依然として、中止や延期を求める声が、開催を望む声を大きく上回った状態にある東京五輪。本当に予定通り開催されるのか。されないのか。

 ダメージは後者の方が大きい印象を受ける。金銭的な問題もさることながら、肝心の選手にとって好ましい話ではない。来年に延期という選択肢は現実的になさそうなので、とりわけ五輪を最高峰の舞台とする選手には、存在を否定されたも同然の仕打ちとなる。トップコンディションでいられる期間が限られた競技人生の中で、4年に1度の大会が中止になれば、次回は考えにくい。この点を最も重視するならば、中止は簡単に言い出しにくくなる。

 だが、スポーツ界全体を考えると話は変わる。もしこの状況下で開催が強行されれば、多くの人にとって五輪は受け入れ難い、社会の敵になる。実際に五輪が始まり、テレビ中継を通して連日、熱戦の模様がお茶の間に伝われば、それまで開催に異を唱えていた人も一転、夢中になって目を凝らすだろうとの見立てがあるが、本当にそうだろうか。楽観的だと思う。そうした人もいるだろうが、そうではない人も絶対にいる。

 これまでなら、五輪にまったく関心ありませんと言い切る人は、一部のへそ曲がりぐらいに限られていた。大半の国民は、五輪に熱い視線を傾けてきた。世界のどの国の人々よりと言いたくなるほど、日本人は五輪好きで通っていた。五輪を限りなく好ましいイメージで捕らえてきたが、開催が強行されれば一転、それは冷める。五輪を好ましくないものとして捕らえる五輪否定派の割合は、ぐーんと増える。

 現在、8割近い国民が中止や延期を求めているとされるが、その半分が、否定派のままでいたとすれば4割近くの国民が否定派になる。しかもその否定は、何となくではなく、強烈なものとなりそうだから厄介だ。社会の分断を招きかねない対立軸となる可能性がある。

 そしてその塊は五輪嫌いに留まらず、スポーツ嫌いに発展していく可能性が高い。となれば、スポーツの社会的な地位にも大きな影響が出る。

 その昔よく使われた言葉に「スポーツ馬鹿」があった。勉強をろくすっぽしないで、スポーツにのめり込む生徒や学生に向けた言葉だが、スポーツ馬鹿は、世間から哀れな目で見られたものだ。筆者はどちらかと言えば、そちらサイドにいた人間なので、よく覚えているが、世間はかつて、スポーツができる人間より勉強ができる人間を断然、上に見ていた。

 それがうん十年掛けて、徐々に変わってきた。スポーツ選手の社会的な地位は、かつてに比べずいぶん上昇した。「日本代表選手になることは、東大に入ることより狭き門だ」とする声に、その通りと頷く人は増えている。スポーツ選手へのリスペクトは増している。それと五輪のメダル数の増加は深い関係がある、とは筆者の見立てだ。その結果、選手の環境が大きく改善された。

 こう言っては何だが、Jリーグの概念は貴重な役割をはたしてきたと思っている。旧態依然とした日本スポーツ界の体質に風穴を開けた、と。その穴をさらに広げること。すなわち、スポーツ環境の改善及び、選手の社会的地位の向上を、東京で2度目の五輪を開催する意義とすれば、話は上手くまとまると考えていた。

 選手の環境はかつてよりだいぶ改善されたが、世界の先進国に比べればまだまだ劣る。その改善、改革が、2度目の東京五輪開催を機に促進することを願ったものだ。しかし五輪嫌い、スポーツ嫌いの割合が増えれば、理解度は高まらない。このまま五輪が開催されれば、それが逆にスポーツの普及発展の妨げになるような気がしてならないのだ。

 特に心配されるのが、いわゆる五輪競技だ。五輪後、いっそうマイナー化の道を辿るような気がしてならない。