わずか7年、世田谷の住宅街に消えた鉄道「新奥沢線」とは たった2駅の廃線跡を歩いて見えたもの

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山手線の五反田駅(品川区東五反田)と京浜東北線の蒲田駅(大田区西蒲田)とを24分で結ぶ東急電鉄・池上線。路線距離10.9km、駅数15駅、この間を3両編成の電車が行き来し、今年で全線開業から98年を迎える鉄道路線だ。戦前期には、途中の雪ヶ谷駅(現・雪が谷大塚駅)から分岐して、JR中央線の国分寺駅を目指すという「国分寺線」計画があった。その夢は、当時ライバル路線だった目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄)の大井町線建設に阻まれるなど国分寺はおろか、わずか2駅、7年間という短命な路線に終わった。その路線こそが「新奥沢線」なのである。廃止から91年もの歳月が流れた世田谷区の住宅街に消えた廃止路線のいまを、探訪することにしよう。

※トップ画像は、新奥沢線の終点だった「新奥沢駅跡」の一角に設置されている石碑=2026年3月24日、世田谷区東玉川

池上線の当初計画は目黒駅発→大森駅行きだった

東急の電車といえば銀色に輝くステンレスカーが走る光景を思い浮かべる方もいることだろう。しかし、池上線といえば目蒲線(現・目黒線)と同様に、昭和の時代まではミドリ色に塗られた3両編成の旧型電車が走っていた。その車両には冷房はなく、夏には窓を開け放って颯爽と走り去る姿が印象的な路線でもあった。現在は、電車も一新され、それまでの古めかしいイメージなどを感じさせない清楚な路線へと姿を変えた。

池上線のはじまりは、1912(大正元)年にまでさかのぼる。沿線にある目黒不動尊、洗足池、池上本門寺、御嶽神社への参詣客や、沿線農地から野菜類を輸送することを目論み、荏原郡大崎町(目黒駅)と同郡入新井村(大森駅)とを結ぶ鉄道として計画された。正式に会社として「池上電気鉄道」が設立されたのは、1917(大正6)年6月のことだった。

当時は、地価の高騰、資金難などにより、鉄道の建設は思うように進まず、当初終点として予定した大森駅をあきらめ、蒲田駅(大田区西蒲田)へと変更した。それでも、鉄道建設予定線上の土地所有者らは、売却額の高値を主張するなど、工事は難航を極めた。ようやく1922(大正11)年10月に池上駅(大田区池上)〜蒲田駅間が開業し、翌1923(大正12)年5月には池上駅から雪ヶ谷駅(大田区南雪谷/現・雪が谷大塚駅)まで延伸した。

その後も、雪ヶ谷駅〜桐ケ谷駅(1927/昭和2年8月)、桐ケ谷駅(1945/昭和20年空襲を受け休止→廃止)〜大崎広小路(1927/昭和2年10月)、大崎広小路駅〜五反田(1928/昭和3年6月)と路線を延伸し、現在の姿となった。当初の計画は目黒駅だったはずが、なぜ五反田駅になったのか。それは時を同じくして鉄道を建設していた目黒蒲田電鉄の目蒲線(現・目黒線)が、すでに目黒駅〜蒲田駅間を開通させていた。そこで、池上電気鉄道としては全線平行路線となることを避けるため、起点駅を目黒駅から五反田駅へと変更したのだった。

昭和一桁時代の東京・世田谷区部を中心とした鉄道路線計画図。現在ある路線のほかに多くの計画路線が存在していたことがわかる=資料/国立公文書館蔵

雪が谷大塚駅付近をゆく東急・池上線=2026年3月24日、大田区南雪谷

夢破れし国分寺延長線(新奥沢線)

池上線の前身である池上電気鉄道は、壮大な鉄道構想を描いていた。1926(大正15)年には品川駅〜玉川駅を結ぶ路面電車に、五反田駅〜白金駅、五反田駅〜品川駅、戸越駅〜三軒茶屋駅を結ぶ鉄道を計画し、さらに1927(昭和2)年には池上駅〜大森駅間を結ぶ路面電車と、雪ヶ谷駅〜国分寺駅、池上駅〜荏原中延駅とを結ぶ鉄道路線の新設を企てた。しかし、この7路線のうち鉄道省から鉄道敷設免許が交付されたのは、五反田駅〜白金駅、五反田駅〜品川駅、雪ヶ谷駅〜国分寺駅、池上駅〜荏原中延駅の4路線だけだった。

