神鳥裕之監督(当時)に導かれ、1月の大学選手権で7季ぶり日本一を達成した明大ラグビー部【写真:アフロスポーツ】

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明大ラグビー部・神鳥裕之前監督インタビュー前編

 明治大ラグビー部を2025年シーズンの大学日本一に導き、退任した神鳥裕之前監督に話を聞いた。現役時代は大阪工大高(現常翔学園高)から明治大とラグビーの名門校で王道を歩み、監督として母校に戻って来た指揮官は、エリート揃いの後輩たちに何を求め、チームを7シーズンぶり14度目の“大学最強”に導いたのか。5シーズンの仕事を振り返った。(前後編の前編、取材・文=吉田 宏)

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 すでに自身の退任及び後任の高野彬夫新監督の就任会見も終えた3月半ば。日本一を遂げた指揮官が、5年の任期を終えた心境を語り出した。

「今は、ほっとしています。やはりそれが一番大きいですね。いろいろな人からプレッシャーのある仕事だと言われてきましたが、任期中は、正直そう感じたことはなかったんです。でも、終わってから自宅近くを散歩していたりすると、あまりにも気持ちが晴れやかなんです。明日選手たちに何を話さなきゃいけないか、ミーティングをどうしようか、何が良くなかったのか。そんなことを考える必要がなくなった時に初めて、ああ、やっている時は結構プレッシャーがあったんだなと感じましたね」

 言葉以上に、そう語りながら浮かべた笑顔が、偽りのない今の心境を物語る。対抗戦、選手権のダブルタイトルを手にして終えた明大監督としての任期。学生たちとの5年に及んだ挑戦は、就任する1年前から始まっていた。

「僕がまだリコー(ブラックラムズ東京)の監督だった時に、当時明大監督だった(田中)澄憲から連絡があったんです。すこし話がしたいと。それまでも、彼はサントリーのディレクターなどもしていたし情報交換は何度もしてきたんですが、後日『そんなことでわざわざ電話して会いたいなんて言わないでしょ』と本人に笑われました。その場で、あと1年で監督を辞めるので(後任監督を)やってほしいと言われたんです」

 神鳥監督自身もリコー監督をそのシーズン限りで退任することが内定していた。ラグビーを離れて、リコーでの業務に復帰することを考えていたのだ。1学年後輩の“前任者”からのオファーには「少し時間が欲しい」と即答はしなかったが、それは二の足を踏んだからではなかった。ほとんど考えたことがなかった明大監督というポストの仕事内容や任期、自身が翌年6月までリコー監督という仕事があったことなど、整理や調整が必要な多くの懸案があったからだった。

「オファーは驚きましたけれど、そんなに(受諾までは)時間はかからなかった。1週間くらいでしょうか。直感的には、新しいチャレンジをいただいたことに対しての嬉しさはあったと思います。最終的にはカミさんが背中を押してくれましたね。明治の監督という生活になるのはどうなんだろうと話をした時に『ここまでラグビーに携わって来て、母校の監督をやれるなんて誰もが出来ることじゃないでしょ』と話してくれたので、反対じゃないんだなと。ありがたかったですね」

 最近の明大の監督人事の中で異例だったのは、OBということ以外はラグビー部との接点がほとんどなかったことだ。前任の田中監督は、就任前にコーチとして明大ラグビー部の強化に携わりながらの昇格。すでに活動をスタートしている高野新監督も、2シーズンあまりヘッドコーチ(HC)として選手と接してきた。神鳥監督の場合は、いわば明大ラグビー部内での“助走”がないまま就任したことになったが、田中元監督はオファーをした理由をこう説明する。

