豊臣秀吉亡き後の関ヶ原で、徳川家康が石田三成に圧勝した”決め手”…200通の手紙に表れた「勝敗の分岐点」
石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が、天下分け目の雌雄を決した関ヶ原の戦い。豊臣秀吉に見出され、優秀な「エリート官僚」として出世をはたした三成は、なぜ家康に敗れたのだろうか。『軍師の戦略 増補改訂版』の著者、皆木和義氏が、家康にあって三成にない、リーダーにとって本当に大事な資質を語る。
三成が関ヶ原の戦いに打って出た理由
石田三成が歴史上の人物として現代でも著名なのは、関ヶ原の戦いの西軍の首謀者、軍師兼事実上の総大将として、徳川家康の東軍と天下分け目の雌雄を決したからであろう。
豊臣秀吉の第一の寵臣というだけでは現代にここまで名前が残っていなかったと思われる。ある意味、明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ち果たした、という理由で現代でも有名なのと同様である。
当時、三成は戦下手の吏僚、事務処理に長けた能吏(文官)と思われていた。片や徳川家康は現存する日本一の偉大な武将、戦国屈指の戦上手と誰もが認めていた。つまり、家康には武将としてのブランドがあった。このような諸人が抱くイメージ、先入観の差が、勝敗を分けた一因になっていたかもしれない。
また、歴史は勝者の歴史であるので、敗者はとりわけ誹謗中傷の対象であり、三成は奸臣・佞臣として必要以上に汚名を着せられてきたようである。
関ヶ原の戦いの構図は現代でいえば、一代で日本最大の会社を作り上げた創業オーナー社長の豊臣秀吉が亡くなって、数え年6歳の一人息子・秀頼に事業承継が発生したのと似ている。
その際に、その会社の実力No.1の代表取締役副社長・徳川家康と、事実上解任された前取締役社長室長(秘書部長)兼管理本部長(総務・財務部長兼務)・石田三成が、会社を奪おうとしている家康と覇権をめぐって戦ったお家騒動、内紛ともいえようか。
西軍の総大将として担がれたのは西国の大大名で五大老の一人だった毛利輝元である。五大老はいわば代表取締役副社長であり、毛利輝元は家康と同じ代表取締役副社長の地位にあった。石田三成は五奉行の一人であり、現代でいえば取締役に擬せられるだろう。
前取締役社長室長(秘書室長)兼管理本部長(総務・財務部長兼務)といったのは、いわゆる七将襲撃事件で五奉行の地位を事実上解任され、豊臣政権(いわば豊臣株式会社)での法的地位を喪失していたからである。
ただ、関ヶ原の戦いの時点では、家康以外の五大老や奉行の承認を取り付け、五奉行に復帰していたかもしれない。いずれにしろ、石田三成は軍師として家康打倒の緻密な絵図、戦略を構築した。
それは、秀吉亡き後、約束事を平気で破り、天下を簒奪せんとする徳川家康の専横や露骨な行動に、豊臣家存亡の大きな危機感を石田三成が抱いたからである。家康の行動に眉をひそめる者も多かった。
いずれにせよ、五大老筆頭で、二五〇万石余の徳川家康を相手に、十九万四千石の石田三成が八万人以上の西軍をまとめ上げ、互角に戦った企画力・戦略構築力自体はなかなか見事といってよいのではないだろうか。
この戦略立案、家康打倒戦略は家臣の島左近に大きく力を借りている。いわば関ヶ原の戦いの軍師が石田三成で、その石田三成の軍師が島左近といえようか。
しかし、見事な戦略を立案しても、それで満足して終わっては何の意味もない。結果を出すためには、戦略の実行、実践こそが重要である。
日産自動車を再建した当時のカルロス・ゴーンが「戦略1割、実行9割」と述べていたが、それは今も昔も変わらない至言である。
勝敗の分岐点はどこにあったのか
