認知症検査で30点満点中12点だった79歳の母親は中程度のアルツハイマー型認知症と診断された。介護度が上がる中、大学生の次女も倒れてしまう。兄は母親の介護に見て見ぬふり。働きながらのダブルワークで崖っぷちにたったバツイチ50代女性が介護を悔いなく最後までまっとうできたのはなぜか。ノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが取材した――。(後編/全2回)
【前編のあらすじ】中国地方在住の京橋九美さん(仮名・50代)は地元の短大を卒業後、家を出て高校の同級生と結婚。2人の娘を出産した。だが、夫の金銭感覚のルーズさに耐えきれなくなり、40歳で離婚。その後、同居していた父親が72歳で肺がんのステージIVと診断され、74歳で亡くなった。夫ファーストな母親は夫の発病の頃から異変が見られ始め、その後、認知症検査を受けると、中度のアルツハイマー型認知症であることが判明した。

■母親vs.娘

ある日、74歳の母親は麺が茹でたての熱々の冷やし中華を作ってくれた。別の日は生暖かく色がやや黒ずんだ刺身が皿に盛られていた――。

写真=iStock.com/marucyan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/marucyan

母親はアルツハイマー型認知症の診断を受けた後、娘の京橋九美さん(仮名・50代)が免許証の返納を促すと、運転で怖い思いをしたのか、母親はあっさり返納を承諾した。

その後、返納したこと忘れて、一生懸命免許証を探していたが、京橋さんは知らないふりを通した。

要介護認定を受けると、結果は要介護1。母親はすぐに週3回のデイサービスの利用を開始した。

ある日、京橋さんと母親が買い物に出かけると、「お久しぶり〜お元気?」と声かけられ、にこやかに立ち話が始まった。しかし、後で「どちら様?」と聞いたら、「知らない」と母親。

家に電話がかかってきた時も、楽しそうにお喋りしていると思ったら、「知らない人。初めて喋ったわよ」と平然としていた。

京橋家の家計の管理は、数年前に亡くなった父親がしていた。そのため、父親の生前に3人で話した時は、「私には分からないことが多いから九美に任せるわ。そのほうが安心ね!」と言っていた。しかし父親他界後は、「私のお金よ! 私がちゃんとやる!」と言って譲らない。

しばらく母親に任せておくと、毎日のようにお金を引き出し、1日数万円ほどのペースで財布からお金が消えていく。

もちろん、「何に使ったの?」とは聞けない。すぐ怒り狂うからだ。

これでは約1000万円あった貯金が、あっという間になくなってしまう……そんな危機感を抱いた京橋さんは、何度も母親を説得して、通帳を預かり、必要なお金だけ渡すようにした。

すると案の定、母親はそれを忘れ、「通帳がない! お金がない! 返せ〜!」と激怒し、仕事中でも電話をしてきたり、寝ている京橋さんを叩き起こしに来たりするようになった。

また、夜中に起きては、誰もいない隣のベッドを見て、「大変! お父さんがいない!」と大騒ぎする。京橋さんは、母親がデイサービスに行っている間にベッドを処分した。

さらに、母親は何かを失くしては家探しが始まり、家中をぐちゃぐちゃにしてしまう。その上、母親はなんでもタンスの中に隠すことが多く、まだ乾いていない洗濯物や財布、飲みかけのビールや柿の種などまで隠してしまう。

京橋さんは、仕事から帰宅すると家の中のアンモニア臭が気になるようになった。臭いの元を探すと、大抵タンスの中で汚れた尿とりパッドの塊を発見した。

京橋さんは、タンスを母親の部屋から撤去。気付いた母親は案の定激怒した。

■リモート講義後に祖母探しをすることになった次女

母親は、京橋さんが「郵便受けは開けなくていいからね」と何度も言い聞かせているのに、毎日何度も郵便受けを開けて、回覧板が入っていると、どこかへ持っていってしまう。玄関や郵便受けに貼り紙をしても効果なしだった。

大学に進学した次女のリモート講義の日。京橋さんは仕事に出かけていた。

家の中には次女と母親だけ。郵便受けに回覧板を見つけた母親は、「回覧板が来てたから持って行ってくるね〜」と次女に声をかけた。

リモート講義中の次女は、「お母さんが見てから回すから、置いておいて〜!」と叫んだが、祖母は出て行ってしまった。

回覧板は、隣の家の郵便受けに入れるだけだ。次女は講義を聞きながらも、祖母が一向に帰ってこないことが気になった。だが講義が終わるまでは耐え、終わった途端に祖母を探しに出かけた。

