横浜の郊外に、海外からも修理依頼が届く小さな靴店がある。他店で「もう直せない」と断られた靴に、客は数十万円もの修理代を惜しまない。その経営を支えているのは、2代目店主・村上塁さん(43)が見出した独自の戦略だった。創業者の急逝で店を継ぐことになった村上さんは、シャッター商店街の小さな工房をどのように「世界中から選ばれる店」へと変えたのか。ライター・山本ヨウコさんが取材した――。
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2011年に2代目店主となった村上塁さん - 筆者撮影

■年間1200足、平均月商700万円

安い靴を買って履き潰すほうが合理的――。

手頃な価格で新しい靴が手に入る今、壊れたら買い替えるのが当たり前の光景となった。街から個人経営の靴修理店が静かに姿を消すなか、国内外から年間1200足以上の依頼が届く工房がある。神奈川県横浜市郊外の、人通りが少ない商店街に佇む「ハドソン靴店」だ。

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60年以上の歴史をもつハドソン靴店の外観 - 筆者撮影

カラカラと扉を開けると、まるで秘密基地のような光景が広がっていた。わずか5〜6坪の工房に、靴の仕上げに使われる機械、とんかちや革包丁、インクといった道具類が所せましと並んでいる。棚には20足以上の靴が陳列し、修理を待つ靴の箱も積み上がっている。文字通り、足の踏み場がほとんどない状態だ。

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工房スペースはわずか5〜6坪。道具や機械類が所せましと並ぶ - 筆者撮影

その合間の、大人がひとり通れるほどのスペースに座り「シュッシュッ」「トントン」と小気味いい音を立てて作業する男性がいた。迷いのない手つきで靴と向き合うのは、2代目店主の村上塁さん(43)だ。

職人が一足ずつ手作業で修理にあたるため、納期は最短で1週間、ときには12カ月以上を要する場合もある。それでも客足が途絶えることはない。個人店の多くが月商100万円の壁に直面する一方で、平均700万円を売り上げ、毎年黒字をキープしているのだ。

■他店で断られた靴が最後にたどり着く場所

「今年は1月〜5月上旬の間に、すでに500件近くの依頼が来てます。どれもプロが修理を断るような、ひと筋縄ではいかない靴です。うちは定額料金を設けていません。同じ靴でも壊れ方が違いますし、お客さまそれぞれが求める理想像が違います。それらを聞いてから部材選び・工賃を算出するため、数万円のものから数十万円かかるものまであるんですよ」

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どのような靴にも対応できるよう多様なパーツをそろえている - 筆者撮影

インタビュー中、村上さんの口から出た数十万という金額に思わず声が出た。しかしどれも持ち主の記憶や愛着が宿った特別な靴で、購入価格を上回る修理代を投じる客は珍しくないのだという。

ここは他店で「もう直せません」と断られた靴が最後にたどり着く、いわば「靴の駆け込み寺」。なぜ個人経営の修理店が減り続ける時代に、この小さな工房は世界中から選ばれているのだろうか。

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棚にはさまざまな種類のソールが並ぶ - 筆者撮影

■ふたりの師匠から学んだ哲学

村上さんには、ふたりの師匠がいる。「靴の神様」と呼ばれた佐藤正利さんと、日本最高峰の職人と称された関信義さんだ。

両氏と出会ったきっかけは、村上さんが靴職人を目指して通っていた専門学校からの紹介。休学してまでふたりのもとに通い詰め、佐藤さんからはハンドソーン・ウェルテッド製法という伝統的な靴づくりの基礎を、関さんからは高度な応用技術を教わった。

学んだのはそれだけではない。ふたりは性格も経歴もまったく異なる職人だったが、口をそろえてこう説いた。

「食うために職人をやれ。そのために柔軟に対応しろ」

職人としてのプライドを「なにをつくるか」というエゴに置くのではなく、「どう生き残り、どう顧客の期待に応えるか」に置く。腕一本で食べてきた昭和の職人たちが、時代の流れのなかでたどり着いたスタンスだ。

