遠征費用の”ツケ”は、国王の特権をもぎ取ることで支払われた…オットーのイタリア遠征がドイツ諸侯を強大化させたワケ

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ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第68回

『皇帝オットー1世の妻は「気弱なお姫様」とは正反対…第三次イタリア遠征に同行した皇妃アーデルハイトの「烈女っぷり」』より続く。

イタリア遠征の「負の遺産」

今回は第2次に比べて軍勢は少ない。前回の遠征で服従せしめた当地の貴族が提供する軍勢がある。さらには確かにイタリアにはオットー嫌いの貴族が多数いるが、逆にイタリアの安定を求めオットーになびいて自分たちの領土を安堵してもらおうとする貴族も少なくなかった。

彼らは積極的に自ら兵を率いてオットー陣営にはせ参じる。そんなわけで東フランクからの軍勢が少なく済んだというわけである。

しかしそれよりもなによりも、この東フランク貴族のイタリア遠征従軍は大きな問題を孕んでいた。

「戦争遂行に必要なものが3つある。まずは金だ。次に金である。そしてさらに金である」とは16世紀にミラノ出身の傭兵隊長の身からフランス王国元帥にまで上り詰めたジャン・ジャコモ・デ・トリヴルツィオの至言である。

戦争が金食い虫であることは昔も今も変わりがない。10世紀というあらゆるものの生産規模がはるかに少なかった時代、事情はもっと深刻であった。

お金がないオットー

封建正規軍である貴族たちは君主と封建契約を結ぶ。家臣は君主による所領安堵という「御恩」に対し、無償の軍役の「奉公」で応えることになっている。つまり従軍に関わる費用は自腹である。

しかし、いったい誰が好き好んで難所のアルプスを越え、大枚をはたいてイタリア遠征に従軍するだろうか? それなりの見返りがなければとても出来ない相談である。

さらにヨーロッパは契約社会である。君主と家臣が交わす封建契約も、例えば無償の軍役は年間40日まで、行軍はどこそこの川まで、あるいはどこそこの山の麓まで、これらの日数や行軍距離を超えると有償となる等々、といった風に細部にわたり定められている。

オットーはこの第3次イタリア遠征に都合6年を費やしている。従軍日数も行軍距離も封建契約をはるかに超えたものになる。だとすればオットーが貴族たちに支払う対価は膨大なものとなる。もちろんオットーにはそんな金などない。

カロリング朝時代には、イタリア遠征に従軍した貴族たちは褒賞としてイタリアでのしかるべきポストと領地をもらった。

しかしオットーの時代になると、イタリアではもともとの地元貴族に加えてカロリング朝期にアルプスの北からやってきた貴族たちもイタリアに根を張り、すっかり土着化している。彼らはよそ者を嫌う。つまりイタリアでは新参者に分けるパイは極端に少なくなっていたのだ。

国王の特権をもぎ取る

そこで東フランクの貴族はイタリアではなく、東フランクにある自分たちの領地の支配権の強化を見返りとして手に入れようとする。

関税権、裁判権、市場権、林業権、鉱業権等々の、本来は国王の収入源である国王大権(収益特権)をもぎ取るのである。東フランク、後の神聖ローマ帝国、すなわちドイツでは11世紀末になるとこれらの特権はほとんどが諸侯の手にわたってしまうのである。

オットーはこれまでザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲン各大公領の割拠体制を崩し、中央集権化を進めてきた。そのため各大公の王朝的支配権は薄まるが逆に伯爵クラスの権限が強くなる。

そして彼らはイタリア遠征の従軍の対価として様々な特権を手にする。なおかつ伯爵領は世襲が当たり前となり、土着勢力と化していく。こうしてオットーの時代には約200の有力家門がひしめくことになる。

そこでオットーは彼ら世俗領主を牽制するために司教領にも特権を授与する。司教は聖職者独身制の縛りで司教領が世襲となることはない、というのが当初の狙いだ。

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