「リコーでの指導経験もあるし、僕が神鳥さんに求めたのは、チームを組織としてしっかりマネジメントしてもらうことでした。そのために、コーチらにいい人材を揃えてもいた。選手も、丹羽さんと僕の時代で、いい人材が集まって来る流れもだいぶ出来ていたし、監督がグラウンドでガンガン指導もしてきていた。なので、ここからは彼らの能力をしっかり引き出せるようなチーム作りが必要だった。リコー時代と同じように、いいスタッフがいい仕事を出来るような環境を作るマネジメント力も含めて、神さん(神鳥)は適材だった」

 コメントからも、明治大学ラグビー部という組織が、単純に任期毎に監督の首を挿げ替えるだけの繰り返しはしていないことがわかる。組織の進化段階に応じて、戦略的にどのようなタイプのボスが必要なのかを考えて、適材を探す。勿論、監督交代のタイミングで適任者が実際に複数年の監督業を続けることが出来るかという巡り合わせも重要だが、それも含めて“後釜探し”も仕事の一つだった前監督が、適材だと判断し、OB会、大学当局も同意したことで神鳥メイジが動き出した。

6月末という異例のスタート まず着手したのは「対話」

 明大ラグビーの監督任期は、原則として2年を一期として、基本2期だが、就任に関しては神鳥の勤務するリコーの理解が大きかった。

「会社には、もう感謝しかないですね。自分の中で『やりたい』と決めて直ぐに、リコーの監督を終えた後のキャリアについて相談させていただいていた人事担当の執行役員に相談したんです。チャレンジ出来るならそうしたいと話すと、自分だけでは決められないと、社長に直接相談することになった。そこで社長から、そんな名誉な仕事はない、行って来いと二つ返事で気持ちよく送り出していただいたんです」

 リコーは、ラグビーでは東芝や神戸製鋼のような黄金時代を長く築いてきたチームではないが、1953年の創部から本社上層部、社員がチームを応援し続けてきた長き伝統がある。懐の深いラグビーへの理解、愛着が神鳥監督、そして明大ラグビー部の挑戦を後押しした。

 では、就任当時の“現場”はどうだったのか。当時の国内最強リーグ「トップリーグ」を戦ってきた神鳥監督は、就任当初に母校のラグビー部を見てこんな印象を抱いていたという。

「最初に感じたのは、レベルの高い選手はトップリーグの選手と変わらないなという印象でした。飯沼蓮(21年度卒、現浦安D-Rocks、SH)や山本嶺二郎(23年度卒、現BR東京、LO)らは、そんなに遜色ないと思いました。でも一番驚いたのは、90人もの部員の中で能力の差が想定以上にあったことでしたね。それはラグビーの技術もですが、コミュニケーションにおいてです。大学生の4年間って、人がすごく成長する。そんなタイミングなんだというのを改めて実感しました。なので、確かに大変は大変でした。でも、指導を始めて面白そうだなとは思いましたね」

 実際に世田谷区・八幡山の明大グラウンドに立ったのは、リコーのシーズンが終わった後。6月末という異例のスタートとなったが、まず着手したのは「対話」だった。

「最初はいろいろ話を聞きましたね。全員と面談して、何か問題はあるのか、自分がどうなりたいのか、足りてないこと、長所短所を聞いたりしました。シーズン途中からチームに入ったこともあって、部員たちがそれぞれどういうふうに考えているのかを知りたくて、ずっと面談していたんです。1年目が一番長かったですね。一人ひとりなので個々には10分、15分ですけれど、選手によっては30分くらい話しました。全員だと3週間4週間くらいはかかりましたね」

 このような面談は、日本代表を率いるエディー・ジョーンズ・ヘッドコーチを始めリーグワン、他の大学指導者も取り入れているが、神鳥監督も就任から毎シーズン、しかも春秋2回の頻度で続けてきた。

「1対1で話を聞くことで、この選手しっかりしているなとか、こういう性格なんだと、自分なりに把握出来ました。その時々でテーマを変えたりしましたが、簡単にいえば大学の前期、後期で成績表持って来させて、それを見ながら最近どうなんだという話から始めましたね。選手だけではなく、チームスタッフ全員と面談していました」