生々しくも先見性にあふれたこの言葉が、のちの村上さんとハドソン靴店の運命を大きく動かしていく。

■店を継ごうとする人はいなかった

ハドソン靴店は1961年、師匠のひとりである佐藤正利さんが創業した。佐藤さんは吉田茂元首相や俳優の石原裕次郎さんら著名人の靴を数多く手がけ、横浜で最後の手製靴職人といわれた人物だ。当時の外務省から御礼状を授与され、都知事賞も受賞。自ら勝ち得てきた技術を後進に伝え続けた。

ちなみに「ハドソン」という店名は、佐藤さんの師匠が愛用していた英国製バイク「ニューハドソン」に由来するそうだ。

2010年、佐藤さんが急逝。店は閉店状態となった。ある日、村上さんが焼香に訪れると、おかみさんから「店を継ぐ人がいないから、閉めようと思う」と告げられた。何十人という弟子に話を持ちかけたものの、店を継ごうとする者は誰もいなかったのだという。

「商店街は人通りが少なくて、シャッター街のような状態でしたからね。それはそうだよな、と。先代は年齢もあってほぼ隠居生活を送っていましたし、お世辞にも店の経営状態がいいとは言えなかったと思います」

■「あがいてみよう」28歳で店を継ぐことを決意

ちょうどその頃、浅草の靴メーカーで働いていた村上さんは、職人を続けるべきか悩んでいた。すでに業界は縮小傾向にあり、どれほど腕を磨いても人生が上向かない「報われない構造」に直面していたのだ。

下積みを終えて正社員として働いても、ひと月の給料は1万円から4万円。半年間で12万円にしかならなかった。10年先に勤めていた熟練の先輩ですら、額面20万円に達しない厳しい現実に甘んじている。父からは「お前の給料、うちの会社の中国支社のパートより少ないぞ」と冷静に現実を突きつけられた。

「自分の力を出しても結果に反映されない。10年経っても、たぶんなにも変わらない」

納得がいかず「夜間の大学に通い直して、別の業界に行くのもアリだな」とも考えていた。では、なぜ店を継いだのか。

「おかみさんに『靴の仕事を続けるなら、ここでやってみたら』と言われたんです。僕のなかに、せっかく佐藤さんと関さんから素晴らしい技術を教わったのに、靴の仕事を完全に諦めてしまうのはもったいないという思いもあって。おかみさんに背中を押されて、ここでもう少しあがいてみようと腹をくくりました」

2011年5月、村上さんは28歳でハドソン靴店の2代目店主となった。

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修理で一番多いのがオールソール(ソール交換)。はみ出したソールを皮包丁で削ぐように切る - 筆者撮影

■閑古鳥が鳴く店で見つけた、意外なニーズ

一念発起して店を継いだものの、現実は想像以上に厳しかった。店では靴職人としてオーダーメイド靴の製造を続けていたものの、注文が入らないのだ。

それもそのはず。先代から引き継いだ店は、軒先で体育館シューズや雪駄も並べる「昭和の靴屋さん」そのもの。10万円以上かけて靴をオーダーしようとする人はもっと都心の店に行ってしまい、シャッター商店街の小さな店に頼もうとする人は滅多にいなかった。

このままでは生き残れない――。

「とにかく店を潰さないように必死でした。近所に住む方の頼まれごとにも対応したりして、仕事のないときはなんでもやりましたね」

いい解決法が見つからず頭を抱える毎日だったが、店を開けていると「あそこの職人が途中でいなくなった。ここから先をやってくれないか」と修理の相談が来るように。最初は片手間に引き受けていたものの、直した靴の仕上がりがいいと評判になり、「○○さんに紹介されて」と訪ねてくる客が増えていった。

そのなかには、遠方からわざわざ訪ねてくる客もいた。不思議に思い話を聞いてみると、多くがほかの店で修理を断られた人たちだとわかった。

■「断られた靴」にあったチャンス

「当時はビスポーク(対話しながらつくる最高級のオーダーメイド靴)の技術をもっていても、自分のブランドの靴しか直さない店が多かったんですよね。チェーンの修理店はスピード重視なこともあり、細かな依頼は受けつけない。断られたり納得できない修理をされたりして、宙ぶらりんになっている方が多いんだなと気づきました」

オーダーメイド靴は精密な工程を経て製作される。木型の製作から革の裁断・縫製、木型に沿わせて形を整える吊り込み、手縫いによる底付け、仕上げまで、すべてが職人の手でおこなわれる。

