「なぜ娘を救えなかったのか」災害関連死に向き合う母親たち 熊本地震10年【熊本市民病院・前編】
熊本地震では、熊本市民病院も被災し、入院患者全員が転院や退院を余儀なくされました。
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国の耐震基準を満たしていなかった病院で、いったい何が起きていたのか。遺族と関係者を取材しました。
熊本市中心部から車で30分の国道沿いのこの場所に、かつて熊本市民病院がありました。
宮粼さくらさん「ここに立つと思い出す。あの時の状況を」
複雑な思いで跡地を見つめるのは、熊本県合志市に住む宮粼さくらさん(47)です。
10年前の熊本地震で、当時4歳だった娘の花梨ちゃんを亡くしました。
熊本地震後に亡くなった花梨ちゃん「退院したら一緒に遊ぼうね。おもちゃでいっぱい遊ぼうね、バイバイ」
転院せざるを得ない状況に
生まれつき心臓に病気を抱え、酸素吸入が欠かせなかった花梨ちゃん。
「幼稚園に通いたい」という夢を叶えるため、熊本市民病院で手術を受けましたが、術後の容体が安定せず、集中治療室での治療が続いていました。
その時でした。
2016年4月16日、当時の熊本市民病院が最大震度6強の揺れに襲われました。
病棟は損壊し、花梨ちゃんを含む入院患者310人全員が転院または退院を余儀なくされました。
当時の熊本市民病院の担当者「倒れたりとか、ガラスが割れたりとかしているので、今は患者さんを1階におろしています」
次々と病院を出発する救急車。最後まで残ったのが花梨ちゃんでした。
宮粼さくらさん「人工呼吸器を使用していたこと。あとは透析。点滴というか薬ですね。電動で入れていく機械があって、それが10台必要だった。どれも外せない」
重い症状の花梨ちゃんをどう転院させるか。
主治医は難しい判断を迫られました。
当時の主治医 本田啓医師「正直あの当時、移動という発想は、私の中で病状的に難しいというところもあったので。残ることができないか、そういった道もないかという話は病院側にさせていただいた」
大きな地震がさらに続けば建物が倒壊するかもしれない…転院せざるを得ない状況に追い込まれたのです。
当時の主治医 本田啓医師「地震の影響で県内もそれぞれの施設で色んな状況にあったので、受け入れたは良いものの、また次の移動となれば、より負担になるとの判断があった」
転院先は100キロ以上離れた福岡市内の病院に決まりましたが、高速道路を使っても2時間近くかかります。
絶対安静と言われていた花梨ちゃんにとって大きな負担でした。
最終的に両親は転院に同意しました。
宮粼さくらさん「花梨ももちろんだけど、先生達がそこにいる看護師がもうみんな危ない訳ですよ。なので今一番必要なのはみんなが避難すること」
絶対に「5日後」ではなかった
花梨ちゃんは、本震が起きたその日のうちに救急車で福岡市内の病院に運ばれましたが、体への負担は大きく、5日後の4月21日に亡くなりました。その後、災害関連死に認定されました。
当時、災害派遣医療チーム、DMATとして熊本市民病院に入り、花梨ちゃんを運ぶ方法を考えた医師はこう振り返ります。
髙間辰雄医師「これが花梨ちゃんの搬送ですね。もうみんなで抱えて中に入れるって感じで。主治医の先生はここまで何とか、少しずつ少しずつ術後の合併症から前に進んでいるところだったのに、悔しかったと思いますよ」
宮粼さくらさん「もしかしたらいずれ亡くなっていたかもしれない。それだけ厳しい状況ではあったので。ただ絶対に4月21日ではなかった」
熊本地震が発生した時、熊本市民病院には310人が入院していました。
転院した200人のうち15人が1年以内に亡くなり、少なくとも花梨ちゃんを含む2人が災害関連死に認定されたことが、病院側の調査で分かっています。
退院した110人のその後については調査されていませんでしたが今回、そのうちの1人が亡くなっていたことが分かりました。
音楽や踊りが大好きだった
宮崎市に住む松元智子さん(49)は10年前、当時1歳8か月だった娘の葵ちゃんを亡くしました。
「葵ちゃん、お話するね、上手やね」
葵ちゃんは生まれつき心臓に病気を抱えていましたが、宮崎県には対応できる病院がありませんでした。
そのため子どもの心臓手術で実績のあった熊本市民病院を頼っていました。
音楽や踊りが大好きだった葵ちゃん。
入院中に熊本地震が起き、病棟が損壊したため、一度退院することになりました。
松元智子さん「どこに入院したんだろうというのがあったけど、熊本は地震が起きて怖いというのがあったので、宮崎に帰れるというのは正直、安心感もあった」
その後、宮崎市内の別の病院に入院しましたが、徐々に容体が悪化し、地震1か月半後の6月1日、葵ちゃんは息を引き取りました。
熊本市民病院の主治医とは連絡を取り合っていましたが、入院先が変わったことの影響は智子さんの想像以上でした。
松元智子さん「どうしたら良いんだろうと八方ふさがりの状態だった。どうやったら葵を助けることができたのか、あの時どう動いたら良かったんだろうと今でも思っている」
智子さんは3年前、手元に置いていた葵ちゃんの遺骨を海が見える高台の墓に納めました。
ただ、今でも葵ちゃんが亡くなった病院に足を運ぶのはつらく、災害関連死の申請をしていません。
つまり、葵ちゃんは熊本地震の死者278人に含まれていません。
松元智子さん「都会の病院が被災して戻って来るしかなかった時に、その方たちをほったらかしで良いのか。どうしたら良いか、どこに行ったら良いかを教えてくれる場があったら助かる子、災害関連死になる必要のない子がいっぱいたんじゃないかな」
災害でなくなる命、減らしたい
娘のことを多くの人に知ってもらいたいと、智子さんは最近、講演活動を始めました。
松元智子さん「災害に遭遇し、今まで普通に受けられていた診療が受けられなくなったことで地域の医療格差を身をもって感じた」
活動の名は「KARIN project(かりんプロジェクト)」です。
同じく娘を亡くした宮粼さくらさんとともに、医療関係者や学生を前にあの時の経験を話し、災害でなくなる命を少しでも減らしたいと考えたのです。
活動を始めてまもなく3年。話を聞いた人は全国で1000人近くに上ります。
今年3月、さくらさんの姿は新潟市にありました。
訪れたのは日本災害医療学会です。
全国の医療関係者を前に語り掛けました。
宮粼さくらさん「災害関連死という学びを悲しみにとどまらせず、防災意識の向上と災害関連死を減らす担い手の育成につなげていく。それが活動の意義です」
講演のあと一人の男性が近寄ってきました。
熊本大学の笠岡俊志教授です。
熊本でも「かりんプロジェクト」を始めたいと依頼したのです。
熊本大医学部 笠岡俊志教授「連携させていただけたらと思う」
宮粼さくらさん「ぜひお願いします。ありがとうございます」
宮粼さくらさん「いずれ花梨のところに行った時に、『頑張ったね』と言ってもらえるよう過ごしていくと家族で約束しているので、それに一つ近づけたかな」
あの日の出来事をどう教訓にしていくかが大切と語るさくらさん。
熊本地震から10年です。
<後編はこちら>
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