佐藤二朗、「“綺麗事”が負けてほしくない」 映画『名無し』に込めた思い
【動画】謎の右 手と“名無し”の過去に迫る本予告
「全てが絶望でも、人とつながれているうちは、まだ生きられるんじゃないか」
そう語る佐藤が本作で描いたのは、“つながることを諦めてしまった男”だった。
白昼のファミレスで起きた無差別大量殺人事件。その中心にいるのは、“名前のない怪物”と呼ばれる男。完成披露試写会では、「佐藤二朗のキャリアで一番怖い」「“芝居で殴られる”とはこういうことか」と衝撃の声が相次ぎ、「観る側にも覚悟が必要」と話題を呼んでいる。
■「オリジナルは後回し」 お蔵入り寸前だった脚本
――映画化に至るまでの紆余曲折についてどのような思いがありますか?
【佐藤】5年くらい前に、誰に頼まれたわけでもなく自分で映画脚本を書いたんです。30人くらいのプロデューサーに渡して、「これを映画にしたら面白い」と親身に相談に乗ってくれた方もいて、本当に感謝しています。
ただ、何人かの方に言われたのが、「今の日本映画界では、どうしてもオリジナル作品は後回しになる」ということでした。
有名漫画や小説の原作があれば、それが“担保”になる。でも、そういう担保がないオリジナル作品は難しい、と。
そんな中で、「まず漫画にしないか」という提案をいただき、永田諒さんの作画で、電子コミックとして世に出すことができました。その漫画の反響を経て、映画化が実現しました。
――本作は、「過激なテーマと特殊な世界観ゆえに、お蔵入り寸前だった」とも言われていますが、この物語を書こうと思った理由は?
【佐藤】僕が最初にこの物語を書こうと思った理由は、“あるシーン”をやりたかったからなんです。
男女が普通にダイエットの話をしている。「夜2時間前は食べない方がいいよね」「焼き鳥ならささみがいいよね」みたいな、本当に何気ない会話をしている。でも、男の右手にはものすごく鋭利な包丁が握られている。
観客は「何を見せられてるんだろう?」と思う。で、後から「ああ、この人が右手で触ったものは消えるんだ」と気づく。
そういう感覚をやりたくて書き始めました。
僕、舞台脚本でも「笑っていたと思ったら急に冷や水を浴びせられる」とよく言われるんです。それは自覚的にやっていることでもあって、“当たり前”とか“既成概念”に冷や水をかけたい気持ちがどこかにある。
でも、公開に向けてメディアの取材をたくさん受ける中で、ある記者の方から「これはSNS社会への反発じゃないか」と言われて、「なるほど」と思ったんです。
主人公の右手って、匿名性を持ったSNSみたいでもあるんですよね。名前のない存在が、通りすがりの人を攻撃していく。
僕自身は、そんなつもりで『名無し』というタイトルを付けたわけじゃない。でも、「確かにそういう見方もできるな」と思いました。
もう一つ、主題歌を担当したアーティストのNovel Coreさんが、脚本を読んで、「“名前をつける”という行為そのものをテーマに歌を書こうと思った」とおっしゃっていたんです。
人は当たり前のように名前をつけて、名前で呼び、名前で呼ばれる。でも、名前をつけるということは、ある種の覚悟や責任を背負うことでもある。名前をつけなければ、失っても悲しまなくて済むかもしれない。それでも僕たちは、名前をつけてしまう。そして愛してしまう。大切に思ってしまう。
そんな趣旨のコメントを読んで、“名前をつける”という行為そのものが、根源的なテーマになっているのかもしれないな、と改めて気づかされました。
――本当に、人によってさまざまな解釈ができる作品ですね。
【佐藤】僕自身は最初からそこまで意識していたわけではなかったんですけど…。映画として観た時、「これ、解釈したくなる作品だな」と思いました。理不尽に殺された人たちを、どう受け止めればいいのかわからない。その理由を探したくなるんでしょうね。
■『爆弾』との差別化 “しゃべらない怪物”へ
――『爆弾』で冴えない中年男の皮を被った知能犯・スズキタゴサク役を怪演し、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞はじめ、さまざまな映画賞を受賞されたことも記憶に新しいところですが、今回の役は、コメディ作品にも多く出演されている佐藤さんのパブリックイメージを覆すような人物でしたね。
