【笑点60周年】「どうか戻って」と懇願され番組に復帰…「5代目三遊亭円楽」が爆笑の陰で乗り越えた“週3日の人工透析と脳梗塞”
【写真】この機会に全把握! 2026年「笑点」メンバーは誰?
40周年で“卒業”
第1回【【笑点60周年】出演は「実は乗り気ではなかったんですよ」 大喜利メンバー時代の「5代目三遊亭円楽」に“降板”を決意させた師匠の指摘】を読む
あのテーマソングを聞かなければ“日曜の夕方”ではない……という気がするほど、お茶の間に入り込んでいるテレビ番組といえば「笑点」。1966年5月15日にスタートし、今年でなんと60周年を迎える。
現在の春風亭昇太を含め、大喜利メンバーから“昇格”した司会者は3名。その初代は5代目三遊亭円楽である。円楽師匠は1966年の番組スタート時に大喜利メンバーを務め、降板と復帰、闘病を重ねた末、「笑点」40周年の2006年5月に“卒業”した。当時の「週刊新潮」は円楽師匠にロングインタビューを敢行。山あり谷ありの噺家人生と「笑点」をいかに語っていたのか? 後編をお届けしよう。

(全2回の第2回:「週刊新潮」2006年5月25日号「さらば『笑点』 三遊亭円楽『笑い』と『病』の40年を語る」を再編集しました。文中敬称略)
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三波伸介とは「流儀が違う」
円生亡き後も円楽師匠は全国を回っていたが、昭和57(1982)年12月、福岡の独演会会場に、突然、「笑点」のスタッフから電話がかかってきた。「笑点」3代目司会者・三波伸介(享年52)、急逝の報せである。
「“どうか戻ってきてくれないか”というんですね。“メンバーみんなが(司会は)円楽さんがいい、と言っている。だから来てくれませんか”といいます。で、“わかりました”と」
昭和58(1983)年1月、今度は司会者として日本中に笑いを提供していくことになる。
「アタシの最初の司会でね、こんちゃん(林家こん平)を裸にしちゃったんですよ。まぁ、とにかくつまらねぇ答えばっかり言うからね、座布団がなくなったんで、着物の帯から猿股も取っちゃってね。後で“あれはひどい”って随分と抗議が来ましたよ。でもね、三波ちゃんとアタシでは流儀が違いますからね。こんちゃんには悪かったけど、ここはガラッと変えないといけないと思ったんですよ」
腎臓は幼少のころから傷めていた
円楽流の司会を次第に確立。番組の人気はますます磐石となっていったが、その一方で、円楽師匠は病魔と闘っていた。
「66歳の時、顔が腫れ上がって、目も開かない、子供の時と同じ症状になっちゃったんです。実は腎臓は、それこそ幼少の頃から傷めていました。昭和16(1941)年の暮れのことでした。急に顔が腫れ上がってね、夏場ならスイカを食べれば小便が白くなってすぐ治るなんていわれていたものだけど、あの時は冬ですよ。しかもね、これがまぁ何というかね、楽太郎に“馬”だなんだと言われていましたが、この時行った病院が動物病院なんですよ。なんともいい加減だね。牛や馬を治す先生のところに連れていかれたんです。一般の先生よりもこっちの先生の方が腕がいいってね。
そこで飲み薬をもらったんですよ。一升瓶6本ぐらい買い込んでね、何も食べずに飲んでね。それを繰り返していたら、小便が白くなって顔の腫れも引いたんですよ。ああ、これで良くなったと思っていたんですが、これが悪かったんですね。その後、病院で検査を受けることがあった時、“塩分はひかえめ、醤油や味噌もダメですよ”と注意を受けたんです。でもかまわずそのままの生活を送っていたんですよ」
「死んでもいい」と言ったら医師が激怒
66歳で腎臓病が再発した時、病状は以前に増して悪化していた。
「先生には“もう腎臓が両方ともダメです。これは誰かいいドナーから腎臓を移植するか、さもなければ透析を続けるか、2つに1つです”といわれましてね、アタシには息子がいますけどね、河野洋平さんみたいに息子さんをドナーにするというのは、どうも気が引けましてね。息子にはまだ将来があるんだしね。それでね、“アタシももう年だし、これで人生終りだろうと思い、(寄席『若竹』開設で作った)借金も返し終わったし、何の未練もないから死んでもいい”と言ったんです。
そしたら先生に怒られましてねぇ。“そういうことを師匠のような影響力のある人が言うとは何事ですか。そんなことだから子供がむやみに死んでしまったり、人の命を何とも思わない風潮が生まれてしまうんですよ。生命というものはそんなものじゃない。生きていくためには耐えることが多いし、食事制限とかも楽なもんじゃない。でもね、それをやっていけば生き続けることができるんです”と言われたんです」
それ以後、厳格な食事制限に加え、週3回、1回4時間の人工透析を受ける生活が始まった。
「味噌汁はダメ。醤油は減塩でもダメ。野菜は全部水に浸けないとダメ。2〜3時間浸けるとカリウムが抜けるそうですよ。海草もカリウムが多すぎる。苺とか果物もダメ。私らの年代だとバナナがいいと思いますが、栄養価が高すぎる。その代り、缶詰のみかんなんかだと、甘い汁を全部抜いてパラパラになったものなら食べていい。魚も煮汁のかかったのはダメ。食べる時はパラパラして味も素っ気もない」
メンバーを見ても名前が出て来ない
そんな生活を送りながら「笑点」への出演を続けていたが、昨年10月、今度は新たな病魔が襲いかかってきた。脳梗塞である。
「あの日は寝床で起き上がろうとしたら、言葉が出て来ないというか、口が開かないんです。あれ、おかしいなと感じましてね。これは脳かな、治っても無理かなと思いましたね」
東京女子医大病院で闘病生活を送った。幸い後遺症は出ず、今年3月「笑点」に復帰したが、
「メンバーを見ても名前が出て来ない。見たことのある人だな、とは思うんですよ。でも、誰だっけ、この黄色い人。ええと、ラーメンの、あの、あの、あの、あ、木久ちゃんだ、となるんですよ。普通のお喋りなら何とかなるのですが、司会となるとね」
円楽師匠、ここを潮時と判断。「笑点」の司会を降りたわけだが、
「弟子たちに『笑点』を辞めるからって、落語までやめちゃだめですよ”っていわれましてね。アタシはやめないよ”とはっきりいいました。療養していけば、ちゃんとまた話せるようになるかもしれない。そうしたら、小さな寄席なら出られるかもしれない"とね」
いつの日か、十八番のたらちねを堪能したいものだ。
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「この人は50歳になったらダメになります」――。「笑点」で売れっ子になったとき、円生師匠の言葉が自分を省みるきっかけとなった。第1回【【笑点60周年】出演は「実は乗り気ではなかったんですよ」 大喜利メンバー時代の「5代目三遊亭円楽」に“降板”を決意させた師匠の指摘】では、その詳細などを語っている。
デイリー新潮編集部
