戦国武将は戦がないとき何をしていた? 恋愛や娯楽に馬術…有名武将たちの気になる“オフの姿”とは

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実際に戦っていたのは一生のうち数年!?

少人数で大軍を撃破する勇猛さで、あるいは相手の裏をかいた策を弄する狡猾さで、勝利を手にする──。合戦の世を生き抜いた戦国武将たちにとって、戦(いくさ)の場は“ハレ”の舞台だった。翻って、そこから離れた“ケ”──日常の仕事や暮らしは、なかなか表には出てこない。

家族との日々や趣味は? 生身の戦国武将って、一体どんな暮らしをしていたのか?

そんな素朴な疑問に答えてくれるのが、『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ社)だ。上梓したのは、歴史小説や歴史監修などで知られる、作家で、多摩大学客員教授・早稲田大学非常勤講師の河合敦氏。戦国武将の日常について話を聞いた。

「まず、戦国武将が実際に戦で戦っていたのは、遠征などを含めても、一生のうちで多くても数年でしょう。圧倒的に戦をしていない時間のほうが長いのです。

しかし、日常といっても、やはり戦国時代、常日頃の鍛錬は怠りませんでした。織田信長などは、弓矢や馬術など、一日中ずっとそういう訓練ばっかりしています。戦うための訓練というのは、もう幼い頃から必須。実際に戦う以外にも、それに備えて人生の大半があるというのは間違いないですね」(河合氏、以下コメントはすべて)

それは、江戸時代の天下泰平の世には形骸化された“武士の嗜み”どころの話ではない。いざとなれば生き死にをかけなければならないのだから、当たり前なのだろう。

他の武将に勝つために必要なのは、武力だけではない。優秀な人材の登用、引き抜き──現代で言えば、ヘッドハンティングにも力を入れていたそう。

「戦いに勝たなくては御家は滅びてしまう。そのために戦国武将は優秀な人をどんどん取り立てました。信長が豊臣秀吉を庶民から城主に据えたような例は、そこまで多くありませんが、使えそうな人間は農民であっても商人であっても抜擢するという風潮があったのです。

他の家に仕える武士が別の家に“転職”するのも、江戸時代と違って、倫理的に外れる行為ではありませんでした。自分を評価してくれて、高い給料をもらえる主君のところに移ることは結構あって、藤堂高虎などは、主君を何度も変えています」

特に、庶民出身で、そもそも家臣のいなかった秀吉などは、どんどん他家の家臣にも手を出していったという。どれだけ有能な人間の心を掌握し自分の家に集められるかというのも、戦国武将の能力なのだ。

一夫多妻は当たり前だった

では、家族関係はどうだったのだろうか。それは、まさにプライベートのど真ん中だし、世継ぎをもうけるという意味でも重要だ。戦国武将の恋愛や家族観とはどのようなものだったのか。

「一般的には、正室がいて側室もいる“一夫多妻”だと思います。武士に限らず、平安貴族の時代から、権力や地位を持った人間はそうでした。ただ、毛利元就は、正妻が生きているあいだは側室を置いていません。幼少期に父母を亡くした後に父親の継室・杉大方(すぎのおおかた)に面倒をみてもらって育ったことから、彼女を敬愛してやまず、女性を尊ぶ感覚を持っていたのでしょう。これは稀な例だと思います」

また、正室・側室以外にも、少年愛の道に入る戦国武将もポピュラーだったという。

「当時は、キリスト教的な道徳観が入ってくる前なので、性に関して大らかで、武将が家来の少年を愛することがありました。それは戦の場に限ったことではなく、日常での話。武田信玄や他の例をみても、そうです。やはり、精神的な結びつきが強くなり、『主君のために死んでもいい!』っていうことになるんでしょうね」

本書には、武田信玄が22歳の際に6歳年下の若者に宛てた手紙のエピソードが書かれている。信玄が浮気を弁解する内容で、その若者こそが、かの武田氏の戦術・戦略を記した軍学書『甲陽軍鑑』の大部分を執筆した高坂弾正虎綱だというから興味深い。確かに身体だけのつながりではない関係性が、そこにはあったのだろう。