「修理と製造における技術はまったくの別物」だそうだが、村上さんは手縫いの靴を一からつくる技術の持ち主だ。一般的な修理店のように部材を貼り替えるだけでなく、靴を一度解体してパーツからつくり直すことができる。だからこそ、底が真っ二つに割れたブーツや、木型から修正するサイズ変更といった、他店では対応できない修理が可能だった。

「ここにビジネスのチャンスがあるかもしれない」

村上さんは靴の製造をやめ、自分のもつ技術を修理に注ぎこむことを決意。2013年頃、「他店で断られた靴の修理を引き受けます」と明確に打ち出した。

このとき背中を押したのは、師匠たちが説いた「柔軟になれ」という言葉だ。この思い切った決断が、ハドソン靴店独自の道を切り拓くことになる。

■仕事は増えた、だが安定しなかった

旗を掲げたことで口コミは少しずつ広がり、やがて全国から依頼が届くようになった。しかし次の壁が待っていた。

修理は基本的に受け身の仕事だ。来店がなければ売上は立たない。繁忙期と閑散期の差も大きく、現在は平均月商700万円を維持しているが、かつては50万円台を切るまで落ち込む月もあった。

「本当に悪いときは生きた心地がしないぐらい下がってしまったんですよ。山と谷の差をいかに小さくできるかが、ずっと課題でした」

2021年にはテレビのドキュメンタリー番組に取り上げられ、反響は海外にも届いた。ここから一気に波に乗ったかと思われたが、村上さんは首を横に振る。

「確かにテレビに出ると、一時的にお客さまは増えます。でも話題目当てのお客さまが殺到すると、修理の待ち時間が増えて常連のお客さまが離れる。ブームが去ったあとは、売上がガクンと下がってしまうんです。波に乗ったと思ったことは一度もありません」

経営を安定させるために村上さんが取り組んだのは、目の前のひとりにとことん向き合う「アナログな手法」と、情報発信による「現代的な戦略」の両立だった。

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紳士靴の修理に欠かせない「コテ」。コンロで熱を加えてから押し当てると、ワックスがソールのコバに浸透するのだそう - 筆者撮影

■打ち合わせは2〜3時間に及ぶ

ハドソン靴店では、修理を単なる作業ではなく「想い出の修復」と捉えている。靴は履いた日々の数だけ、持ち主の記憶や想いを刻み込んでいるからだ。

その考えを体現するのが、異例ともいえる長時間の打ち合わせである。初めて来店した客とは、2〜3時間かけて話し込むことも珍しくない。

「お客さまが求めていることを正確に知りたいんです。靴の状態だけじゃなくて、どういう場面で履くのか、どんな思い入れがあるのか。そこまで聞かないと、最適な修理は決められない。たとえば、お客さまはエレガントさや履き心地を求めているのに、店側が耐久性を優先して直してしまう。そうした食い違いを避けるためにも、最初のすり合わせに時間をかけてます」

伝票を見せてもらうと、聞き取った情報がびっしりと書き込まれていた。なかには「おまかせ」と記されたものもある。このひと言があれば、ある程度は職人の判断に委ねてくれている客だとわかる。逆にそれがなければ、強いこだわりを持っているということだ。「寸分違わぬ精度で仕上げないと、この方は納得しない」。だからこそ数カ月後の作業に備えて要望を細かく記録しているのだ。

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手に持つのは外羽根式の靴。「羽根(靴の紐を留めている部分)が全開になるので、甲の高さを調整しやすい。軍靴がルーツなんですよ」と話した - 筆者撮影

■あえて「修理をしない」選択肢がある

ヒアリングだけでなく説明も徹底。その重要性は、近年さらに高まっている。

「僕が店を継いでから15年ほど経ちますが、その間にお客さまの価値観は大きく変わってます。最近のお客さまはYouTubeなどで調べてから来店するので、以前より靴に対する知識量が圧倒的に増えてますね」

靴の製法や素材まで知っている人も多く、どう直すのか、どう仕上がるのかといった説明だけでは足りない。なぜその部材なのか、なぜその工程が必要なのかも含めて伝え、さらに客が求めていることに対して「こういう技術とサービスで応えられます」と提示する。