近所に祖母の姿はなく、次女はどんどん探す範囲を広げていった。

そして自宅がある町内の、一番端にある通りに出たところで、祖母と遭遇。どうやら家に戻れなくなっていたようだ。見ると回覧板を持っておらず、どの家の郵便受けに入れたのか、はたまた誰に渡したのかも覚えていない。

帰宅後に次女から話を聞いた京橋さんは、町内の家を一軒一軒まわって回覧板を探す羽目になった。

写真=本人提供
左が京橋さん(仮名)、右は母親 - 写真=本人提供

■“この顔にピンときたら110番”

2021年9月。77歳の母親は、廃用性浮腫のため入院することになった。活動性の低下によって筋力が衰え、血液やリンパ液の流れが悪くなることで起こるむくみが起きていた。

「通常、2週間入院してもらいますが、認知症もあるので、早めにお帰りください……となることもあります」との説明があり、「せっかく入院して治療するのだから、ちゃんといい状態になってから帰りたい」と思った京橋さんは、ゆっくり丁寧に入院や治療のことを母親に説明。すると、「わかったよ」と頷いてくれた。

ところが入院したその夜、「お母さんが興奮されていて、娘さんに電話してと言われるので、ちょっと代わりますね」と看護師から電話がある。母親は、「私をこんな施設に入れるなんて! なんてひどいことするの?!」と激怒。京橋さんは懸命になだめた。

こんな調子では早々に「お帰りください」となってしまうのでは……。と不安になった京橋さんだったが、仕事が休みの日に面会に行くと、部屋に母親がいない。ナースステーションへ行ってみると、看護師さんの中に母親の姿が。

なんでも、部屋でじっとしていることができず、ナースステーションに入り浸っているのだという。

次の休日に面会に行くと、ナースステーションの前に母親の写真が貼られ、笑顔の母親の下に名前と「離院注意!!!」と書かれ、さながら“この顔にピンときたら110番”のよう。それを見た京橋さんは、大爆笑してしまった。

大爆笑している京橋さんに気付いた母親は、つられて笑った。

■デイサービスからショートステイに

母親はデイサービスを、「フィットネス」と言って楽しんで通っていた。しかし、利用していたデイサービスは、送迎時間が日によってまちまちであるだけでなく、家族の送り出しとお迎えが必要だった。フルタイムで働いている京橋さんが「家族が送迎できない日があるが利用したい」旨を相談したが、「できなければヘルパーさんを頼んでください」と言われてしまった。

ヘルパーを依頼することで自己負担額を増やしたくなかった京橋さんは、しばらくは自分の休日に母親のデイサービスを入れ、送迎時に立ち会えるよう工夫。だが次第に、有給を使い果たしてしまった後のことが不安になってきた。

さらにコロナ禍になると、デイサービスに通えない日が続き、母親の認知症は急激に悪化。

2022年1月。母親が要介護3になったことを機に、京橋さんは4月からデイサービスをやめることを決めた。もう母親を片時も1人で家に置いておけないため、平日の仕事の日はショートステイを利用し、休日は家で母親と一緒に過ごすことにした。

しかしこれにより、京橋さんは1人でゆっくり過ごす時間がなくなってしまう。

夜になっても何かしら気になってゴソゴソ動き出す母親のせいで、ろくに眠れないまま仕事をする毎日に身体が悲鳴をあげ始めていた。

■知らない」「何もしない」なのに介護について口出しする兄

「物盗られ妄想」もひどかった母親は、大学進学を機に家を出ていた息子(京橋さんにとっての4歳差の兄)に電話をしては、京橋さんを泥棒扱いし、兄はそれを信じて京橋さんを責めた。

その頃家庭を築いていた兄は、単身赴任で地元に戻ってきており、京橋さんは母親の介護のことを兄に相談したかった。しかし兄は、口を開けば「看れないなら施設に入れろ」とバッサリ。「簡単に言うけれど、条件の合う施設ってなかなか空きがないし、あっても母の貯金や年金じゃすぐに底をつきる」という京橋さんと、その度に喧嘩になった。

