織田信長の残虐な破壊行為には「お手本」がいた…日本史の英雄になれなかった「2人の大悪人」の名前
■新しい時代をつくった「暴力的英雄」
古い時代が行きづまって、新しい時代にならなければならないのに、陣痛が長引いている時期には、暴力的英雄が出て来なければ、人間の歴史は進展しないことがある。暴風雨や火山の爆発力のような破壊力を持つ大魔王的英雄が出現して、新しい時代の到来をさまたげている事物を破壊してくれなければ、新時代が到来しないのである。
腫物をひらく外科医のメスにたとえることが出来よう。これによって、人を疼痛(とうつう)させていた腐肉と膿(うみ)とが排出され、痛みはやみ、新しい肉が盛り上り、人は健康になるのである。
信長の暴力的破壊の実例は挙げるまでもない。本文に記しただけでも、叡山の焼き討ち、高野聖(こうやひじり)の大量殺戮があるが、あれ以後に伊勢長島の本願寺門徒らを征伐して二万余の門徒らを一挙に焼き殺している。越前の門徒らも大量殺戮している。
信長の時代は、中世から近世へ移るための陣痛期にあたる。宗教が中世紀の最も強力な柱であったことは、西洋も日本もかわりはない。社会は皆これを桎梏(しっこく)としていたが、人はまだ迷信に支配されている時代だ。修行を積んだ僧は、呪術や調伏の法を心得ていて、その怒りに触れるのは最も危険であると、皆考えていた。信長は敢てこのタブーを犯し、最も徹底的に破壊したのである。

■一銭を盗んだだけで斬首する厳刑主義
以上は形にあらわれた破壊であるが、政治の面にもそれがある。
彼は厳刑主義者で、一銭切りとて、一銭を盗んだものでも首を斬るという最も峻烈な法を励行したので、彼の領内では戦国争乱の世であるにかかわらず、犯罪は絶無に近く、民は夜戸をとざさず、夜間の旅も安全であったという。
峻刑は大いに効があったわけだが、およそ刑罰には昔から標準というものがある。一銭を盗んで斬首されるなら、百金を盗んだもの、人を殺傷した者には、どんな刑罰を科したらよいか、こう考えるのが常識である。信長はこの常識を無視し、ふみにじったのである。
■残酷すぎる斎藤道三の「釜ゆで」の刑
信長も、それは決して好んでしたことではないであろう。常識にかなった刑罰ではまるでききめのないほど諸悪横行の世であったから、劇剤を処方する医者の気持であったろうとは思うが、常人にはなかなか踏み切れないものである。彼が本性において破壊欲横溢の人であったから、出来たのであろう。
信長のこの厳刑主義には、先輩がある。彼の妻の父である斎藤道三と松永久秀だ。
道三の施政ぶりが最も残酷であったことは、彼の伝記で書いておいた。小罪の者でも牛裂きの酷刑に処したといい、釜ゆでの刑を行なうにあたってはその罪人の妻や親兄弟に火を焚かせるというすさまじいやり方であったというのだ。

松永久秀は悪人列伝(文春文庫刊)に書いておいたが、年貢未進などの百姓を処刑する場合には、蓑を着せて火を放ち、もがき苦しんで死なせ、これを「蓑虫おどり」と称して、楽しんで見物したというのである。