「初めて顔を合わせてすぐ、靴に対する想いが語られることはほとんどありません。そのため最初の5分ほどは、会話を交わしながら自分自身を売り込み、少しずつお客さまに信頼してもらうことを大切にしています。単なる接客ではなく、僕は“プレゼン”だと思ってるんですよ」

注目すべきは、必ずしもすべての依頼に対応しているわけではないという点だ。ごくまれにではあるが「修理しない」選択肢も提案する。過去には、仕上がりが客のイメージに100%合致するか確信がもてず、修理内容とリスクを正直に説明して話し合った結果、修理をしない結論に至った例があるという。客の反応はどうだったのかと気になったが、むしろ「納得できた。相談してよかった」と感謝されたそうだ。

客の想いに寄り添い、求めていることを正確にくみ取る。そのうえで、技術とサービスで想いに応える。その姿勢の積み重ねが信頼につながり、深い納得感につながっているのだ。

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工房内には靴修理に必要な道具類があふれている - 筆者撮影

■旧日本軍のブーツに30万円を支払う客も

ハドソン靴店では定額料金を設けていない。靴の状態や客が望む理想像によって費用が異なるだけでなく、修理の内容によっては当時のインクや部材の厚み、大きさを再現し、釘1本から特注でつくることもある。数カ月単位のプロジェクトとなるため、費用も高くならざるを得ない。「もっと安くしてほしいと言う人もいそうですね」と聞くと、村上さんはこう答えた。

「車の修理と同じです。修理といっても、毎回フレームだけの状態にしてエンジンから積み替えるわけではないですよね。エンジンはまだ大丈夫だから今回は足回りだけやりましょうか、となることが多い。靴の場合もまず修理の方法を提案して、それぞれのメリットとデメリットを説明し、どこまで修理するかはお客さまに決めてもらいます」

インタビュー中、村上さんが象徴的なエピソードを話してくれた。店内にあった旧日本軍のブーツだ。持ち主は親戚から譲り受けたその靴を「バイク用として履けるようにしてほしい」と依頼した。これは単なるパーツ交換といった修理では不可能な域。靴の構造を変え、もう一度靴をつくり直す「リビルド(レストア)」が必要なため、費用は30万円ほどになる。よく聞けばこれが2足目の依頼で、前回の別の靴もほぼ同額。合わせて60万円近くを修理にかけていることになるという。

写真提供=ハドソン靴店
機械縫いとは異なり、1針ずつ手で縫い進めていく - 写真提供=ハドソン靴店

■「靴ではなく想い出にお金を払う」

いわば、無料で手に入れた靴だ。筆者は呆気に取られて「元値の3〜4倍のお金を払ってでも修理を依頼するなんて……」と言葉を漏らしてしまった。

「確かにビックリするかもしれませんね。でも彼にとってその靴は、靴じゃない。想い出なんです。故人と自分をつなぐツールとして見てるんですよ」

亡き父の形見を息子が履けるよう、サイズを3cm縮めてつくり直す依頼もあった。それだけではない。結納のお返し、友人の形見、初任給で買った自分へのご褒美……。ある70代の男性は、今では高額な靴をいくらでも買えるのに、若い頃に歯を食いしばって働いていた時代の靴を最も大切にしているという。

「靴にはそれぞれのストーリーがあります。今のお客さまは、モノでも技術でもなく、その裏にあるストーリーにお金を払っている。僕はそう思います」

こうした客の想いに応えるため、作業環境にも妥協しない。道具や機械はすべて自分仕様にカスタマイズしている。一見するとまな板のように見える作業台の「場板」は、太ももの上に乗せるだけでなく足で挟んでも作業できるよう、膝の高さに合わせて材木店で切り出してもらった。革に色をつけるインクに至っては、試行錯誤を重ねて100色以上のオリジナルをそろえている。業界の人からも「どこで売っているんですか」と聞かれるほどだ。

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羽根(靴紐を通す穴が配置された革のパーツ)を指し「これはフォーマルな内羽根式の靴。羽根が革の内側に入り込んでいるから、これ以上開かないんですよ」と説明してくれた - 筆者撮影

