「僕は、彼女のことを何も知らなかった…」

プロポーズした直後、忽然と姿を消した彼女。捜索の手掛かりは、本人のものだと思われるインスタグラムのアカウントだけ。

ー彼女が見せていたのは、偽りの姿だった?

インスタグラムに残されていた、慎ましやかな彼女の姿からは想像もできない世界とは…。




2019年 4月


『今までありがとう。さよなら、敏郎さん』

自宅のダイニングテーブルに置いてあったのは、丁寧な字で書かれたメモと渡したばかりのハリー・ウィンストンのエンゲージリングだった。

「…何の冗談だよ」

村西敏郎は鼻で笑いながら、それが彼女の単なるジョークだと言い聞かせるように、いつも通り洗面台へ向かう。すると、鏡の前がやたらとすっきりしていることに気づいた。

にわかに沸いたイヤな予感を払拭するために、クローゼットを開けてみる。

…彼女の服が、ひとつもない。

2人で暮らしていた2LDKの部屋からは、彼女の服から化粧品まで、なにもかもが消えていた。

事の重大さを察した敏郎は、彼女が書いたであろう文字を改めてなぞるように見つめる。

―なんだよ、これ。

たった3日前、敏郎は彼女と結婚の約束をしたばかりだった。思い当たるフシなんて何もない。

彼女との間に軋轢など一切なかった、と思う。

確かに自分は激務と言われるテレビ局勤務の、ドラマ制作に携わるディレクターだ。港区の仕事場から自宅へ、寝るためだけに帰るということは頻繁にある。

だけど彼女はいつも「それで大丈夫」と言ってくれていたし、時にはバッグをプレゼントしたりしてご機嫌をとってきた。…不満なんてあるわけない。

それに3日前の夜、指輪を受け取った彼女の顔は、今まで待ち望んでいたものをついに手に入れたという満足感にひたっているように見えた。

それは、ただの思い込みだったのだろうか。


姿を消した恋人は、どんな女だったのか…?


かいがいしく尽くす恋人


彼女の名前は近藤明子。今年30歳になる明子は、敏郎の6つ年下だ。

仕事は旅行会社のパート社員だが、3年前に大学時代の先輩に連れて行かれた食事会で知り合った頃は無職だった。そんな明子は、不規則な僕の余暇を埋めるためにはピッタリの相手だったのだ。

ルックスは、一般人から見たら美人の部類に入るかもしれない、といったところ。

しかし華やかな業界で働く身としては、彼女くらいがちょうど良く思えて、付き合うことを決めた。




「敏郎さん!今日はパッタイを作ってみたんだけど…。味、どうかな?」

明るすぎないブラウンのロングヘアを束ねた明子は、料理や家事をカンペキすぎるくらいにこなしてくれた。

その隙の無さはおそらく結婚を意識してのことだろう。

よくわからない異国の料理を作るなど、あざといというか、がんばりすぎなところに少々うんざりすることもあったが、生活には便利だし、何より美味しい。

ーまあ明子だったら、結婚してもいいかな。

交際開始してまもなく一緒に住むようになり、完全に胃袋をつかまれた敏郎は、自然とそう思うようになっていた。

そして力を入れていた企画がひと段落ついた3日前の晩、少々待たせてしまったが、満を持して指輪を渡したのだ。

それなのに。

敏郎は手紙を握りしめ、呆然と立ちすくむ。悲しみや怒りよりも、疑問符が頭の中を支配している。

そうして煩悶の末、ひとつの結論に達した。

―彼女は、僕を試しているんだろう。

それしかありえない。明子からの想いは十分感じていたし、明子にとっても自分は不足ない相手だと思う。

ただ、不規則な激務で何よりも仕事を優先する人間性ゆえに、明子から見たら多少の不満はあるだろう。

おそらく、これから結婚するにあたって、優先順位をはっきりさせておくための明子の反抗であり、作戦なのだ。

―プロをなめるな。僕はキー局の制作に携わるテレビマンだ。

AD時代はバラエティのドッキリ番組にも絡んだことがある。目には目を、歯には歯を。ドッキリにはドッキリを。

ほくそ笑みながら、敏郎も対抗してだんまりを決め込むことにした。幸いここ1週間、地方のロケが続いているので余計なことを考える暇はない。

しかしさすがにかわいそうかなと情が湧き、LINEで「どうしたの?」と、心配しているそぶりを見せようかとも思った。が、やめておくことにした。

これは結婚前のヒエラルキーを決めるための大きな一戦なのだから。


男と女の我慢比べ。その果てにあったのは…


7日後。

明子がいないことが日常になった部屋で、12時過ぎに目が覚めた。地方ロケからやっと解放されたので、今日から数日、休みに入るのだ。

「あいつ、意外と意固地なんだなあ」

そんなことをベッドの中でぼんやりとつぶやきながら、スマホを手に取る。

手持ち無沙汰ゆえに、この勝負に負けてもいいかなという思いが一瞬頭をよぎったが、すぐに払拭する。これは今後の人生を決める大事な戦いなのだ。

しかし、正直に言って寂しい。暇だ。

そんな迷いの中、LINEのトーク一覧を開き明子の名前を探した。

ーあれ、トーク履歴が消えてる。

慌ててスマホの電話帳を開く。それも彼女の名前ごと消えていた。

ー出ていくときに僕のスマホを操作して消したのか?

スマホはロックしているが、単純な番号だったので、一緒に住んでいれば手元の操作でわかっていても不思議ではない。

明子との連絡手段がないという事実に直面した敏郎は、ようやく明子の言葉が本気のものであるということに気付いたのだった。




飛び起きた敏郎はパソコンを開き、何かほかの連絡手段を探ろうと、彼女の名前をネットで検索する。

Google検索結果にも、Facebookにも『近藤明子』はたくさん存在していたが、敏郎の知っている明子はいなかった。

そもそも明子がSNSをしていることなど、聞いたことがない。

作った料理の写真を撮っているのは見たことがあるが、明子自身、これ見よがしにSNSにアップしていいねを集めるような、浅ましい承認欲求の持ち主ではないのだ。

しかし何かヒントはあるかもしれないと藁をもつかむ思いで、敏郎は様々なSNSに入りこみ、明子のかけらを探しはじめた。

明子の友達や家族、趣味嗜好。

探しながら敏郎は、3年も一緒にいたはずの明子について、何もわかっていなかったことに気付く。

自分の好きなものはみな好きだと言い、趣味にも付き合ってくれていたせいで、疑問にすら思わなかったのだ。

「あれ。このいいね、誰からだ…?」

そんな時、自分のインスタグラムの投稿に、見知らぬアカウントの「いいね!」がついているのを見つけた。

親しい知人に勧められて始めたはいいものの、一切使っていなかったインスタグラム。アイコンはデフォルトで、投稿自体もロケ先で撮影した、何の変哲もない伊豆の海の写真である。

内輪にしか教えていないので、反応をくれたアカウントも誰かは大体特定できる。旧友、仕事で関わった芸能関係の人、グラビアアイドル、社内の先輩や同僚。

そんないいねの中で唯一、誰のものか全く想像できないアカウント。

呪文のような『@emodaw_sihrtoa』というユーザーネームに、ワインボトルのアイコン。

第六感に似た予感にとらわれ、それをクリックする。

するとそこには、見覚えのある手作り料理と、見たこともないレストランの写真が並べられていたのだった。

▶Next:6月8日 月曜更新予定
インスタアカウントは彼女のものなのか?そこに広がっていた世界とは…