「学校のママ友グループになじむのが難しい」人へ3児の母・小児精神科医が提言する「群れない力」

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「ママ友とのつき合いが難しい」と感じる人は少なくない。

「娘は現在中学2年生で、中高一貫の中学に受かって通っています。学校にもすぐに馴染んで楽しく過ごしていますが、馴染めないのは私……。親の親睦会が定期的に行われていてそれに参加しないと、なんとなく気まずい雰囲気に……。居心地が悪く参加したくないのですが、不参加の人の噂話をする人もいて、ちょっと怖い状況になることも。人と群れるのが苦手で、どうにか避けたいのですが、娘に悪影響が出ないか心配で我慢して参加しています」(45歳)

「つらいのは、保護者のLINEグループ。学校主催の音楽会のお手伝いをしてくれる親同士の連絡でグループLINEを作り、最初はイベントの連絡事項のみだったのですが、次第に世間話的な連絡も増えて、毎日やり取りをするようになりました。仕事中、LINEが開けないときもあって既読にならないと、『連絡取れないから心配で連絡した』とメッセージが……。友だちではないし、どう距離を取ったらいいかわからず悩んでいます」(40歳)

友だちではないけど、子どももかかわる関係性だから無下にはできない……。保育園や学校での保護者同士のつきあいは簡単にはいかない。

『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』(文春新書)などの著書がある小児精神科医でハーバード大学医学部准教授の内田舞さんのところにもそういった学校コミュニティで悩む母親たちからの声が寄せられることがある。前編「「PTAのボスママにうんざり」ママ友との関係に悩む親に3児の母・小児精神科医が出した回答」ではなぜそういった問題が起こるのかを内田さんに解説してもらった。後編では、ママ友の悩みの中でもっとも多い、学校行事での対応について引き続き内田さんに寄稿いただいた。

子どものイベントでの自分の立ち位置

学校のイベントに保護者として参加すると、「自分は馴染めるだろうか」「周囲から浮いていないだろうか」 と、“自分がどう見られているか”に意識が向きがちです。でも実は、その意識を少し変えるだけで、その場の居心地はかなり変わります。イベントへ向かう前に、自分にこう言い聞かせてみます。

「今日は、子どものワクワクを一緒に楽しみに行く。他のお母さんたちとの会話は、“あったらうれしいおまけ”くらいでいい」

そして、「私は私なのだから大丈夫」と心の中で静かに認識してみるといいかもしれません。「そう言われてもそう思えない……」という人は、次のセリフを心の中で繰り返してみるといいでしょう。

「私はもう十分に自分なりに意味のある人生を歩んでるし、大切な人間関係を持っている。私はもう、私がなりたい私である」

そんなセリフを唱えるなんて恥ずかしい……と思うかもしれませんが、心の中だけでつぶやくのですから問題ありません。想いを言語化することは、不安を整理する上で心理学的にも大切なプロセスと言われています。自分の中で静かに自分自身を認めてあげるわけです。自分が誰であるかが変わるわけでもなければ、自分を変えてまで誰かに認められる必要もない……。この軸をまず認識することで、“居場所を探しながら”イベントに参加するのではなく、自分の軸を持ったまま、その場にいられるようになります。

心の主導権を他者に渡さない

そして、学校行事などさまざまなイベントを企画してくれた人には、もちろん感謝を伝えていいのです。

「企画してくれてありがとうございます」

「素敵な会ですね」

でも、それで十分です。

思ってもいない建て前的なお世辞をいう必要はありません。また、その人に「自分が楽しめるかどうか」「どんな気持ちでいるか」といった心の機微を伝えることはありません。日本では、人とのコミュニケーションを円滑に保とうと、必要以上に褒めたり、お世辞を言うという文化が存在します。礼儀を保つことはもちろん必要です。でも、自分の心の快適さは自分で守っていいのです。「心の主導権まで渡さなくていい」と思います。

実は、私にも少し苦手だと感じるママ友がいます。彼女は、私が何かを手伝ったり貢献したりしても、感謝や反応がほとんど返ってこなくて、まるで私がそこにいないかのように振る舞われたと感じ傷ついたことが何度かありました。