そんなとき、兄に京橋さんの苦労を理解してもらうため、家に泊まってもらう機会ができた。

兄が泊まる部屋は母親の隣の部屋。

京橋さんが母親をベッドに寝かせ、「おやすみなさい、また明日」と言って部屋を出てしばらくすると、「玄関閉めたかなぁ〜? ねぇ、閉めた〜〜〜?」と言いながら自分の部屋から出た母親は、京橋さんたちが暮らす2階に向かい、大声で叫びながら壁をどんどん叩く。

予想ができていた京橋さんは、「閉めてるよ〜。心配いらないから布団入って〜!」とすぐに叫び返す。

母親は部屋に戻っていったが、またすぐに「玄関閉めたかなぁ〜? ねぇ、閉めた〜〜〜?」

このやりとりの3回目に兄が飛び出してきた。

「ええかげんにせ〜よ! うるさいわ! 寝れんわ!」

怒りながら母親を部屋に戻す。

しかし、兄が母親の部屋のドアを閉めた途端、母親が開けて出てくる。兄の怒鳴り声が近所迷惑だと思った京橋さんは、兄をなだめ、母親を寝かしつけた。

写真=iStock.com/Makhbubakhon Ismatova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Makhbubakhon Ismatova

翌朝、京橋さんが母親のポータブルトイレの掃除をし、おむつを片付け、着替えをさせ、汚れ物の洗濯をして、朝ごはんとお昼のお弁当を作っていると、「こんなこと、毎日、毎晩か。本当に大変なんだな……」と兄。

「私は、兄に分かってもらいたいわけではありませんでした。お世話を代わってほしいわけでもない。ただ、知らないのに、何もしないのに、介護について口出しをしてくる兄が許せなかったんです。あの頃は本当にしんどかったです」

■転倒を繰り返す母親に「私が」一番望むこと

2022年9月。母親はショートステイ先で転倒。病院へ連れていくと、恥骨骨折だった。固定ができない場所のため、骨の癒合まで安静に過ごす必要がある。京橋さんはショートステイ先と相談し、治るまで預かってもらうことに。当時、ちょうど次女の国家試験が控えていたため、勉強に集中できる環境になったのは幸いだった。

2023年5月。ショートステイ先で母親が転倒。今度は大腿骨頸部骨折だった。母親は手術を受けた後、リハビリ病院へ転院。リハビリ病院の医師には、「ここはリハビリ病院だから、すぐにリハビリを始めます。ただ、お母さんは認知症だから、入院できる期間を全部使っても、回復の見込はないだろうね……。あと今、低栄養になってるから、動くのも難しいと思うね」と言われ、京橋さんはせつない気持ちになった。

この頃からだんだん、母親は京橋さんのことがわからなくなることが増えていた。

リハビリ病院では、母親のリハビリ時間以外は基本、1人で過ごす。そのため、ぼーっとしていることが増え、言葉も減ってきていた。

ショートステイ先の相談員に相談すると、

「このままリハビリを継続しても、良くなるよりも、お母さんらしさがなくなるほうが早いのではないでしょうか。娘さんが一番望まれることは何ですか?」

と言われた。

母親は目に見えて元気がなくなっていく。京橋さんは退院を決断し、ショートステイで利用していた施設にロングステイさせることに。他の利用者さんやスタッフとの面識もあり、病院よりも1人の時間が短いため安心できた。

■「乳がんの母」と「血液の病気の娘」のダブルピンチ

ところが2023年12月。79歳の母親が乳がんと診断された。

母親のがんは予想以上に大きく、「放っておくとリンパ液が外に出てきて、それが悪臭を放つようになるため、取り除くのがベスト」と説明がある。

その時、長女から着信が入った。4月から社会人になり、長女と同じ県で暮らし始めた京橋さんの次女が救急搬送されたという。

「次女は持病もなく、健康そのものでしたが、5日ほど前から発熱しており、病院で検査して、まさに結果が出るその日の朝、動けなくなっているのを長女に助けられました」

京橋さんは、母親の手術計画を進めるのは少し待ってもらい、次女の元へ駆けつけることにした。

次女は急性の血液の病気だった。かなり危険な状態で、京橋さんが行っても反応がなかった。しばらく次女が借りている部屋に留まり、病院に通った。

「天国の父に、『そっちに行ったら追い帰してよ! もし連れて行ったら、もう母の介護しない! お墓だって二度と行かないから!』となかなかひどいことを毎日言い続けました」