この中から先ず工事に着手したのは、雪ヶ谷駅から中央線の国分寺駅へと至る「国分寺線」で、1927(昭和2)年12月に鉄道敷設免許が交付された。最初は、雪ヶ谷駅〜新奥沢駅の1.6kmの工事施工認可を1928(昭和3)年4月に受けて、奥沢支線(新奥沢線)として同年10月5日に開業させた。線路はわずか2駅だけということや、他の路線とは接続していなかったこともあり、単線での開業となった。線路用地は、将来の国分寺駅までの延伸を目論んでいたため、複線分(2線分)が確保されていた。

当時、池上電気鉄道の奥沢支線は、自社の文書上では「奥沢線」となっていたが、いつの頃からか「新奥沢線」を名乗るようになった。中間駅であった諏訪分駅の最寄りには、調布高等女学校(現・学校法人調布学園)があるのみで、終点の新奥沢駅は奥沢と名乗るものの、目蒲線の奥沢駅とは直線で500m以上離れており、他線とは連絡しない盲腸線だった。

時を同じくして、池上電気鉄道とライバル視されていた目黒蒲田電鉄(目蒲線→のちの東急電鉄)は、大岡山駅〜二子玉川駅間に新線(のちの東急大井町線)を計画し、この計画線上にある土地整理組合と提携して、鉄道用地の確保にいち早く乗り出した。新奥沢駅から国分寺駅へと延伸する計画線上で競合する用地獲得に出遅れた池上電気鉄道は、土地価格の高騰や資金難により思うように用地買収が進まなかった。そうこうしているうちに、1930(昭和5)年7月には新奥沢駅〜国分寺駅間の鉄道敷設免許が失効し、延伸計画そのものを放棄してしまった。

これと入れ替わるように、新奥沢線の途中(0km330m付近)から分岐して、下沼部駅、丸子渡(まるこわたし)駅までの1km090m間を結ぶ路線計画を申請するも、これに対し鉄道省は、目黒蒲田電鉄(目蒲線)と競合路線になるという理由から、1930(昭和5年)年10月と1931(昭和6)年6月の2度にわたり池上電気鉄道からの申請を却下した。

この結果、新奥沢線は短距離のままの経営路線となるため、その維持は困難として、1933(昭和8)年11月に乗合自動車(路線バス)に転換することで新奥沢線を廃止することを表明した。これに対し、沿線には1000戸を超える世帯が居住しており、調布高等女学校や新奥沢線建設のために用地を提供した土地所有者などから、廃止反対の意見が多く出された。

1934(昭和9)年8月になると、「交通機関としての使命を全うするためにも、競合する路線を統合することが必要である」と、目黒蒲田電鉄の専務取締役だった五島慶太氏は、一夜にして池上電気鉄道を“乗っ取り”、同年10月1日に目黒蒲田電鉄(のちの東急電鉄)へと吸収合併させた。これにより、五島慶太氏にとって”目の上のタンコブ”だった新奥沢線の廃止論にも拍車がかかり、沿線利用者からの廃止反対の陳情も聞き及ばず、1935(昭和10)年10月31日をもって電車の運行を取りやめ、翌11月1日付で廃止された。廃止後は、既存の乗合バス(路線バス/調布大塚駅〜田園調布駅前間)の一部ルートを変更して代替輸送を行い、沿線利用者への利便を図った。

奥沢支線(新奥沢線)の路線が描かれた当時の地図。太く黒線で描かれている路線は、新奥沢線廃止後の代替バスのルートを示す=資料/国立公文書館蔵

池上電気鉄道国分寺線の一部(雪ヶ谷駅〜新奥沢駅間)の鉄道敷設を許可した免許状=資料/国立公文書館蔵

新奥沢線の途中から「丸子渡駅」へと向かう計画だった分岐線。目黒蒲田電鉄と競合するとの理由から申請は却下され実現には至らなかった=資料/国立公文書館蔵

新奥沢線の廃線跡をめぐる

新奥沢線に関する様々な文献を見比べていると、池上電気鉄道の文書には「奥沢線」と記載があり、“新”の文字が見当たらない。しかし、当時の地図や東京急行電鉄50年史によれば「新奥沢線」と記述される。悩ましいところである。新奥沢線の起点であった雪ヶ谷駅は、現在の雪が谷大塚駅の五反田駅寄りにある一つ目の踏切(石川台1号踏切)の先にあった。同線の廃止とともに駅の位置は現在の雪が谷大塚駅の地へと移転し、同時にその反対側にあった調布大塚駅も廃止された。

現在も、雪が谷大塚駅には「新奥沢線」の線形跡を見ることができる。ホームの中ほどに敷地が外側へ膨らむように広がっているのが廃線跡の一部だ。同駅が橋上駅舎となる前は、曲線を描くように建植された鉄道柵の姿を、ホームから見ることができた。この廃線跡は、五反田駅を背にして右側に大きくカーブを描くように中原街道(東京都道)を渡り、新奥沢駅へと向かっていた。