この戦略の実行、実践において、大義や動員数が勿論重要である。それと合わせて意外な影響を与え、最後の最後に力を発揮するのが、リーダーの性格や人間力(パーソナルブランド力や信望、実績からのイメージなど)、そして、「まめさ」と「ツメの厳しさ」である。ここにはどうしても「理外の理」の部分がある。
「まめさ」でいえば、このとき、家康が諸将に書いた恩賞を含めた協力依頼の手紙は約二百通といわれているが、三成はそれに及ばなかった。この多数派工作、勝利への手紙のまめさの差が軍配を分ける一つの要因であったかもしれない。
これによって、協力してくれるか、仮に表向き敵方についても内応してくれるかなどの、おおよその票読みができる。
あとはそれぞれの人間関係を駆使しての味方への引き込みだ。そのツメをどこまでできるかで精度が上がってくる。
つながり、絆がもろければ、どんな大軍でも烏合の衆である。いかに絆を強くするか、モチベーションを高め、結束力を高めるかが将の力量であるが、その意味でも、手紙の数の差が実は最後の大きな要因、勝利の決め手になったかもしれない。
一方、仮に自軍が劣勢に陥っても総崩れにならないよう、負けない戦いができるように保険をかける。そういう危機管理のツメの厳しさもある。この辺のツメを厳しく押さえておけば、よほどのことがない限り大敗することはなく、いつでも再起できる。この辺の勘所の押さえ方は、家康の方が三成より上だったのではないだろうか。
どちらにも大義があるので、最後は「勝てば官軍」である。だから、生き残るために、お家存続のために、理屈を超えて人は保険をかける。このときもそれは見られたし、今も昔も変わらない。危機管理、リスクマネジメントである。
どちらの大義が支持を得たのか
このときの大義は、石田三成と徳川家康の双方にあった。
石田三成の大義は、「天下の安泰を乱し、豊臣家の天下を簒奪する極悪非道の謀反人を討つ、ないしは、不義を討つ」というような趣旨だったろう。背景には、「秀吉によって天下は統一されて平和の世の中になったのだから、豊臣家が政権を世襲していくのが正義である」という認識があった。
他方、徳川家康の大義は「天下を騒がす逆賊・謀反人を討つ」というような趣旨であったろう。その根底には、「天下はまだ収まっていない」「天下は実力のある者の回り持ち」という哲学、意識が根強くあっただろう。
この二つの大義のうち、どちらに支持が集まったのか。また、当時、天下は収まったとみていたか否か。
当時の戦いは数の多い方が勝つのが通例だった。徳川家康が率いる東軍は七万五千、石田三成の西軍は八万千と伝わる。関ヶ原の戦いの人数だけみると、西軍の方が多かったので、ほぼ互角の支持を集めたといえようか。
形式的には勝てる要素は十分にあった。ただし、徳川秀忠の別働隊三万八千はこの関ヶ原での本戦には参加していない。
石田三成にも徳川家康にも大義名分はあった。しかし、三成は心底からの諸将の支持を得たか、参加した大名や武将の心を士気高く心を一つにできたか、ベクトルを統一できたかについては、三成擁護派の諸資料を見てもやはり少し疑問が残る。
リーダーシップはどう形成されるのか
歴史に「もし」はない。しかし、もし石田三成が百万石の大大名であったなら、大名、武将としての重みが違う。また、三成の戦時動員力は二万五千人から三万人ほどになるので、関ヶ原本戦の当日の実際の猛攻ぶりを見れば、小早川秀秋が裏切ったとしても勝っていたかもしれない。
関ヶ原の戦いの敗因は、同僚ともいうべき大名を取りまとめるにあたって、事実上の総大将としての戦争の指揮力のなさ、実践経験の不足とよくいわれている。しかし軍師的立場の主導者であり、十九万石余の中規模大名の三成としてはやむを得ない面もあったといえよう。
対する敵の総大将は百戦錬磨な徳川家康である。家康が指揮するのも、対等の大名たちである。ここは三成と同様であるが、家康に対しては武将たちの信頼感が違う。従二位内大臣で、五大老の筆頭であり、小牧長久手の戦いでは秀吉を破っている。歴戦の実績から、黙っていても重みがあったろう。
