自白強要を迫るにまでに及んだ。どうしても女の名を吐かないなら、そこに立っていろと8時間も事務所近くの空き地に立たされた組員もいた。コップの水を掛けられた組員もいたし、実際に破門になった組員もいた。
「お父さんの代わり務まるか?」
1969年は山本健一にとって厄年だった。3月に銃刀法違反、7月に詐欺(起訴猶予)、10月に東名高速道路工事の恐喝、翌70年に凶器準備集合罪という各容疑で逮捕の連打を浴びた。こうした流れの中で秀子は山健組の人事に手を伸ばし、渡辺芳則(後の山口組五代目組長)の抜擢にまで持っていくのだ。渡辺が成した功績は山健の身替わり逮捕だった。
山本秀子が言った。
「(拳銃を警察に提出する役割を)誰も受ける者がおらんかったら、全部主人に(拳銃不法所持の罪が)掛かるわけや。懲役覚悟せんといかんときに、わたしが下っ端の渡辺をつかまえてというのも、他に頼る者がいないんですよ。
『どないや、渡辺、お父さん(山本健一)の代わり務まるか』いうたら、『分かりました。姐さん、それ以上は言わんといてください』
ニコッと笑うて、12丁の拳銃を引き受けてくれたんです」
秀子は渡辺の身替わり服役を高く買った。
「お父さん(山本健一)を助けたのはこの子なんだから、私の権力の座を濫用してでも、この子を絶対に男にしてやると思うたわけ。
だけど私はね、主人には命令できないの。そやけど、上手に、主人の弱いところは知ってるでしょう。男って、はっきりいうて寝物語に弱いですよ。芸者秀駒の腹の上に乗ったら、政治が変わるいうくらい、女って強いものです。私があの子(渡辺芳則)を若頭に据えるよう持っていった」
事実、渡辺は1969年、山健組若頭に抜擢され、山本健一が死んだ後の1982年、二代目山健組組長に昇格した。
やくざ臭を払って余生を過ごした秀子
しかし、山本秀子は山健亡き後、やくざときっぱり縁を切った。家には山健組の者をいっさい出入りさせず、わずかなその例外は後に山健組本部長をつとめた松下正夫夫婦だけだった。一人息子は空手を学び、各種の大会で優勝するほどの腕になったが、それでも堅気の会社に勤めさせ、一切家ではやくざ臭を払った。純然たる堅気の家にしたのだ。
対して細木数子はやくざ、暴力団に対して金輪際批判的な目を向けなかった。前記した小金井一家・堀尾昌志に対しては忠実な情婦になろうと努め、「お父さん(堀尾のこと)が賭博を開帳すると、開帳図利罪(賭場を開いて客に賭博させる)でパクられるから、あたしがやる」と賭博の胴元を引き受けたことさえある。
細木はやくざの女というより、やくざそのもの、女やくざだった。新宿・歌舞伎町で若い組員たちにビニ本(ビニールで包装し、立ち読みできないようにしたエロ本)屋2軒をやらせたことがある。ところが組員の一人が月の売り上げの半分くらいを持ち逃げした。細木は怒り、すぐカネを持ってこい、じゃなければケジメをつけろと組員たちに迫った。持ち逃げした若い者の兄貴分がしかたなく自分の指を詰めて、細木のマンションに持ってきたという。
やくざでさえ、下の者に指詰めさせることを嫌う者がいる。にもかかわらず、細木は組員に断指させた。女やくざといわれるゆえんである。
堀尾も心得たもので、細木が歴代首相の指南役とされる安岡正篤とつきあい始め、家にまで安岡が来るようになったとき、あたかも細木の使用人のように振る舞い、自分の車を安岡に運転手つきで提供し、安岡宅まで送り迎えさせたという。
堀尾には細木のヒモ的な影もたしかに見える。そういう堀尾に細木は生涯殉じ、前記した通り墓まで隣り合わせにしつらえた。細木が最後に見せたやくざへの純情といえるかもしれない。
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