十九世紀前半の大英帝国は「翻訳の魔法」で力を獲得していたーー圧巻の架空歴史SF『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』

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 とんでもない小説を読んでしまった。一年に何冊か、そう思う本がある。R・F・クァンの架空歴史SF『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(東京創元社)は、間違いなくそのような作品だ。

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 十九世紀前半の大英帝国は、異なる言語の単語の意味のズレから生じる翻訳の魔法を使った銀の棒により、巨大な力を獲得していた。広東の少年のロビンは、流行り病により家族を失い、オックスフォード大学教授のリチャード・リントン・ラヴェルに引き取られる。ラヴェル教授は何かの目的があって、以前からロビンに目を付けていたらしい。イギリスに渡り、ロビン・スウィフトという名前となった彼は、幾つかの語学を学ぶ。やがて成長したロビンは、オックスフォード大学の王立翻訳研究所――通常バベルの新入生となった。同級生は、カルカッタ出身のラミズ・ラフィ・ミルザ(ラミー)、ハイチ出身のヴィクトワール・ディグラーク、イギリス出身のレティシア・プライス(レティ)。ロビンはすぐラミーと仲良くなり、女性のヴィクトワールとレティとも、やがて親しくなる。

 レティを除いて外国人の三人は、イギリス人の無意識の傲慢を感じ、よく差別に遭遇する。また、提督の娘のレティも、女性であるということで抑圧されるのだ。それでもロビンはバベルで学べることに喜んでいた。

 だが一方でロビンは、バベルから〝銀〟などを盗む窃盗団を見逃した。これが切っかけになり、窃盗団のグリフィン・ハーレーと会った彼は、意外な話を聞かされる。ロビンとそっくりな顔をしたグリフィンは、自分たちは異母兄弟で、父親がラヴェル教授だというのだ。さらにグリフィンは、イギリスに反旗を翻すヘルメス結社の一員だと明かした。グリフィズにいわれるままに、銀の窃盗を手伝うロビン。しかし、ある件によって決裂した。バベルの方では、自分たちが消耗品に過ぎないことに気づく。そしてロビンたち四人はバベルから中国に派遣されるのだが、衝撃的な事件が起こるのだった。

 オックスフォードが舞台のSFといえば、コニー・ウィリスの「オックスフォード大学史学部」シリーズが有名である。未来のオックスフォードの学生が、タイムトラベル技術を利用して現地調査のために過去に戻り、さまざまな騒動にかかわるという面白い作品だ。それに対してこちらは、架空の歴史を歩む、十九世紀のイギリスにあるオックスフォードだ。いや、架空の歴史といっても、実際の史実に沿っている。といえば、この時期のイギリスが中国で何をやろうとしたのか、気がつく人もいるだろう。

 さて、粗筋で書いた衝撃的な事件は、上巻のラストで起こる。そして下巻で四人はイギリスに戻るのだが、ストーリーは加速し、とんでもない事態になっていく。ここまでくると、ロビンたちの行く末を見届けたくて、ページを繰る手が止まらないのだ。

 それにしても、作者の小説技巧は見事だ。本書の内容からして、新入生四人の中に、イギリス出身のレティがいることが、ちょっと不思議であった。しかし下巻の展開と、大英帝国の象徴として、彼女は必要だったのである。また下巻でバベルが物語の中心になる構成も素晴らしい。どこもかしこも考え抜かれているのだ。

 だから、広東とイギリス、バベルとヘルメス結社という、二つの世界の間で悩むロビンの苦悩が際立つ。対立する登場人物の会話から、本書のテーマが浮かび上がってくる。友情も青春も押し潰す巨大な国家の暴威に対して何が出来るのかと思い、本を閉じた後、しばし茫然となった。

 なお、王立翻訳研究所の通称であるバベルは、もちろんバベルの塔を意識した命名だ。かつて人々は、天にも届く塔を造りだしたが、その行為に問題があったのか、それまでひとつだった言語を主は幾つにも分け、世界中に人を散らしたのである。人間が傲慢だった結果なのだ。だから、大英帝国の傲慢の象徴である王立翻訳研究所の通称は、バベルなのである。また、言語と翻訳にこだわっている物語の舞台としても相応しい。先に架空歴史SFと書いたが、同時に言語SFともいえる作品なのだ。物語の世界に入り込み、時間を忘れる読書をしたい。そう思っている人に、迷わずお勧めしておく。