■「盗むもの」だった職人技をYouTubeで公開

アナログな手法を守る一方で、村上さんは、新たな挑戦にも取り組んでいる。

「現在進行形で必死ですよ。生き残るために。同じことをずっとやっていたらお客さまに飽きられてしまいますから」

売上の波を小さくするために力を入れているのが、noteやYouTubeを通じた情報発信だ。かつて職人の技は「盗むもの」であり、工房の裏側はブラックボックスだった。しかし村上さんは、プロの知見を惜しみなく公開している。

「修理業は大昔からあるので、今から『こんな修理ができます』と謳っても差別化は難しいんです。あ、これ見てください」

そう言って一足を手に取り、靴底をこちらに向けた。

「ここに金属をつけるのが今、男性の間ですごく流行っていて。ここに刺してあるネジの頭はプラスですよね。これを『フランスから仕入れたマイナスネジに替えられます』って発信すると響きやすい。多くの人に興味をもってもらえるんですよ」

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革靴のつま先の削れを防ぐトゥスチール。ハドソン靴店ではこのプラスネジをフランスから取り寄せたマイナスネジに変更できる - 筆者撮影

フランス製のギターの弦がうちにはあります、みたいな感じですね、と付け加えた。確かに、細部にこだわりたい人にはたまらない情報だろう。ほかに村上さんこだわりの靴修理道具や自宅でのメンテナンス方法も伝授するほか、noteでは村上さんが靴職人になるまでの道のりや修理した一足のその後を連載。YouTubeとあわせて技術の裏側にある哲学を発信し、幅広い層のファンを獲得している。

高度な技術と、採算を超えた打ち合わせと、こだわりの道具で「靴の向こうにいる人の想い」をくみ取る修理。そこに発信が加わることで、ハドソン靴店は「街の修理店」から、他店から断られた靴を救う「最後の砦」という確固たる地位を築けたのだ。

■職人の世界に逆行する「チーム経営」

2024年、ハドソン靴店は法人化に踏み切った。最大の理由は、仕入れ環境の急変だ。紙やすりやバックルといった部材ひとつとっても、「500足から」「1000足から」でなければ卸さないメーカーが増え、小口の個人店は苦境に立たされはじめている。

「大手の靴修理チェーンは、大手企業のグループ会社であることが多い。彼らはコンテナ単位で海外から仕入れます。僕たちが今のように特殊な部材ではなく一般的な部材しか使えなくなったら、個人店は太刀打ちできません」

この流れはコロナ禍以降、急激に加速しているという。特殊な部材が手に入らなくなれば、「他店にできない修理」という強みが成り立たなくなる。仕入れのロットに対応できる規模に育てるためには、法人化は避けて通れない選択だった。

その決断を支えていたのは、仕入れの問題だけではない。村上さんのなかで、もっと根本的な転換が起きていた。

「村上塁という“個”で戦うことをやめて、ハドソン靴店という“チーム”で戦うことにシフトしたんです。この考えに基づいて経営を変えたことで、お客さまが増えていきました」

現在、チームは約10人にのぼる。うち村上さん以外の従業員は4人。黙々と靴に向き合う職人の岡田さん、60足以上の革靴を愛し店の哲学を言葉にする広報の横澤さんらが店を支え、YouTube制作、SNS運営、経理、税理士、社労士といった外部の専門家が脇を固めている。工房では村上さんと2〜3人の職人が修理に取り組み、別に借りた事務所や倉庫を拠点に他のメンバーが活動するという体制だ。

修理前。革底が剥離してしまっている(写真=ハドソン靴店提供)
修理後。デフォルトと同じ約5.0mm厚のイタリア革でオールソールを実施。合わせてヒール後傾のクセを補正しスタック革を巻き直して黒に染め上げた。つま先にはアンティーク調のトゥスチールを4枚、真鍮製のネジで固定(写真提供=ハドソン靴店)

■師匠の教え「常に頭を使って、生き残って稼げ」

きっかけは、師匠や知り合いの職人を病気や事故で失う経験が重なったことだった。どれほどの技巧をもっていても、その人間がいなくなれば技術は途絶える。「技術の継承」という言葉はよく使われるが、身体も感覚も異なる人間がまったく同じものを生み出すことはできない。その現実を、何度も目の当たりにしてきた。