■信長は政治だけでなく戦闘法も学んだ?
道三は美濃国主、久秀は大和国主、いずれも京都近くの国の主でありながら、符節を合わしたように重刑主義をとったことについては、いろいろな考察が出来よう。道三は京都郊外の西ノ岡(今の向日町とその附近)の出生である。
久秀の出生地は各説あるが、西ノ岡説がある。いずれも京の近郊に生い立って、人間のすれ切った横着さを最もしばしば経験したためかも知れない。あるいは道三の方が十三も年長であるから、久秀はこれが出世して美濃一国の主となっているのを見て、その施政ぶりを真似したのかも知れない。
しかし、いずれにしても、両人とも、尋常一様なことでは犯罪のやまない世の中であるため、厳刑主義を採ったのであろう。われわれはこの戦後、このような気持を経験している。
信長はこの二人から、これを学びとったのかも知れない。年代的にも、交際の上でも、そうあっても不思議はない。
信長が二人から学んだことは、他にもある。信長が鉄砲の威力を認めて最大限に利用したことや、長槍を利として雑兵らにこれを用いさせたことは、最も有名なことだが、信長に先立って鉄砲や長槍の利を認めて、これを大量に使うことをはじめたのは、道三であることは、道三伝で述べた。
とすれば、信長は娘を道三からもらっただけでなく、これらの新戦闘法も学びとり、身代が太るにつれて益々大がかりとし、ついに長篠役(ながしののえき)の快勝を獲(え)たと考えられないことはない。
■「父」と「叔父」は大悪人として批判の的に
信長の安土城は、近世の城郭のはじまりであると言われているが、あの形式の櫓(やぐら)や塀を最初に創(はじ)めたのは、久秀の大和の多聞(たもん)城である。だから、あの形式の櫓や塀を多聞櫓・多聞塀というのだ。信長はこれを取り入れて、うんと大仕掛に安土城に用いたのである。
こんなわけだから、この三人の年齢から見て、こんな系譜が考えられよう。
道三は信長の精神の父にあたり、久秀は叔父にあたるという次第だ。
こう考えてくると、信長が新時代をはじめた英雄として歴史上称賛されているのに、道三と久秀とが大悪人と呼ばれ、当時も、その後も、また現代に至るまで、世の指弾を受けているのは、先駆者の悲しい運命というべきかも知れない。
新しいものが社会に受け入れられるには、その以前に社会にある程度の慣れが必要である。新奇なものにたいする社会の反応は、そのはじめにおいては必ず嫌悪感と反撥感である。しばらくそれがつづき、また実際に大いに役立つことがわかってくる頃に、新しくそれで出た者は歓迎されるのである。先駆者よりエピゴーネンが常に得をするのは、このためである。信長はちょうどよい時に出たと言えよう。
■役立たずの部下は無慈悲に切り捨てられた
人の任用法にも、信長は旧来の法をまるで踏みにじっている。信長が徹底した合理精神の持主で、常に能率第一に考え、才能ある者はどしどし登用昇進させるとともに、役に立たなくなったものは重臣や宿将でも無残なまでに捨てたばかりか、殺しまでしたことも、世の知るところだ。
佐久間信盛は餓死し、林通勝、丹羽右近、安藤伊賀守は身代を没収されている。そのかわり、豊臣秀吉は土民の小せがれから用いられ、滝川一益、明智光秀は浪人から何十万石の大名に取り立てられた。
こんな例は、信長以後にはあるが、その以前には絶無ではないかも知れないが、ぼくは知らない。
一体、鎌倉時代や室町時代にはじまった由緒正しい大名の家は、譜代の重臣以外は一族でなければ、決して重く用いなかったものだ。しかも、譜代の重臣の家はほとんど全部が分家筋のもので、血の違う重臣はきわめて稀であった。つまり、一族だけで組織している運命共同体といってよいものであった。
■旧習を壊したおかげで「偉材」を得られた
こんなものであったから、他のものが食い入るスキはほとんどないのだ。一介の旅浪人や、いわんや土民から、どしどし登用するなどは考えられないことであった。こんなことをしては、従来の重臣らの心を離反させ、共同体にひびを入らせるから、いけないことになっていたと言ってよい。
大内義隆が相良武任(さがらたけとう)という旅の者を重用したため、相良と陶晴賢(すえはるかた)とが対立し、ついに陶が義隆を弑逆するに至ったという話は、この間の消息を語るものである(悪人列伝・陶晴賢伝参照)。
こんな時代に、信長はこの習慣を木ッぱみじんにふみにじり、もっぱら実力本位の任用をしている。こういう信長であったればこそ、秀吉のような偉材も所を得ることが出来たのであり、後年の秀吉もあるのだ。秀吉がとくに信長をえらんでつかえたのは、単に生国の領主であるという以外に、ここに見るところがあったのかも知れない。
■謀反を起こした武将一族と家来たちを殺戮
信長のこの破壊好きは、合理精神によって十分に計算されてばかりは発動しない。本質においては本能的なものであったようであるから、発動すべからざる時に発動していることがある。荒木村重の叛をいきどおって、その妻子と家来共の妻子らを惨殺したのがそれだ。この殺戮は三度にわけて行なわれた。初めは百二十二人をはりつけで殺し、次は男女五百十二人を焼き殺し、最後は最も身分の高い者だけ三十余人を斬首している。

甲州武田家をほろぼした時もすさまじい。武田家の一族と重臣らを草の根をわけるようにしてさがし出して殺しているのだ。
荒木は謀叛の罪があり、武田氏は信玄以来二代にわたって信長の最も手ごわい敵であった。しかし、その妻子、家来共の妻子、一族や家来共に、何の罪があろう。恐怖政策(テロリズム)という政治機略があるが、この際はそれの必要のない時だ。本能的殺戮欲の盲目的な発現としか見ることは出来ない。
彼が病的天才――狂気をおびた天才であったことは明らかだ。中道にしてたおれなければならなかったのは、不思議ではないのである。世の中がいくらかでもおちついて来れば、こんな権力者に、人はがまん出来るものではないのである。
歴史は残酷なものである。このような破壊者がなければ、社会の新しい展開のないことがしばしばあるのである。
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海音寺 潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう)
作家・小説家
1901年生まれ。国学院大学卒。中学の国漢教師を勤めた後、創作に専念。1929年「うたかた草紙」が「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選。1932年長編「風雲」も同賞を受賞。1936年『天正女合戦』で直木賞を受賞。1957年に完結した『平将門』は新時代の歴史小説の先駆となった記念碑的大作。日本史への造詣の深さは比類がない。他に『武将列伝』『列藩騒動録』『孫子』『天と地と』『西郷隆盛』『西郷と大久保』『幕末動乱の男たち』『江戸開城』『二本の銀杏』など著書多数。1977年、逝去。写真(かごしま近代文学館所蔵)
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(作家・小説家 海音寺 潮五郎)