片や、家康に比し、従五位下の行政官僚で華々しい戦歴がなく、その意味で、石田三成の指揮力に不安を覚えていたものも西軍の方が相対的に多かったかもしれない。
豊臣秀吉という後ろ盾がいてこその石田三成だった。後ろ盾がいなくなれば、また五奉行というポストを離れれば、単なる十九万四千石の力しかなかったといえよう。一言でいえば、格が違った。人望もまた違った。
三成は、吏僚(文官)・行政官僚としての能力は優れていたが、人情に欠ける点があり、気配りや配慮に欠ける言動なども手伝ってか敵を作りやすかった。規範意識が高く、規則や理屈優先で、先輩や同僚などには受けが良くなかったのであろう。
本来味方につくべき豊臣恩顧の武断派、加藤清正や福島正則などを敵に回してしまったのも、彼らの「三成憎し」の気持ちだった。彼らも頭ではわかっていても、長年の「三成憎し」の感情が許さなかったのだろう。
その意味では、石田三成の性格やこれまでの行動が結局のところ、家康をして天下人にならしめたといえるだろう。
三成に学ぶべき点、反面教師にすべき点
豊臣家を守るという大義名分があった石田三成だったが、人は理屈通りに動いてくれなかった。
関ヶ原の戦いは、1600年9月15日の一日で勝負はついたが、その八万人以上の軍を実際に上手に指揮し、力を最大限に発揮させることができなかった。
寄せ集めの、いわば様子見の烏合の衆のような軍も混じる中、理屈抜きに全軍のモチベーションを高め、一致団結させるリーダーシップやアライアンス力、士気を高めるコミュニケーション力、利と義を絡めた総合的な発信力が弱かったともいえよう。
中国明代の儒学者である呂新吾が『呻吟語』で「深沈厚重ナルハ其レ第一等ノ資質、磊落豪雄ナルハ其レ第二等ノ資質、聡明才弁ナルハ其レ第三等ノ資質」と語っているが、あらためて三成のことを考えると、心に深く響いてくるものがある。
というのは、第三等の資質の「聡明才弁」とは、頭がよく弁も立って、いわゆる口八丁手八丁の秀才タイプである。しかし、反面で軽薄才子の謗を免れないと呂新吾は考えていて、妙に三成と重なり合うように思うからである。
ちなみに、第一等の資質の「深沈厚重」は、どっしりとして重みがあり、落ち着いていて何事にも動じない様をいい、「磊落豪雄」は細かいことに拘らず、陽性の人物で、度量が大きい資質の人物である。
そうとはいえ、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、軍配は東軍に上がったものの、三成率いる西軍は、小早川秀秋が寝返るまで勝敗が分からないほどのみごとな戦いぶりだった。結果的ではあるが、三成が単なる文官の吏僚、行政官僚でなかったことを一方で証明したといえよう。
しかし、負けは負けである。囲碁でも半目勝ちでも勝ちは勝ち。逆に、勝敗は時の運、兵家の常というが、もっと人の心を理解し、人情味があれば、武断派の同僚の大名たちを味方につけられたかもしれない。
その意味で、石田三成に学ぶべき点、また、反面教師にすべき点が、現代においても多々あろう。
石田三成(1560-1600)
豊臣秀吉に才能を見出され、豊臣政権の五奉行として活躍した。側近として、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに従軍。食糧や武器の調達など裏方の仕事で非凡な才能を発揮した。秀吉の死後、家康と対立し、家康排除を画策。家康が会津の景勝征伐に向かった隙をついて挙兵、毛利輝元を総大将に担ぎ、家康率いる東軍と関ヶ原で激突するが敗退。生け捕りにされ、京都六条河原で斬首された。享年41歳。
関連記事をもっと読む→信長に反旗を翻した「重臣」に幽閉された黒田官兵衛…絶望する豊臣秀吉を狂喜に変えた「天才軍師」の名前
