小泉八雲とは、ラフカディオ・ハーンとは、どんな人物だったのか――。その生涯と前半生を辿る【小泉八雲とセツ】
明治日本に深く魅せられた文豪・小泉八雲の歩みを辿る
連続テレビ小説「ばけばけ」でも注目を集める文豪・小泉八雲。
『怪談』や『知られぬ日本の面影』など、日本の文化を世界に紹介した八雲は、夏目漱石やアインシュタインなど、多くの人に影響を与えました。
ラフカディオ・ハーンとして生まれた青年は、どのような道を経て、日本へたどり着いたのでしょうか。今回は、
・小泉八雲とセツ夫妻の数奇な人生を辿る
・2人に影響を与えた国内外の交友録
・松江、出雲、隠岐、焼津、熊本などの八雲ゆかりの地紹介
・八雲著作や代表作「怪談」の魅力解説
・小泉凡氏(小泉八雲記念館館長・小泉八雲曾孫)、田渕久美子氏(脚本家・小説「ヘルンとセツ」作者)、宮澤文雄氏(島根大学准教授・英米文学研究者)のインタビュー
『小泉八雲とセツ ~「怪談」が結んだ運命のふたり~』書影
孤独と不運の少年時代──八雲、はじまりの物語
1850年6月27日、ギリシャのレフカダ島──イオニア海に浮かぶ小さなこの島で、小泉八雲は誕生しました。出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン。ミドルネームの「ラフカディオ」は、出生地であるレフカダ島にちなんで付けられたものです。
父はアイルランド人でイギリス陸軍医補であるチャールズ・ブッシュ・ハーン、母はギリシャ人のローザ・アントニウ・カシマチで、2人は駆け落ち同然の結婚だったといいます。
やがて八雲は、母とともに父の家があるアイルランドのダブリンへと移ります。しかし、異国の地になじめなかったローザは心を病み、祖国へ戻ることになりました。4歳だった八雲は母と引き離され、父方の大叔母・ブレナン夫人に引き取られます。そしてこれが、母との永遠の別れとなりました。
ブレナン夫人宅での暮らしは物質的には恵まれていましたが、十分な愛情を感じられるものではありませんでした。厳格なカトリック教育を受ける日々のなかで、八雲は孤独に苛まれ、「ほかの人には見えないもの」を感じるようになります。晩年執筆の『怪談』の原点となるものを、すでに幼少期に体験していたのです。
八雲が思春期に入ると、ブレナン夫人に遠縁の青年、ヘンリー・モリヌーが取り入るようになり、八雲は邪魔者扱いされるようになります。八雲は寄宿学校へ送られましたが、明るく優秀で、目立つ存在でした。しかし、16歳のときに遊戯中の事故で左目を失明し、大きな傷跡が残ることに。この事故が、彼の性格を内向的なものへと変えてしまったのです。
そして同じ年に父チャールズを亡くし、翌年にはブレナン夫人が破産。寄る辺を失った八雲の人生は、大きく動き出していきます。
アメリカでつかんだ言葉の力──八雲、記者への道
故郷に別れを告げ、言葉を武器に 大叔母のブレナン夫人の破産をきっかけに、学校を退学させられ、居場所も財産も失った19歳の八雲は、アメリカ行きを決意します。その際、アイルランドに由来する名前の「パトリック」と決別し、ラフカディオ・ハーンと名乗るようになりました。
オハイオ州にあるシンシナティに着いたものの、孤独と貧困にあえいでいた若き日の八雲にとって、「大恩人」ともいえる人物が印刷屋のヘンリー・ワトキンです。イングランド出身のワトキンは、行き場を失っていた八雲を自宅に寝泊まりさせ、植字や校正といった出版や印刷の技術を一から教えました。このときに身につけた知識と経験は、のちに八雲の執筆活動に大いに役立つことになります。
また、シンシナティでの八雲は、図書館に通ってはフランス文学をはじめ、あらゆるジャンルの本を読みあさり、物語を書くことを続けました。その努力が実を結び、日刊紙『シンシナティ・エンクワイアラー』の記者になりました。地元で起こった事件を心情豊かに表現するなど、八雲は独自の文才で注目を集めるようになります。
シンシナティで記者としての名声が高まった1874年、八雲はアリシア・フォリー(愛称マティ)という女性と結婚します。
しかしこの結婚は、社会から大きな反発を招きました。マティは黒人奴隷の母と白人農場主の父との間に生まれた混血の女性で、当時のオハイオ州では、白人と白人以外の結婚が法律で禁じられていたのです。それでも結婚式を行った八雲は、世間から非難を浴び、勤めていた「シンシナティ・エンクワイアラー」からも解雇されてしまいます。
さらに、結婚生活も早々にすれ違いが生まれ、わずか数年で離婚。以降、八雲は長い独身生活を送ることになります。
「金ぴか時代」に見つけた希望──日本を夢見た八雲
作家への道をひらいたニューオーリンズ 最初の結婚に破れ、27歳になった八雲は、1877年にシンシナティで築いた名声を捨て、収入のあてもないままニューオーリンズへと移り住みました。
苦難の末に小さな新聞社「アイテム」で働き始めた八雲は、独自の文才を発揮し、読み応えのある記事や、自身が手がけたフランス文学の翻訳を次々に紙面に掲載します。1881年には、『タイムズ=デモクラット』紙の文芸部長に就任し、アメリカにおけるフランス文学紹介の第一人者として知られるようになります。
八雲はアメリカ在住中に200作近いフランス文学を翻訳し、そのなかで自身の文章のスタイルを生み出しました。さらに翻訳だけでなく、異文化圏の神話や民話をわかりやすく語り直す「再話文学」の作品も発表。これらの活動が評価され、全国的な雑誌からも声がかかるようになり、記者から作家への道を進んでいくことになります。
そして、そんな八雲の記事にあこがれたエリザベス・ビスランドがタイムズ=デモクラット社に入社してくるなど、八雲の才能にいち早く気づく人も現れました。
1880年代、このころのアメリカは、急激な経済成長の波に乗り、拝金主義が蔓延する「金ぴか時代」を迎えていました。物や金をひたすら追い求める社会に次第に息苦しさを感じていた八雲に転機をもたらしたのは、1884年にニューオーリンズで開催された万国産業綿花百年記念博覧会でした。
そこで出会った日本の工芸品や文化に心を奪われた八雲は、日本館に通いつめ、日本政府代表の服部一三に何度も質問を投げかけるほどでした。八雲は、まだ拝金主義に侵されていない「理想の国」として日本を見ていたのです。
さらに、『古事記』の英訳を通じて触れた、神々が共存し、多様な価値観を受け入れるそのあり方に、キリスト教とは異なる大きな魅力を感じ、日本行きを決意します。ただ日本を観光するだけでなく、庶民の暮らしに深く入り込み、日本人の心に寄り添って、その魅力を広く伝える文章を書こうと八雲は考えます。
そして1890年、『ハーパーズ・マガジン』の特派員として念願の日本へと旅立つことになりました。
『小泉八雲とセツ ~「怪談」が結んだ運命のふたり~』では、小泉セツの前半生とそれからの二人の生涯、八雲ゆかりの地・松江と出雲案内、「怪談」の魅力紹介など、さまざまな側面から小泉八雲の世界を眺め、八雲を通して日本を再発見していきます。
■『小泉八雲とセツ ~「怪談」が結んだ運命のふたり~』より抜粋
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