AI立法者は望ましいか…古代ギリシアの知恵から学ぶこと
分断と暴力に満ちた世界をどう生きるか。
なぜ私たちは、それでも政治をしなければいけないのか。
政党とは、政治家とは、いったい何なのか。
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(本記事は、宇野重規『政治とは何か』の一部を抜粋・編集しています)
AI立法者は望ましいか
古代ギリシアには立法者と呼ばれる人がいました。一国に法を与え、その国の制度や仕組みを創設する存在であり、アテナイのソロンや、スパルタのリュクルゴスといった立法者がよく知られています。
興味深いことに、このような立法者はしばしば外国から招聘されました。彼らは一国の法をつくるにあたって、外からリクルートされてきたのです。逆にアテナイの立法者だったソロンは、法をつくった後、一〇年間は国外に滞在したとされます。法を与えた国で自ら統治まで担当するのはけっして望ましいことではありませんでした。純粋に外部の人に法をつくってもらうのが、古代ギリシアの知恵だったのです。
ジャン=ジャック・ルソー(一七一二‐七八)の『社会契約論』(一七六二年)にも「立法者」の話が出てきます。やはりソロンやリュクルゴスが出てきますが、歴史的なエピソードの紹介かと思っていると、ルソーは本気で一国の法を外部の人につくってもらうことを考えているようです。ルソーによれば、人民の一般意思こそが法であり、法による統治こそが人民主権であるとしているだけに、驚かされるところです。
それでもルソーは、本気で立法者を考えていたのだと思います。自分たちの社会の仕組みは、なかなか自分たちでは決定できません。現行の選挙制度にいくら問題があっても、その制度で選ばれた議員には変えるのがむずかしいのと同じことです。制度を変えることは、その制度によって選ばれた自らの存在を否定することにつながります。そうだとすれば、自分たちにとって本当にふさわしい社会の仕組みを、外から招いた人間にデザインしてもらうのは、案外と有効な発想なのかもしれません。
ただし、ルソーは立法者には権威があるだけで、権力はもたせてはならないと強調しています。一国の仕組みをつくり、加えてそれを動かす力をもてば、その人は当然、自分に都合のいい立法をするでしょう。そうではなく、利害関係のない、純粋に外部の人材を招くことが、望ましい政治的秩序をつくるために必要だというのです。
それでは、現代においてはAIが立法者になれば良いのでしょうか。そうすると今度は、人間が主体的に自分たちの社会を自分たちで決めるという原則が揺らいできます。はたしてAIに責任を取ることは可能なのでしょうか。AIに集合知を超える英知があるのでしょうか。AI立法者を考えることは、逆に、政治において人間に何ができるのかを考えることにもつながります。
ただし、AIというのは使い方の問題であって、人間らしさを確保するためにAIを排除する必要はないのかもしれません。いい例が将棋です。いまやAIの方が人類よりも、将棋が強くなっているという声もあります。それならば、人類はもはや将棋を指す必要がなくなったのでしょうか。
ところが現実には、将棋とAIは独特な共存を実現していて、将棋の人気につながっています。棋戦の途中で、先手と後手のどちらの情勢が有利なのか、一手打つごとに相互の勝率の変化が数値化されて観客に示されます。時には、最後に一手間違ったせいで、情勢が大きく変わることもあります。その変化を見ているのが面白いのです。人間はけっしてAIの指示通りに将棋を指さないのですが、そこにむしろ人間らしさを感じます。
つねに変化して、自己修正するのが人間です。今後、あるいは政治の場にAIが取り入れられ、この条件を変えたら結果はどう変わるかをシミュレーションしながら人間が議論し、それから票決するというシーンも出てくるかもしれません。
AIにできることはAIにやらせて、人間は人間にできることに集中する。躊躇したり、迷ったり、悩んだりするのは人間の面白い部分です。その部分にこそ、むしろ政治の営みが直結しているのだと思います。
意味ある「ふらふら」?
別に、迷ったり、ふらふらしたりすることを奨励するわけではありませんが、そのような迷いやふらふらには人間的な意味があります。
その場合、ぜひ愉快に迷ったり、ふらふらしたりしたいと思います。迷うのは人間らしくて面白いし、その過程が最終的な結果にも影響を与えます。それでも迷いが永遠に続くのは嫌ですよね。やはり単にふらふらするだけでは駄目なのであって、迷いを愉快で面白く、納得感のあるものにする工夫が重要ではないでしょうか。
現在、何となく意思決定したくないという感覚が広がっていると書きました。誰もが日々の意思決定に疲れているのかもしれません。まして、政治的な意思決定となると、うんざりでしょう。しかし、政治とは本来、明快な一つの答えがない状況で、迷いつつ、ふらふらしつつ、それでも一歩前に進むための知恵であり、手段でした。
もちろん、政治に関わるのは面倒くさいし、まして人と対立するのは誰でも嫌でしょう。若い人と話していても、政治には関わりたくないという声を聞きます。そのような人にとって、政治は単に面倒くさいだけでなく、怖いものでさえあります。
ベルリンの壁の崩壊以前は冷戦があり、イデオロギー対立がありました。その意味で、今の方がよほどスッキリしているのに、むしろ政治が怖いという。それはなぜなのでしょう。予測できないことが起こるのが怖いという感覚があるのでしょうか。
一九八九年の話が出ましたが、あれから三十数年がたって、みんな政治が嫌になってしまったのかもしれません。すべてを自由に選べる時代になったと語られたし、流動化する国際情勢において、日本がより主体的に判断するための政治改革も行われました。ところが結果として、日本は何も決められないままですし、悪い意味で悩み、ふらふらする国になってしまいました。それがまさにこの三十数年の逆説です。
自分たちで選べることは素晴らしいことだと思っていたのに、決定することが怖くなってしまった。むしろ、いかにすれば面倒くさい決定に巻き込まれないで済むかを誰もが考えている。存在論的安心感といいますが、自分が守られているというセキュリティの感覚があるからこそ、自由な意思決定も可能になります。これに対し、すべてが押し流されて不安定な状況では、何かを決定しろといわれてもストレスばかりが募ります。
何をいっても脅かされることはないし、必要以上に責任を取らされることもない。むしろあなたの意見が期待されていると促されてはじめて、人は少しずつ発言してみようと思います。しかし現実は、何かをいえば過大に責任を取らされるし、レッテルを貼られるとわかっているとしたら、何もいえないし、できません。
悩むことが人間らしいとわかっていても、だからといって悩んでばかりもいられません。誰もがタイパ(タイムパフォーマンス)といっている時代なのに、現実はむしろグダグダになる一方です。自由に決定できると思ったら、むしろ決められなくなる。この逆説にいかに立ち向かうかも、本書の一つの鍵になりそうです。
一九七〇年の万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。その頃は何となく、今日より明日の方が良くなると信じられていました。これに対し、今も未来への信頼があるかといわれると、どうでしょうか。何かを良くするために政治に参加するのが基本ですが、何も良くならないと最初からわかっているならば、参加する意味はないと誰もが思います。
未来への信頼は大切です。別に未来が良くなるとは限りませんが、少なくとも自分たちなりに選べると思えてはじめて、人は未来について考えます。もし未来が自分たちにとってまったく不可解なものなら、そもそも考える気にすらならないでしょう。社会保障の話にしても、今ここで頑張れば、いつかは必ず自分に返ってくるし、将来世代のためになると思えてはじめて、現行制度を維持したり、あるいは改革したりするわけです。そのような未来への信頼なしに、ただ我慢しろといわれても、無力感ばかりになります。
未来を信じられるためにも、やはり政治は大切だと思います。