すると次女は10日後に意識を取り戻し、2週間後には救命救急から無菌室に移ることができた。

京橋さんは主治医と相談し、一度地元に戻ることにした。

戻った京橋さんは、母親のがん摘出手術の手続きをし、約1カ月ぶりに仕事に復帰すると、仕事と母親の面会に通うハードな日々を過ごした。

■介護は「親子関係を振り返り」「残りの人生を見つめ直す」機会

2024年2月。京橋さんは仕事を調整し、次女の退院に付き添う。次女が借りている部屋にしばらく滞在し、まだ身体が不自由な次女をサポートしていると、母親のショートステイ先から「特養に空きが出ました。ご入所されますか?」と電話があった。

「現実的に考えて、もう、プロの方たちに頼らず暮らすことは無理でした。いろんな気持ちが沸き起こるけれど、『私の選択は間違っていない』と自分に言い聞かせました」

特養に入ったに2カ月ぶりに会うと、「見たことあるけど、名前が……出てこないなぁ……」と言われた。

その後、母親はだんだん食べられなくなり、眠っている時間が増えていった。8月11日に誤嚥性肺炎を起こし、救急搬送。26日、「乳がんの再発、多発肝転移」によって亡くなった。81歳だった。

「父が亡くなる少し前から母は認知症の症状が出ていたため、私は父を亡くした時、同時に母も亡くした感覚を感じていました。そこからは母との長いお別れの日々だったように思います。

一番の後悔は、母の最後の瞬間に立ち会えなかったことです。父を看取り、私は『後悔のない看取りなんてない』ことを実感しましたが、それが悪いことではないことも知ることができました。その時その時、精一杯の決断をしたので、私は間違っていないんだと確信することができました。

介護で何よりしんどかったのは、母にひどい言葉を吐いたことです。もうしんどくて、その時はちゃんと考えるなんてことができなくて、後から自己嫌悪に陥りました。分かっているのに、これを何度も繰り返しました」

京橋さん自身、「仲良しではない」という母親との関係もあり、何度も激しい言い合いをしてきた。言い合いは、その後に待ち受ける家事や、仕事に向き合う体力も気力も奪った。

「認知症になんて、なりたくてなったわけじゃないし、お母さんが一番しんどいよね……それなのに、ひどいこと言ってごめんね」

自己嫌悪に陥った京橋さんが謝ると、母親はこう返した。

「私ね、そんなにしんどいとか思ってないのよ。家のことなーんにもしなくてもやってくれるし。ふふっ」

「本音を聞けたのはよかったですが、もう謝らないぞと思いました。どんなに激しいバトルをしても、すぐに忘れて『お腹すいた。ご飯まだ?』とか言われるんですから……。介護に不安なんてものは感じる余裕さえありませんでした。ただ仕事に打ち込めなくなり、収入が減っていくこと、自分の将来に対して不安になりました」

旦木瑞穂『「毒親の連鎖」は止められる トラウマの呪縛を克服した10人のケース』(鉄人社)

「少しでも面白がって」を心がけながら介護していた京橋さんのブログは、ユーモアと愛情に満ちており、いつも「負けてたまるかぁっっっ‼」で締めくくられていた。

「本当につらくて苦しかったけれど、介護の途中で母と喧嘩別れしなくて済んで良かったですし、あの時の自分の言葉や感情は一生消えないけれど、母に謝ることができて良かったです。介護に限らず、何事も自分が体験して分かることがたくさんあると思います。みんな違って、みんないい。そして、経験したからこそ見える景色ってものがあると思います。そんな景色をたくさん感じて生きるのも悪くないと思っています」

京橋さんは、自分の仕事、母親の介護、娘のピンチと、多忙な生活の中でも、その時その時で最善の選択をしてきたという「納得のプロセス」を踏んできたからこそ、大きな後悔に苛まれずに済んでいるのだろう。しかし、彼女自身も言うように、全く後悔のない介護などはない。京橋さんは今も、ゆっくりと気持ちの整理をしている。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)