もうずいぶん前のことになるが、はじめて新奥沢線の廃線跡を訪れたときは、新奥沢駅跡の石碑などはなく、当時の情報量は限られていたこともあり、たぶんこのあたりを走っていたのだろうくらいしか、皆目見当がつかなかった。その当時でも、すでに廃止から50年以上が経過しており、ましてや戦前期の路線ともなれば、鉄道の痕跡など見つかるはずもない。途中、散歩中と思しき初老の男性に声をかけ、駄目もとで新奥沢線のことを尋ねたところ、あれこれと昔話を交えて教えてくださった。

その方は、新奥沢線とは呼ばず「国分寺線」のことだね、と話をはじめた。電車は単線であったが、用地は複線用地として広かったこと、中原街道にはクルマの往来はなく、牛や人が引く荷車や自転車が往来するくらいだったと、当時を思い出すように話をつづけた。途中にあった諏訪分(すわぶん)駅のそばには、調布高等女学校があり、さながら女学生のための専用線のようだったという。沿線には畑が広がり、そんな長閑な風景の中を1両編成の電車がガタゴトと音をたてて走っていたそうだ。

あらためて、そんな話を思い起こしながら廃線跡を再訪した。当時の地図と現在の地図を比較すると、線路敷のほとんどは住宅地となっており、ごく一部に線路敷だったようにも見える道路があることくらいだろうか。途中の諏訪分駅があった場所も住宅が建ち並び、このあたりに駅があったのだろうと想像するしかなかった。

新奥沢線は、雪ヶ谷駅を出て右に大きくカーブすると、その先は終点の新奥沢駅までは一直線だった。平行して同じように一直線に伸びる道路もあるのだが、この道は当時の古地図にも記されていることから、線路敷ではないことを確証した。この道路に沿って新奥沢駅跡を目指した。新奥沢駅があったとされる路地裏には、マンションが建ち、ここに駅があったことなど想像すらできない風景と化していた。

新奥沢駅のあった場所は、プラットホームや駅舎のほかに広場が併設されるなど、大きな敷地を有していたという。その一角には、「新奥沢駅跡」と書かれた石碑が建っている。30年以上前に訪れた時には、なかったものだ。誰が建立したのかまでの記載はなく、その場所はマンションの敷地であることからも、私費を投じて建てられたものであろう。

もと来た道を雪が谷大塚駅へと戻る途中、新奥沢駅があったエリアの一角に妙なものを発見した。電車の車輪だ。ひょっとして駅跡を示す「オブジェ」にでもする予定なのかと思ったが、周囲に人影もなく聞き出すことはできなかった。住宅街に埋もれた廃線跡。知る人ぞ知る新奥沢線の記憶は、街角に立つ石碑だけが令和のいまに語り掛けているようだった。

新奥沢線と移転された雪ヶ谷駅、廃止された調布大塚駅の位置関係がわかる略図。新奥沢線廃止申請時の文書より=資料/国立公文書館蔵

新奥沢線があった当時の雪ヶ谷駅付近のようす。左手前の線路が新奥沢線。奥には移転前の雪ヶ谷駅が写る。池上町史より=資料/国立国会図書館蔵

ひとつ前の古写真と同じ場所の現在のようす=2026年3月24日、大田区南雪谷

いまでも現・雪が谷大塚駅のホーム脇には、線路用地が拡がりを見せ、廃線跡が右へ大きくカーブしていた様子を伺い知ることができる=2026年3月24日、大田区南雪谷

新奥沢駅跡へと続くまっすぐに伸びる道路。廃線跡は、この右手の住宅地の中を走り抜けていた=2026年3月24日、世田谷区東玉川

この住宅地の一画に新奥沢線の中間駅「諏訪分(すわぶん)駅」があった=2026年3月24日、世田谷区東玉川

諏訪分駅を過ぎた辺りから雪ヶ谷駅方向を見る=2026年3月24日、世田谷区東玉川

この路地の突き当りに新奥沢線のプラットホームがあったという=2026年3月24日、世田谷区東玉川

新奥沢駅跡地の一角にひっそりと建てられている駅跡を示す石碑=2026年3月24日、世田谷区東玉川

新奥沢駅跡地にある宅地の一角に整然と置かれている電車の車輪=2026年3月24日、世田谷区東玉川

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。

【画像】91年前に走っていた池上線の奥沢支線「新奥沢線」の古資料と、現在の廃線跡を紹介する写真の数々。(15枚)