戦国時代で75歳まで長生きした徳川家康は何を食べていたのか。歴史作家の河合敦さんは「家康は、健康を意識した食生活を徹底していた。そのこだわりは歴史資料にもしっかり残されている」という――。

※本稿は、河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

食の健康オタクだった徳川家康(画像=狩野探幽筆/大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■長生きを目指した“食の健康オタク”徳川家康

平均寿命が50歳程度といわれる戦国時代に、徳川家康は75歳まで長生きした。それは偶然ではない。明確に健康を意識した食生活の、ある意味、努力の成果であった。家康は徹底した「食の健康オタク」だったのである。とくに気を遣ったのは、毎日の食事であった。

「医食同源」という言葉があるが、家康は食べ物と薬の源は同じだと考え、健康に良いものだけを食べようとした。

岡谷繁実の『名将言行録』によると、軽い病気から快復した家康は侍医に「今日は気分も良く、食が進んだぞ」と伝えたところ、侍医は「命は食にありと申します。めでたいことです」と喜んだ。

これを聞いた家康は、「お前は心得違いをしている。たとえば、今年生まれた赤子に乳を飲ませるときは、過不足がないようにという親の配慮がなくてはならない。同じように、食べ物の多少や良否に気をつけよというのが『命は食にあり』という意味なのだ。

単に沢山食べれば良いというものではない」と諭したという。このように家康は、良い食べ物を適量に摂ることを心がけていたのである。まさに人の身体は、食べた物で形成・維持されているわけで、家康の考え方は正しい。

なお、家康の食生活は、一次史料(当時の手紙や日記、公文書など)では具体的なことはわからないので、『名将言行録』などの二次史料(一次史料をもとに後世に作成された史料)や伝承に頼ることをあらかじめ断っておく。

■八丁味噌や納豆などの発酵食品

『名将言行録』には、麦飯の話も載っている。徳川家康は夏季に毎日麦飯を食べていた。あるとき近習が、無理をしているのではないかと心中を察し、白米飯を茶碗に盛り、その上を麦飯で薄く覆って差し出した。

すると家康は、「お前は私の気持ちがわからないのか。私がケチって麦飯を食べていると思っているようだが、それは違う。戦国の世で毎年兵を動かしているため、士卒は大いに苦しみ安心して寝食もできない状態。

どうして自分だけ飽食できようか。私は自分の食事を質素にして倹約し、それを軍用にあてようと考えているのだ。農民に苦労をかけ、自分だけ贅沢しようとは思わない」と述べたという。

家康の倹約目的の麦飯は、結果として彼の健康を保ったのである。ちなみに、おかずは、家康の故郷・三河では八丁味噌が有名。

伝承では、味噌汁や、いわしの丸干し、鯛の一夜干しなど、たんぱく質のおかずに加え、納豆などの発酵食品も積極的に食べていたという。季節はずれの危ない食べ物には手を出さない。

■暑い夏でも「煮込みうどん」を食べたワケ

徳川家康は食べ物には火を通し、温かい状態で食べていたという。暑い夏ですら生姜入りの煮込みうどんを食べていたようだ。体を冷やさないのが良いというのは漢方の常識であり、当然、家康も知っていただろうが、それを実践し続けるのは難しい。

写真=iStock.com/piotrszczepanekfotoart
家康は暑い夏でも生姜入りの煮込みうどんを食べた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/piotrszczepanekfotoart

ちなみに、食に関しては、『名将言行録』にこんなエピソードが載っている。

秋深い11月に、織田信長から立派な桃が一籠贈られてきた。季節外れの珍味である。ところが家康は手に取らなかった。

家臣が訝しんで理由を尋ねると、「私は桃を好まぬわけではないが、信長公のように大身ではない。もし小身の私が珍しい物を好めば、百害あって益なしだ。無益なことに財を費やしたら、ついには士卒を養えなくなる。志ある者は珍物を好んではならない。

とにかく軍備を整えることが大切。信長公は大身ゆえ、珍物を好まれるのだ」と言い、桃をすべて家臣に分け与えてしまったという。

せめて、一つぐらい食べてもよかったはずだが、おそらく家康は「季節はずれの危ない食べ物には手を出さない」という慎重さがあったのではないかと思う。

■健康で長生きすることが勝利の秘訣

いずれにせよ、こうした食生活徳川家康の長寿に貢献したのは間違いないだろう。

河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)

また、家康は正室の築山殿の死後、ずっと正室を持たなかったが、のちに豊臣秀吉の妹・朝日姫を後添えとした。しかし彼女は48歳で亡くなってしまう。その後、家康に正室はいなかったが側室は多く、年齢の高い出産経験者が多数を占めた。

しかし晩年は好みが変わったのか、10代の側室も何人かいて、家康との年の差は最大で53歳ほど。

ちなみに、家康が秀吉と同じ年の62歳で死んでいたら、どうなっていただろうか。江戸幕府の創立年に没していたことになるので、豊臣家を滅ぼすことはできず、凡庸だとされていた息子の秀忠もまだ将軍に就いていない。

となれば、徳川幕府は260年も存続したかどうかは極めて疑わしいだろう。

■もしも秀吉が75歳まで長生きしていたら

また、同年に生まれた家康の末っ子、頼房がのちの水戸藩の祖となることはなく、徳川光圀(水戸黄門)もこの世に誕生していないかもしれない。

逆に、秀吉が家康と同じ75歳まで生きていたとしたら、跡継ぎの秀頼は20歳近くになっている。5歳違いの家康(70歳)があと残り5年の寿命で天下分け目の合戦に勝ち、豊臣家を滅ぼすのは難しく、豊臣の時代が長く続いていたかもしれない。

そういった意味では、健康で長生きしたことが、家康を戦国の覇者にしたともいえるのだ。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)