エムバペを磨いた「子供の習い事」とは? スピードスターの知られざるルーツ
エムバペ一家はパリ北東郊外のボンディに居を構えていたが(ボンディは、フランス全土に拡大した2005年のパリ郊外暴動事件でも有名になった町で、スイス人ジャーナリストが「ボンディ・ブログ」という密着報道を発信した、パリ北東郊外の中心地でもある)、低家賃の荒んだ公営団地ではなく、5階建てのマンションで暮らしていた。すぐ隣にはスタジアムがあり、父はそこで監督をしていた。
フットボールが身近にあったキリアン少年が、フットボーラーを目指したのはごく自然な流れだった。だから、「その瞬間」を特定するのは難しい。少年が、いつ、どうして、フットボーラーになろうと決意したのか、そのきっかけをはっきりさせるのは不可能だ。少なくとも分かっているのは、4歳の時に父にこう告げたという事実だ。
「僕、クレールフォンテーヌに行くよ。その後はレアル・マドリーでプレーするね」
クレールフォンテーヌとは、言わずと知れたフランスが世界に誇るエリート養成機関だ。キリアン少年が憧れていたティエリ・アンリもクレールフォンテーヌの卒業生だ。ちなみに、そのアンリよりも少年が熱を上げていたアイドルはクリスチアーノ・ロナウドで、子供部屋の壁を埋め尽くしていたのはそのポスターだった。
ただ、「フットボールの天才」は、しかし学校生活にはなかなか馴染めなかったようだ。彼の頭脳とエスプリは猛烈なスピードで同級たちの先を進み、退屈な授業に集中できず、先生たちを苛立たせたのである。
母ファイザは一計を案じた。自作のチェックシートを息子に持たせ、授業をちゃんと受けたか、教師に確認のサインをしてもらうようにしたのだ。
スポーツ一家のエムバペ家は当然、フットボーラーを志す息子を後押ししながら、同時に人生の可能性を広げるように、さまざまな選択肢を用意した。そうしてキリアン少年が3年間所属したのが演劇クラブと音楽スクールだった。音楽スクールではフルートを習った。
なかでも演劇の経験は、人格形成において重要な役割を果たした。エムバペがデビュー当時からマイクの前できちんと発言できるのは、その経験が大きくモノを言っている。彼はフレーズを作ることができるのだ。しかも、強弱や「間」も心得ていて、発言をちょっとした「フェイント」で締めくくり、笑いで落とすことができる。
こうした表現力は現在のフットボーラーにとっても実はとても重要な要素で、それがあれば批判や論争の的になってもその拡大を防ぐことができる。
昨夏のロシア・ワールドカップでも、キリアンは達者ぶりを見せつけた。モスクワ北郊のフランス代表のキャンプ地イストラで連日行なわれた会見は、まさにキリアンの独壇場だった。それに感化されたアントワーヌ・グリエーズマンとポール・ポグバが態度を改め、報道陣に対してずっとオープンになったほどだ。「エムバペひとりにおいしいところを持っていかれるわけにはいかないと」そう思ったのだ。
かくしてエムバペは、グリエーズマンとポグバを発言できるリーダーに変えたのだった。
文:ヴァンサン・デュリュック(レキップ紙)
翻訳:結城麻里
※『ワールドサッカーダイジェスト』2018年9月20日号より転載