「ただ喋ることが目的じゃない」 求めたコミュニケーションの“本質”

 その中で、社会人チームとの一番大きなギャップも感じていたのが、先に触れたコミュニケーション能力だった。

「選手の自主性、コミュニケーションの質ですね。優勝した最終シーズンも、いろいろなところ(報道)で選手ミーティングがフィーチャーされていましたが、確かにこの年はミーティングのレベルが高かったと思います。けれど、部全体だと、発言や練習でのコミュニケーションの取り方というのは、学生というのはまだ乏しいんです。ダメなわけじゃないが発展途上だと思いました」

 国内最上位リーグのチームを指揮してきたコーチが、最大の差としてフィジカルやスキル以上にコミュニケーションを挙げたことが、いまのラグビーで何が重要なのかを示唆している。

「だから学生たちにはコミュニケーションを取れと言うけれど、結局サイン(プレー)のコールだけずっと連呼して大声出しているのがコミュニケーションだと思っている子もいるんです。それ以外には何を話したらいいか分からない。何を話すべきなのか、コミュニケーションの本質は何なのかが分からない。要は、いいプレーをするために仲間に伝えたほうが自分が助かる。そのためのコミュニケーションじゃないですか。ただ喋ることが目的じゃなくて、このスペースにボールを運ぶためにどうしたらいいかを伝える手段のはずですけれど、そう考えてプレーしていた選手は大学では少ないという実感でしたね。それが今年のチームは、比較的しっかりと手段としてのコミュニケーションを取れる選手が多かったんです」

 監督としても選手のコミュニケーション力強化へ工夫をしてきた。その一つの例が“わちゃわちゃタイム”だった。

「ミーティングでは一方的に喋るんじゃなくて、よくあるやり方ですが、20秒時間あげるからこれについて考えてくれとかね。僕はよく“わちゃわちゃする”という言葉を使いましたが、部員同士がわちゃわちゃする時間を多くして、黙って話を聞いているだけのミーティングを減らしたんです」

 なるべく選手をリラックスした環境でミーティングを行ってきた神鳥監督だが、それも強い組織になるためには、その中で自主的に意見を言える、行動出来ることの重要性を感じていたからだ。

「選手たちは高校の監督、先生からたくさんのことを教えてもらって明治に集まってきた。でも、その教えを自分一人で自然に出来るかを、ここで学んでいくんだという話はしてきました。発言しづらい空気の中でも、チームのためにプラスなことは、自信を持って、自主的に発言出来るような選手が増えていかないとダメだとかね。選手の本音では、面倒くさいオッサンだったと思いますけれど、そんなことも問いかけながら結構話しました。敢えて言葉に出していたんです。優勝して昨シーズンの選手の中でのコミュニケーションの進化もクローズアップされましたが、実は回数としてはその前から続けてきたことで、その質が上がっただけなんです」

 5シーズンという、大学教員以外の指導者では長期の任期の中で、高いコミュニケーション能力をみせた選手も挙げてくれた。

「(伊藤)龍之介(新4年生、SO)なんかは最たるものでしたね。練習中のプレーを見ても本当にトップレベルだと思いますし、指示する内容も細かい。仲間に、もうちょっとこっちへとか、もう少し向こうに立ってくれ、もっと深くとか。本質的なコミュニケーションがゲーム中でも取れていた。卒業生の中でも秋濱(悠太、24年度卒、現BR東京、CTB)もコミュニケーションが取れる選手でした。サイズも目立たないし、彼に言うといつも怒るけれど足もすごくは速くない。それでもどうしていいプレーを沢山するかというと、練習中に見ていたんですけれど、ずっと喋っているんですね。そしてその内容が、とにかく具体的なんです」