【佐藤】最終的に、城定秀夫監督と打ち合わせを重ねる中で、キャラクターは少しずつ変わっていきました。『爆弾』ですごく評価していただいていたので、「違うものにしなきゃ」という思いもありました。
実際、この作品では坊主にするシーンがあって、自分の髪を本当に剃っているんです。NGが出せない状況で剃っていって、本当はあとで整える予定だったんですが、その途中の“おかしな髪型”を見て、「これ、山田太郎っぽいな」と思って。監督も「いいじゃないですか」と言ってくれたので、切りっぱなしでいくことになりました。『爆弾』のスズキタゴサクはきれいにカットされていることがキーになっていましたからね。
それから途中で、「このキャラクター、しゃべらない方がいいな」と思ったんです。『爆弾』のキャラクターは延々しゃべるので、真逆にしたかった。
もともとの脚本では結構しゃべっていたんですが、それをほとんど「……」に変えました。わずかな台詞は「長い間、人と話していないことで、声帯が退化してしまったような声」というイメージで演じていました。
■「つながることを諦めた主人公」を描いた理由
――これまでに、脚本を手がけた映画に『memo』(2008年/原作・監督・出演も兼任)、『はるヲうるひと』(2021年/原作・監督・出演も兼任)がありますが、本作は佐藤さんにとって、個人的な作品なのでしょうか?それとも世の中に向けた作品なのでしょうか?
【佐藤】難しいですね。たぶん、個人的な思いと、世の中に向けた視点、その両方があるんだと思います。
僕はこれまでずっと、“負”を抱えた人間を書いてきました。そんな人たちが、ほんの少しだけ前を向ける瞬間に心を動かされるんです。例えば、雨の日にビニール傘を捨てて、わざと濡れながら帰っただけで、「明日も生きてみるか」と思えるみたいな。僕は、そういう小さな希望にグッとくる。
神様は平等にカードを配らない。逆転不可能なカードしか与えられなかった人もいる。そんな神様の気まぐれなカード配りに、人間のぬくもりやつながりといった、“小っ恥ずかしい綺麗事”が負けてほしくない。“理不尽に対して、一矢報いてほしい”という気持ちは、どの作品を書く時にも根底にあります。
別に世の中に物申したいわけじゃないんです。ただ、“人とのつながり”をものすごく大事に思っている自分は確実にいて。全てが絶望でも、人とつながれているうちは、まだ生きられるんじゃないかって、本気で思っているんです。
今回の作品がこれまでと違うのは、“つながることを諦めた主人公”を描いたことかもしれません。人とのつながりを失った時、人はどこまで壊れてしまうのか――その絶望を描くためには、目を背けたくなるような残酷さも必要でした。残酷であればあるほど、「こんなことがあってはいけない」と思える。それも映画の力のひとつだと思うんです。
■鑑賞ではなく“体験”に近い映画
――観客へ向けて、伝えたいことはありますか?
【佐藤】何も深く考えずに笑って、「面白かったね」と劇場を出て、来た時より少し元気になって帰れる映画。それも、ものすごく大事だと思うんです。僕もそういう映画は大好きだし、絶対に世の中に必要だと思っています。
ただ一方で、“少し覚悟を持って観る映画”があることも、文化として豊かなことだと思うんですよね。この『名無し』は、少し覚悟が必要な作品かもしれません。でも、必ず何かを感じてもらえると思うし、それはぜひ劇場という空間で体験してほしい。
『爆弾』の時にも言ったんですが、この作品も“鑑賞”というより、“体験”に近い映画になったと思っています。
完成後、僕は本当に感謝の気持ちで、城定秀夫監督に「ありがとうございました」と言って、思わず握手を求めたんです。城定さんは、あらゆる映画のテクニックを知り尽くした“映画職人”なんですよ。その城定さんが、「これは他にない作品になったと思います」と言ってくださって。城定さんがそう言うなら間違いないなと思いましたし、僕自身も、“他にない世界観”の作品になったと思っています。