もともと村上さんは、個の技術を極めることこそ職人の道だと考えていたそう。しかし師匠の佐藤さんや関さんから繰り返し言われていたのは、技術そのものではなく仕事に対するスタンスだった。

「技術をコピーすることは難しい。生まれた時代も違えば、求められる仕事の質も違う。その時代に求められる強い職人を目指せ。常に頭を使って、生き残って稼げ」

師匠の教えに立ち返り、導き出した新たな答えのひとつが、チームで戦うという選択だった。自分のビジョンを言葉や図表で可視化し、各ポジションの人間がそれぞれの力を発揮する体制をつくる。提供する技術は大きく変わっていなくても、考え方ひとつを変えたことでサービス全体の質が上がり、客は全国、そして世界へと広がっていった。

■「技術は手を動かせばうまくなる。商売はその先にある」

「普通は、まずいいものをつくって、職人を増やして、最後に事務の方を雇う。僕は逆です。先に外堀を全部固めてから、最後に職人を増やします」

社則は最新の労働基準に切り替え、福利厚生完備、出退勤は1分単位、残業なし、週休2日、有給は全消化。持続できる形に整えたうえで、最後のピースとして職人を迎え入れる。それが村上さんの考える生き残りの勝率を高める施策だ。

現在は店のそばにある一軒家を改装し、新たな工房の整備と後進育成の準備を進めている。他業種との連携も動きはじめた。山形県で約100年続く「山形よしだ桐箱店」と組み、靴用の桐箱を共同開発。原宿の老舗古着店とはYouTubeコラボレーションもはじまった。

写真提供=ハドソン靴店
シューズボックスのデザインは、横開き(横型)と縦開き(縦型)の2タイプ。靴のサイドシルエットを楽しみたい人は「横型」、正面の表情を楽しみたい人は「縦型」と、お気に入りの靴に合わせて選べる - 写真提供=ハドソン靴店

「今まで店を潰さないことに必死でした。やっと、その先に手が届くようになってきました」

取材の最後に、村上さんはこう語った。

「技術は、手を動かせばある程度うまくなります。でもそれだけじゃ商売にならない。商売は、技術の先にあるんです」

■だから「選ばれる店」になれた

ハドソン靴店が選ばれ続ける理由は、ひとつではない。他店が避ける高難易度の修理を引き受けることで独自の領域を築いたこと。一足に2〜3時間を費やす打ち合わせで客の想いをくみ取り、信頼を積み上げたこと。複数のプラットフォームを活用して店の存在を伝えていること。そして個の技術に頼る職人の世界から「チーム経営」へと舵を切り、持続可能な形を整えたこと。

師匠たちの姿から学んだ、時代に合わせて変えるべきものは変え、変えてはならないものは守るということ。その判断を重ねてきた15年間が、この店を「選ばれ続ける店」にした。

インタビュー中、村上さんは何度も「周りで支えてくれている方たち」と口にした。

ふたりの師匠からは技術だけでなく、職人として生き残るための哲学を学んだ。先代のおかみさんには、靴の仕事を続けるか迷っていたときに思いとどまるひと言をかけられた。現在のチームメンバーのなかには、一度は店を離れながらも再び村上さんのもとに戻ってきた人たちがいる。振り返ると、ハドソン靴店の転換点にはいつも、誰かの存在があったように思う。

淡々と穏やかに語る村上さんだが、その言葉の端々に、周囲への深い感謝がにじんでいた。靴に向き合うのと同じ視線で、人にも向き合っている。その姿勢こそが、「大切な一足をこの人に任せたい」と思わせる、いちばんの理由なのかもしれない。

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独自のアイデアで「選ばれ続ける店」を作り上げた村上さん - 筆者撮影

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山本 ヨウコ(やまもと・ようこ)
フリーライター
1978年生まれ、千葉県在住。人材業界での勤務を経て、2016年から地域情報誌の編集・ライターとして活動。2020年に独立。現在は生き方や働き方、キャリアに関するインタビュー記事を中心に、Webや雑誌、書籍、企業のオンドメディアなどで幅広く執筆中。誰かの行動のきっかけになるような記事を生み出すため、日々取材をおこなっている。
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(フリーライター 山本 ヨウコ)