「勝つ」だけじゃない大学スポーツの価値を求めて

 神鳥監督自身は、常に勝利を義務付けられたチームでラグビーを続けてきた。とりわけ大工大高、明治大は学生ラグビーの中で長きに渡り“常勝軍団”という位置づけのチームだ。飾らない性格で、自分から輝かしいキャリアなどを口にしないタイプの神鳥だが、当時はほとんどいなかった高2年で高校代表候補入りして、日本選手権の前座で行われていた高校東西対抗に出場した。同3年で高校代表、明大時代も23歳以下代表を経験して、1、3、4年生で大学選手権優勝とエリート街道を歩んできた。

 社会人になってからは正代表の経験はなく現役を終えている。急速に大型化が進んでいた当時の国際ラグビーの中では、No8というポジションでチャンスを掴み切れなかった。そんな現役時代の経験もあり、指導者としての眼差しはエリート選手と同時にそれ以外の部員たちにも注がれる。

「当然勝負なので勝たなければいけないというのはありますが、大学スポーツってそれだけじゃない価値があると、僕自身は思っていたんです。だからちゃんと、それぞれのカテゴリーの中で部員を成長させられるような環境をしっかりと作りたいなと思っていました。僕の監督就任までにそれが出来ていなかったわけじゃないけれど、そういう思いにすごく駆られたんです」

 勝利至上主義だけではない目線で5年間をかけて学生たちを鍛え、最後は大学最強へとチームを押し上げた。そこには、神鳥自身が自分をどんな指導者なのか自己分析していたことが反映されている。

「チームというのはフェーズ、フェーズというのがある。丹羽さんから(田中)澄憲に監督が引き継がれて、選手に大学日本一という喜びを味わわせてくれた(2018年度大学選手権優勝)。チームとしての文化をしっかりと作ってやらないといけないところで、リーダーシップを自ら発揮する澄憲から僕が引き継いだ。でも僕の場合は、どちらかというと適材適所なスタッフに任せるタイプ。彼らの持っているものを引き出さないと引っ張れないと思っていた」

 前任の田中監督は、主将も務めた学生時代に監督問題でOB会が紛糾していた。十分な指導体制が組めないまま、学生リーダーとしてグラウンド内外で強烈な主導力を発揮してチームを牽引し続けた。明大監督としても、自らがグラウンドに立って引っ張るタイプだったが、それは当時のチームの組織としての成熟度や選手の取り組む姿勢なども鑑みながら必要だと判断したからだった。だが、田中からバトンを受けた神鳥は、陣頭指揮ではなく、適材と思ったコーチを集め、彼らをオーガナイズしながらチームの底上げ、進化に取り組んできた。

「なので、それが逆にスタッフからしたら物足りないと感じられた部分もあったと思います。就任したころは、勝つためにはもっと厳しくしないといけないという意見とか、そういう部分でのスタッフとの価値観合わせというのは結構苦労しました。あの頃言われて堪えたのは『緩くなった』という言葉でした。はっきり言われたこともありましたし、心理的安全性じゃないけれど、スタッフたちが思っていることを僕に素直に言ってくる環境を作ることは大事だと思ってはいましたが、心の中ではかなりキツく感じた声もありましたね。澄憲の時代を経験したスタッフだと、僕のやり方にたぶん戸惑いもあったはずだし、僕の方でも葛藤はありました」

 そんな葛藤の中でも、神鳥にタクトを託した田中元監督の言葉にも励まされた。

「澄憲と話した時も、それを望んでいると言ってくれた。1人のコーチの強烈なリーダーシップの下で引っ張られる組織ではなくて、誰が監督になっても組織としてしっかり各々のコーチたちが力を発揮して、チームが持続的に強くなっていくようにしなくちゃいけないと。彼はそういうことも先々に見据えていたし、自分らしくやってほしいと話をしていました」

 では、5年に及ぶ指揮の中で、神鳥監督はどんな思いで強化を進めたのだろうか。後編ではシーズン毎を振り返り、指揮官が思う大学ラグビー、明治大学ラグビー部とは何かを聞く。

(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)

吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。