早くも阿部監督“復帰”を望む声が高まるも…古き良き野球人による愛のムチが“野球離れ”を加速させている現実を見よ
「巨人・阿部慎之助監督逮捕」、5月25日夜に速報が流れた。「逮捕」の二文字の衝撃はあまりにも強烈だった。
翌26日午前、阿部監督自身が東京・大手町の読売新聞本社を訪れ、山口寿一オーナー(読売新聞グループ本社代表取締役社長・主筆代理)に辞任を申し出た。山口オーナーは受理し、次のコメントを発表した。
「暴力を振るった事実は重く、監督を続けることは許されないと判断した。交流戦の直前に重大な不祥事を起こしてファンの皆さまと全てのプロ野球関係者に深くお詫びします」
このコメントから、経緯は「辞任」だが、オーナーは事前に「解任」を決断していたとも読み取れる。「逮捕」の衝撃からわずか十数時間での処遇。その素早さゆえに球場での混乱は最小限にとどまったようにも見えるが、「辞任は妥当だったのか?」、新たな議論も沸き起こっている。【小林信也(作家・スポーツライター)】
翌日に辞任は妥当だったのか
普段から私たちは「逮捕」の二文字に対して過剰に反応し、逮捕された人を「犯人」と決めつけ、社会的責任を負うのが当然といった思い込みに捉われていないだろうか――そんなことを考えさせられる出来事となった。

当たり前だが、単に逮捕されただけでは、まだわからない。もしかしたら、「誤認逮捕」や「濡れ衣」の可能性もある。逮捕報道の翌日、一緒にテレビ番組(TBS「ひるおび」)に出演した刑事コメンテーターの佐々木成三さんが、逮捕はあくまでひとつのプロセスにすぎない、と強調していた。現場で被害者と加害者(とされる双方)を引き離し、被害者の安全を確保するために逮捕という処置が取られる場合がある。「逮捕の時点で犯人ではない」と。
しかし、私を含め多くの人々が、球団首脳も「逮捕」の報を受けて「辞任はやむなし」との心証を持ったように感じる。「事実はまだわからない」「処分の判断は早すぎる」と明確に示唆した報道に私は接しなかった。それほど「逮捕」という揺るぎない事実は重かった。しかも阿部監督自身が、「『静かにしろと言ったら言い返してきたのでカッとなった』と説明し、容疑を認めている」(時事通信)とも報道されたため、弁護のしようがないと思われた。
だが、同日深夜には釈放されたことなど考慮すれば、「当面の休養はやむをえないが、正式な処遇は事実を改めて把握し、総合的に判断してから」とするのが賢明だったようにも感じる。翌日にすぐ球団が辞任を受け入れる判断が妥当だったかは今後問われるだろう。
そもそも、阿部監督は妥当だったのか
世間では早くも阿部監督の復権、つまり「監督復帰」を望む声が多数出ている。それによって、児童相談所に通報したことから逮捕・辞任にまで及んだ責任を重く感じている長女の精神的負担を軽減することもできるだろうと配慮する声も少なくない。
その一方で、今回の逮捕劇とは別の観点から、今後、阿部監督復帰を強く推す動きが高まることに首を傾げたくなるような思いも募る。
そもそも、令和という時代において、阿部慎之助という指導者が巨人の監督に適任なのか、という本質的な問いかけがあるからだ。
3年前の秋(2023年10月)、読売巨人軍が原辰徳監督(当時)の後任に阿部慎之助を抜擢した時点で、私は強い疑問と抵抗感を覚えていた。
読売巨人は、野球の現状と未来をどう認識しているのか?
・野球離れの危機感はないのか、巨人が果たすべき使命感はないのか?
・球界の盟主を自認するなら、巨人がいま発信すべきメッセージは何だと考えているのか?