戦国武将にとって、その家督を継ぐ子らは重要な存在だったはず。親子の関係とはどのようなものだったのだろうか。

「子供がかわいいという感覚は、秀吉が一番分かりやすい。彼にとって50歳を過ぎてから生まれた秀頼は、かわいくてかわいくて仕方がなかったのでしょう。〈行って、すぐにでもチューしたい!〉なんて、笑ってしまうほど愛情のこもった文章が残っています。ただ、これは庶民の生まれの秀吉ならではの特殊な感覚でしょう。

一般の戦国武将の親子はちょっと違います。子供を、若い頃は政略のために人質に出したり、他へ預けて育てたり、日頃から接することは少なかった。親子で敵対してしまうことも珍しくありませんでした」

単に“我が子、かわいい”だけではない。時に戦国武将は、その子供をして政略のツールとしてしまわなければならなかったのだ。

茶の湯も政治のツールに

だが、ここまで見てきて、戦から離れる要素などあるのだろうかと心配になってしまう。単純な娯楽というようなものが存在するのだろうか。

「鷹狩りや相撲、囲碁・将棋、茶の湯、連歌などは人気でした。囲碁・将棋は戦術的なものも含めての娯楽だったと思います。鷹狩りは、騎乗して走り回ることで戦の予行演習的な意味もあり、領内の巡視的な要素も恐らくあったのでしょう。徳川家康などは鷹狩りに行って気が付いたことを家臣に指示したりもしています。

相撲は、当然身体の鍛錬になりますし、お抱えの強い力士の勝負を楽しむというのも、戦うことが好きな戦国武将ならではでしょう」

では、茶の湯はどうか。当時、公家や豪商の間で爆発的に流行していたのを、武将の間で広めたのは、どうも信長らしい。

「大軍で上洛した際、信長は公家や豪商たちから優れた茶道具を献上され、面白くなってしまった。そこで“名物狩り”と称して、茶道具の名品を強制的に差し出させました。

そして、名品の価値に気が付いたんだと思います。刀剣の代わりに褒美として与えるようになります。また、茶会を開く権利を家臣に与えるとか、茶の湯も政治の道具にしていったんです。後に千利休が確立しましたが、秀吉においては、利休の狭い茶室を相手と1対1の交渉の場にもしました」

連歌とは、複数人で上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を読み合い続けていく遊び。だが、これすらも政略的であるようだ。

「貴族の間ではメチャクチャ流行っていましたが、信長はさほどやってはいませんでした。ただ、明智光秀は盛んに連歌をやっていて、朝廷や公家やお坊さんとの交流のツールにしていた。そのおかげで光秀は信長に重用されたとも考えられます」

「何歳まで生きられるか」で歴史が変わる

だが、そこまで戦に勝つために日常を費やしたとしても、寄る年波には勝てない。最終的に戦乱の世を生き残った武将たちに共通していたのは「長生き」だったと河合氏は明かす。

「健康で長生きであったことこそが、家を繁栄させる重要な要素で、勝利の秘訣。江戸時代の有力な藩の、いわゆる藩祖と呼ばれた武将たちは、たいてい長寿でした。統計がないのでハッキリしませんが、健康に気を使う余裕のない庶民と比べると、長寿だったと思います。

毛利元就は、祖父・父・兄が若くして亡くなったのが酒のせいだと言っており、自身は飲みませんでした。また、家康は自ら調合もするほどの“薬マニア”で、健康に気を使っていたことは有名です。

もし、家康が秀吉と同じ62歳で亡くなっていたら、江戸幕府はできたばかりで、徳川の世が260年も続いたかどうかは疑わしい。逆に秀吉が家康と同じ75歳まで生きていれば、秀頼も成人していたでしょう。そう考えると、歴史が変わっていた可能性もあります。長寿はそれくらい戦国武将にとって重要だったのです」

戦国武将の日常について、聞けば聞くほどに、何事にもその真ん中には“戦に勝つ”という目的が浮かび上がってくる。戦国武将は日常の大半を戦の備えに費やしていた。逆に言えば、戦いに関わらないことにあまり興味がないのです」(河合氏)というのも頷ける。

現代の政治家の額縁に入った“常在戦場”ではない、まさにそれを地で行く戦国武将の姿がそこにはあるのだ。