時速50キロのクマに「背を向けて走る」は命取り…人身被害データで判明した「遭遇時の生存率を上げる鉄則」
※本稿は、小池伸介『クマは都心に現れるのか?』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■「普通の道」を通る登山者の被害は少ない
少し前になるが2010年頃、日本クマネットワークではそれまでの人身被害を集計するというプロジェクトを実行したことがあった。これは各地に散らばっているクマによる人身被害の情報を全て集め、データを解析しようという試みだ。私は関東地方、特に南関東地方を担当した。
クマの生息数が少ない南関東地方でも、クマとの事故は確かに存在する。特に奥多摩や丹沢山系などで発生しているが、件数は少なく年間数件程度であり10年間では15件程度だった。当時の南関東地方のクマの人身被害の特徴は、基本的に山間部で発生しており、その6割から7割が通常とは異なるアクティビティをする人々が被害に遭っていた。
この通常と異なるアクティビティとは、通常の登山道をたどる登山やハイキングといった行動とは違い、あえて他者が来ないような場所を選ぶ山中の行動のことだ。
登山道を登り、山頂に行き、下りてくるという一般的な登山者へのクマによる人身被害は極めて少ない。事故のほとんどは、渓流釣り、トレイルランニング、バリエーションルート(登山道ではないルートを登る難易度の高い登山)、マウンテンバイクなど、通常とは異なる形で山に入る人々が遭遇している。これは、山菜採りやキノコ狩りで、他者に知られたくない場所へ行きがちな行動と似ていると言える。
■奥多摩で起きた渓流釣り中の事故
こうしたことから推定されるのは、おそらくクマは通常の登山道といった特定の場所、特定の時間(日中など)に人間がよく来ることを理解し、警戒しているのではないかということだ。
しかし、バリエーションルートなどのように、普段は人間が通らない場所を通ると、クマからしてみれば、人が来ないと思っていたような場所に人が来てしまうことになる。詳しい聞き取りができた丹沢山系の事例では、鈴もつけていた登山者が、通常の登山道ではない尾根を進んでいたところ、子連れのクマに遭遇して襲われたというものがある。
また、奥多摩ではある登山家が山道を走っていて被害に遭っている。人間が歩く速度ならクマのほうも未然に人の存在に気付き、遭遇を避ける余裕もあるが、速い速度で走って接近したことで、クマのほうはその場を立ち去る余裕がなくなってしまったのだ。
速度が速いという点で、マウンテンバイクも同様である。クマが人の接近を予想できない、あるいは人が来ることに対してその場を立ち去るタイミングを逃してしまうようなシチュエーションが事故につながりがちということになる。
他者が行かない場所へあえて行くという意味で、渓流釣りも当てはまる。

2025年に奥多摩で起きた事故では、被害者は鈴をつけていた。しかし、渓流の中は水音があるため鈴の音は伝わりにくい。また、川沿いに風の流れが発生し、渓流釣りでは下流から上流へ進んで行くため、人間の匂いは上流に届きにくくなり、その結果、クマと鉢合わせてしまう。クマが人間を感知できない状況では、事故に遭いやすくなる。
一般的に素早い行動はクマを刺激するが、そうした特定の行動で人間がクマに刺激を与えたことで事故が起きるというよりも、お互いが意図せず、偶発的に鉢合わせた結果、事故に至るのだ。
■スピードとほかの人間の有無がカギ
次にヒグマの事故について考えてみる。2025年8月14日に北海道の知床・羅臼岳登山道で、登山から下山中の2名のうち1名がヒグマに襲われた。被害者は鈴を持っていたものの、山中を非常に速いスピードで下山していたという。加害したのは子連れの母グマだった。
このケースでは、かなり速いスピードで接近した上に、見通しの悪い箇所に差し掛かったところで、アリを食べていたヒグマの親子に遭遇した可能性が高い。クマが人間の接近に気付いたとしても、その場を立ち去る前に人間と遭遇してしまった可能性がある。そして、母グマは子グマを守るために本能的に男性に攻撃したと思われる。
北海道のヒグマ被害では、渓流釣りでの人身被害で致死率が非常に高いというデータもある。サケの密漁者も同様だが、他者に知られないように静かに行動し、人間があまり立ち入らない場所で行動するため、やはりクマと鉢合わせをする危険性が高くなる。
沢登りと呼ばれる、水に浸かりながら渓流を遡行することを愛好する登山者もいる。このように通常の行動から外れ、普段は人間がいない場所をわざわざ選んだりすると、クマとの予期せぬ遭遇を招く危険性がある。
■遭遇時の鉄則は「クマを驚かせない」
遭遇しないように気をつけていても、運悪く出遭ってしまうこともある。ただ、不意に出遭ってしまっても、人身被害に至らず、そのまま互いに離れていった事例も多い。