主にこの二つの点で阿部監督起用を支持できなかったからだ。
それ以前に、前監督の過去の不倫問題、さらにそれに関して、前監督が反社会勢力に1億円払ったとのスキャンダルがあった。報道した文芸春秋社との間で争われた裁判では「暴力団と知りながらお金を払った事実」が認定されている。それでも球団は事実誤認と突っぱね、監督を続投、処分などもなかった。この時点でも私の気持ちは萎え、球団から心が離れた。
阿部監督の前時代的な“野球人の体質”
「常に紳士たれ」という巨人軍の矜持は地に落ち、すべての野球人の目指す先にあるはずの人間像さえも崩壊したと感じた。野球への信頼の失墜、私は深刻な懸念と失望を抱いた。
「懸念を抱いた」などと書くと評論家的だが、正直な気持ちとして、「この監督が率いる巨人の試合は見たくない」と心底思った。実際、見る意欲を失った。そして阿部監督就任でますます巨人から心が離れた。熱烈な一巨人ファンの気持ちを踏みにじり、白けさせた球団首脳への憤りはいまも変わらない。巨人の利権? 人気? 自分たちを守ろうとして、野球を踏みにじっているとしか思えなかった。
物心ついた頃には長嶋茂雄が太陽のように輝き、マンガの世界ではあるが《巨人の星》に影響され、巨人軍の志の高さ、野球というスポーツの崇高さに心を打たれ、熱烈な巨人ファンになり、野球少年であること、野球に打ち込む自分を誇らしく思った。それは立派な生き方の象徴だと信じていたからだ。しかし、実際は違った。
阿部監督就任に疑問を感じたのは、彼にしみついた前時代的な“野球人の体質”を案じたためだ。
2012年の日本シリーズ第2戦、対日本ハム戦。
ふがいない投球を見せる澤村拓一投手にたまりかね、捕手・阿部慎之助はつかつかとマウンドに歩み寄るといきなり澤村の頭をピシッと平手で叩いた。無言の喝。その後澤村は目を覚まし、好投を演じた。これが美談として扱われ、シーズン後の特番でも出演者たちから賛辞を浴びた。阿部自身、“暴力”への自覚も反省もなく、褒められて素直に喜ぶ姿に終始していた。
それでも「古き良き野球人」を支持した球団
2012年の日本スポーツ界の空気はそうだった。世間ではセクハラ、パワハラへの意識改革が進み、上司の洒落が洒落で通じない新たな常識の共有が進んだ。しかし、スポーツ界は勝つためなら体罰も、厳しい指導も当たり前という根強い思い込みから脱却できず、体質改善は進まなかった。
一変するのは2018年に起こった一連のスポーツ・パワハラ騒動からだ。もはやスポーツ界でも、パワハラもセクハラも許されない。勝つためにという大義名分で体罰や暴力を振るうのはもってのほか、監督・コーチが上から目線で選手を支配的に指導する体質も許されないと、認識が大きく改められた。
阿部慎之助監督が就任したのは、すでにスポーツ界の常識も改められた後(2023年)である。私はせめて、こうした風潮を理解し、新たな指導意識で取り組むといった明確なメッセージがほしいと感じたが、阿部慎之助は阿部慎之助のままで変わる意識はあまり感じられなかった。そして球団は、古き良き野球人・阿部慎之助を肯定的に支援し続けた。
つまるところ、巨人は「勝つこと」「人気を維持すること」、その二つの命題に執着し続けていると感じられる。勝利を超える価値観創造への意欲を見せてくれない。そのことへの失望は大きい。
野球界、野球ファンはいま野球が深刻な“野球離れ”の潮流の中にあることをどれだけ認識しているだろうか?
辞任の翌日27日には、〈阿部前監督の監督復帰を求めるオンライン署名運動〉に10万通を超える署名が集まったと報じられた。それはもちろん、10万人を超える人たちの熱心な気持ちと受け止めるべきだろう。だが私が指摘したいのは、その10万人と、それ以外の人々の「温度差」が大きくなっている現実だ。昔だって日本には「野球に興味はない」人たちは一定数いただろう。だが、「野球なんて嫌いだ」と公言する人は少なかったし、それが憚られるほど「みんな野球が好き」という雰囲気に包まれていた。けれど今は、「野球に興味がない」「野球が嫌い」という人が以前より明らかに増えた実感がある。それなのに野球ファンも野球界もこの温度差を直視せず、〈ゆでガエル〉の様相を呈している。私はこうした危機感を募られて発信している。
例えば、日本高野連の加盟校は、2015年には4021校だったが、2025年は3768校に減っている。部員数も同じく16万8898人から12万5381人に、25パーセント以上も減少している(日本高野連HPより)。
中学校の野球部は、2010年の8919校が、2025年3993校と半数以下に減っているとのデータもある(Yahoo!ニュース 2025.12.30)。全中学校の中で野球部のある中学は40パーセント以下だ。
小学生の野球少年の減少はもっと深刻だ。家の近くにキャッチボールのできる公園もないのだから、野球少年が生まれる環境は乏しい。それを劇的に改善しようとする動きも野球界にはない。心ある指導者から「監督・コーチの言動や体質が高圧的なことを嫌悪して子どもに野球をやらせてくれない母親が増えている。これを何とかしなければ」という悲鳴のような声を聞かされた。しかし、その叫びは野球界全体の共有課題になっていない。
変えることが難しい上から目線の高圧的指導体質
そのような社会潮流の中で「野球界の盟主」たる読売巨人がどんな方向に舵を切り、どんなメッセージを発信すべきか、おのずと明らかだと思うが、果たして気づいてくれるだろうか。
今回の事件に関するコメントの中に、「家庭の問題で監督をやめるのはおかしい」という指摘も散見される。それは一見正論のようでもあるが、上に記した野球界の深刻な課題を思えば、「家庭内での暴力で監督を辞める」ことが決しておかしくないどころか、核心を衝いている事実に気が付いてもらえたらうれしい。
つまり、自分の子どもに家庭内で暴力をふるう指導者に安心して我が子の指導を任せられるか?
ということだ。従来は、「強くしてくれる指導者なら体罰も許容する」「ウチの子は殴ってもらって構いません」という親も少なからずいた。が、いまはもうそれは社会的に許されない。
スポーツ界で名将と謳われる指導者が家庭内で自分の子に愛のムチを振るっていた事例を私は取材を通して知らされている。上から目線の高圧的指導体質は、よほどの目覚めや自己改革をしなければ簡単に変えることができない。スポーツ界は相当な覚悟を持って指導体質を変える使命に直面している。変えられない指導者は退場やむなし。そのことをしっかりと社会が共有する必要がある。
スポーツライター・小林信也
デイリー新潮編集部