あるとき、彼女が主催するイベントに参加しなければならない機会があり、私は少し緊張していました。そこで、会場にはいない親しい友人Aこんなメッセージを送りました。

「もし彼女の態度で、私が“自分が足りないんじゃないか”と不安になりそうになったら、遠くから心の碇(いかり)になっていてほしい」

そのとき、私は“心の碇”というイメージを持ってみたのです。私が相手の態度や場の空気に気持ちが流されそうになっても、「私は私」と、自分を元の場所につなぎ留めてくれる存在、という意味でした。

友人Aは、実際に何か特別なことをしたわけではありません。ただ、「心の碇」として存在してくれただけです。でも、「自分には、ちゃんと自分をわかってくれている人がいる」と思えることが、その日とても支えになりました。

学校コミュニティの中で感じる孤独や緊張は、その場だけを見ると、とても大きく感じられることがあります。けれど、自分の世界はそこだけではありません。自分を理解してくれる人、自分らしくいられる場所が別のところにちゃんとある。その感覚を思い出せるだけで、人間は少し落ち着いて、その場に立てるのだと思います。

子どもの楽しそうな姿を自分の“中心”に置く

子どものイベントであなたが楽しみにしていることはありますか? 合唱大会なら、舞台の上で一生懸命歌っている姿。スポーツイベントなら、汗だくで走り回っている姿ではないでしょうか。

学校コミュニティやママコミュニティでは「お母さんたちの輪に入れたかどうか」ではなく、 本来は「子どもが幸せそうだったかどうか」が主目的なのです。まずは一番大切な主目的に集中して気持ちを注いでみる。それだけで、その場の意味は大きく変わります。

ただ親になると失いがちな気持ちですが、「子どもが楽しんでいるから自分もうれしい」という視点だけでなく、「イベントそのものを自分自身でも楽しんでみる」というのもとても大切なことだと思います。

例えば、屋台などが出る文化祭に参加するなら、「どこの出店がおいしいかな」と料理を食べ比べてみる。 実際に食べてみることで、「え、これ案外すごくおいしい!」と、親としてではない小さな発見があったりします。演劇なら、保護者同士の空気を気にするより、舞台のストーリーや演技に入り込んでみる。そうやって、“人間関係”以外に意識を向ける場所を作ると、その場の緊張感は少し和らぎます。

私自身、アメリカに引っ越してきたばかりのころ、知り合いも少なく、孤独を感じることもありました。

そんなとき、知人に誘われて湖で泳ぐイベントに行ったのですが、 「友だちを作らなきゃ」と考えるより、まず湖で泳ぐことそのものを楽しんでみたいと思いました。 水の冷たさや自然の景色を味わうことで、とても気持ちよく、「こんなふうにリラックスできる場所があるなんて」と新しい土地をもっと知りたい、楽しみたい、という気持ちが自然と沸いてきました。

またコンサートに行くときには、その歌手のツアーテーマに合わせた服を考えたり、少し歌詞を覚えていったりして、自分なりにイベントを楽しめるよう工夫しました。すると、言うベントで「素敵な服ね」と話しかけてくる人もいて、そうした場を通して友だちができたこともありました。

もちろん、人とつながることがすべてではありません。たとえ誰とも深くつながらなかったとしても、「今日、この体験自体を楽しめた」と思えると、その日は十分に意味のある一日となり、孤独を感じることはありませんでした。

人が集まる場では緊張感を誘う人物が存在し、その空気に流され、つい「誰とつながれたか」「周囲の人とうまく交流できたか」でイベントの価値を測ってしまいがちです。でも本当は、「自分がその場で何を感じられたか」 「どんな景色や音や空気を楽しめたか」 も、同じくらい大切なのかもしれません。「グループに馴染めたか」をその日の成功基準にするのではなく、「自分なりにその場を味わえたか」を基準にしてみる。こう考えると、人間関係が期待とおりに深まらなかった日でも、「今日はいい日だった」と思えることが増えていく気がします。