人身被害には、人間の行動、人間の年齢や人数、クマの性格、子連れなどクマの状態、クマがこちらに気付いているかいないか、遭遇した地形、遭遇した距離、季節や時間帯など、千差万別のバリエーションが考えられる。一つとして同じ事例はなく、何が共通していて、何が特殊なのかもよくわからないというのが正直なところだ。
そのため、「クマに出遭ったらどうすればいいか?」とよく聞かれるが、これをすれば100%安全というような正解はない。ただ、クマと遭遇した場合に人間が避けるべき反応や行動として共通して言えるのは、クマを驚かせないことだ。
クマは自分自身が生き延びていくため、あるいは繁殖して子孫を残すために、様々なセンサーを備えている。動体視力が非常に優れていることを考えると、遭遇した場合、あまり急な動きをしないほうがいい。
■不意に人間に出会ったクマはパニックになる
クマが人間を攻撃するのは、基本的に防御を主な目的にしている。子を守る、あるいは自分自身を守る、その場を早く去りたいといった行動をするために人間を攻撃する。不意に人間に出遭いパニックになってしまったクマは、自分の逃げ道すら見つけられないような状況になっていることも多い。そうしたクマは、目の前にいる人間を叩きのけてでも、逃げようとするわけである。
そうした場合、正体がよくわからない相手(人間)が激しく動いていれば、クマはこいつを何とかしなければいけないと考え、前足で激しく叩くなどの行動につながる。そういう意味で、やはり不意に遭遇した場合、クマの前で急な動きをせず、クマをパニックにさせないことがとても重要となる。
クマをパニックにしてはいけないのと同時に、自分もパニックになってはいけない。遭遇時の状況によって対応も違ってくるので、落ち着いて状況を把握し、自分の取るべき行動を冷静に判断しなくてはならない。
例えば、クマがこちらに気付いているのか気付いていないのか、目の前のクマは子連れの母グマか単独のクマか、怒っているか怒っていないか、どっちの方向へ逃げたがっているのか、こちらをどう気にしているのかなどによって、次に取るべき行動が変わってくる。いきなり遭遇したら、とにかく落ち着いてクマの様子を観察しなければならない。
■ゆっくり後退しながら距離を取る

クマと向き合いつつ、ゆっくり後ずさりするのも有効とされている。その場合もクマがゆっくり近付いてくるのか、それとも走って向かってくるのかによって対応は異なるだろう。
クマがゆっくりと移動している場合、いわゆる「木化け」という避け方もある。これは木に化けるという意味ではなく、クマの前から消えるようにする対処法だ。クマと距離があり、自分にも気持ちに余裕があり、またクマがあまりこちらを気にしていない場合などで、クマと自分との間に樹木や岩などを挟み、それに隠れる。
クマとは目を合わせながら隠れたほうがいいのか、目を合わせないほうがいいのか、いろいろ意見もあるが、目を合わせる合わせないにかかわらず、基本的にはクマの様子をしっかり観察しながらゆっくりと後退し、距離を取っていく。そうすると、クマのほうはいつの間にか人間がいなくなったと思ってくれるかもしれない。
■本気のクマから森の中で逃げ切ることは不可能
だから、自分がパニックに陥り、背中を向けて走るなどは決してしてはいけない。そもそもクマは走るものを追いかける習性があると言われている。クマも驚くし、素早い動きに反応を示す。また、走ることで人間側のパニック状態も継続してしまう。
それ以上に背を向けてしまえば、クマの様子をうかがうことができなくなる。つまり、素早い動きでクマをパニックにせず、人間の側も落ち着いて状況を観察することが重要であり、逆にクマを驚かせたり、背を向けて逃げたりすることは絶対にやってはいけない行動なのである。
クマは時速50キロ以上で走ることができ、その上木々が倒れ、岩が転がる森の中では、クマのほうがはるかに巧みなルートファインディングが可能である。クマは木登りも極めてうまい。クマが本気で追いかけてきたら、森の中で逃げ切ることはできない。
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小池 伸介(こいけ・しんすけ)
東京農工大学大学院農学研究院教授
1979年、名古屋市生まれ。東京農工大学大学院連合農学研究科修了。博士(農学)。専門は生態学。主な研究対象は、森林生態系における生物間相互作用、ツキノワグマの生物学など。現在は、東京都奥多摩、栃木県、群馬県の足尾・日光山地、神奈川県丹沢山地などにおいてツキノワグマの生態や森林での生き物同士の関係を研究している。著書に『クマが樹に登ると』(東海大学出版部)、『わたしのクマ研究』(さ・え・ら書房)、『ツキノワグマのすべて』(文一総合出版)、『ある日、森の中でクマさんのウンコに出会ったら』(辰巳出版)、『タネまく動物』(編著、文一総合出版)など。2024年よりNGO日本クマネットワークの代表も務める。
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(東京農工大学大学院農学研究院教授 小池 伸介)