誰かひとりと意味のある会話ができたら十分

「コミュニケーション力」というと、たくさんの人とつながれること、どんな人とも物怖じに話せることなどが評価であるように語られがちです。でも、本当に大人数の輪に入る必要があるのでしょうか。

私自身、子どもの学校関連のコミュニティだけでなく、仕事でもさまざまなコミュニティとかかわり、それ以外にも初対面の人と会話することも少なくありません。でも、たくさんの人とつながることが大切という意識は持っていません。大事なのは、数ではなく「意味のある会話ができるか」ということだと思っています。

子どものイベントで、もし誰かが話しかけてくれたら、その人のことを少しでも知ろうとしてみます。

「子どもたち、頑張ってましたね」

「お子さん、こういうイベント好きなんですか?」

そんな小さな会話からスタートしてみます。そして、帰るころに「今日、誰かについてひとつ新しいことを知れたな」と思えたら、それはもう“社会交流として大成功”だと思っています。

また、私が意識しているのは、「次に誰と話さなきゃ」と考えすぎて、目の前にいる人との時間を雑に扱わないことです。学校のイベントや保護者同士の集まりでは、つい「あの人にも挨拶しなきゃ」「あの輪にも顔を出した方がいいかも」と気持ちが落ち着かなくなることがあります。特に、“中心”にいる人が気になる場では、「ちゃんと社交的に振る舞わなければ」と焦ってしまうこともあるかもしれません。

もちろん、挨拶をしなければならない場面もありますし、自分がプレゼンテーションを控えていて、会話を途中で切り上げなければならないこともあります。それでも私は、なるべく「挨拶だけして次へ行く」のではなく、目の前の人とちゃんと会話をすることを意識しています。その代わり、「今日はたくさんの人と交流できなくてもいい」と割り切るようになりました。

これは以前、私が通っているジムのパーティーに参加したときのことです。 普段は一緒に運動をしているものの、お互いのことを深く知っているわけではない人たちばかりで、「何を話したらいいんだろう」と戸惑う場面も多くありました。いわゆる“みんなでワイワイ盛り上がる”ような感じではなかったのです。

でも、パーティーが終わって振り返ったときに、ある一人のジムメンバーとの会話を思い出しました。それまでほとんど話したことがなかった彼女は東欧出身で、アメリカに移住する前はロシアに住んでいたそうです。 パートナーと二人の子どもを育てていること。そして、彼女がどんな仕事をしているのか……。私はその日、彼女について今まで知らなかったことをたくさん知りました。だから、「多くの人と交流できた日」ではなかったけれど、「とてもいい会話がひとつあった日」となったのです。

そして、そのひとつの会話があったことで、「行ってよかった」と思えました。社会交流というと、「どれだけ多くの人と話せたか」「どれだけ輪に入れたか」で成功か失敗かを判断してしまいがちです。でも、「誰か一人について、新しいことを知れた」「誰かと少しでも本音に近い会話ができた」。そんなふうに期待の置き方を少し変えてみると、「行ってよかった」と思えるイベントは、案外増えるのかもしれません。

他者の視点よりも自分の満足感

たとえ今、学校コミュニティの中で少し居心地の悪さを感じていたとしても、あなたが誰であるかは変わりません。誰かに強く認められなくても、輪の中心に入れなくても、あなたがこれまで大切にしてきたもの--人との向き合い方、優しさ、価値観、家族との時間--には、ちゃんと意味があります。

人は集団の中にいると、つい「ここで受け入れられているか」を気にしてしまいます。でも、本当は、誰かに合わせて自分を変え続けなくてもいい。自分が大切にしたいものを、自分で大切にしていていいのです。

もしこの記事を読んで、「私だけじゃなかったんだ」と少しでも肩の力が抜けたり、「私は私でいいんだ」と思えたりしたなら、とてもうれしく思います。

学校コミュニティという小さな世界の中で気持ちが揺れそうになったとき、この文章が、あなたを「私は私」と元の場所につなぎ留めてくれる、“心の碇”のような存在になれたら--そう願っています。

【前編】「PTAのボスママにうんざり」ママ友との関係に悩む親に3児の母・小児精神科医が出した回答