あなたが港区界隈に住んでいるならば、きっと目にしたことがあるだろう。

透き通るような肌、絶妙にまとめられた巻き髪。エレガントな紺ワンピースに、華奢なハイヒール。

そんな装いの女たちが、まるで聖母のように微笑んで、幼稚園児の手を引く姿を。

これは特権階級が集う秘められた世界、「港区私立名門幼稚園」を舞台にした、女たちの闘いの物語である。

麻布十番在住の菱木悠理は、作家の夫・邦彦のたっての願いで、仕事を辞め、娘の理子を名門幼稚園に入れることになった。

しかし初日から、異世界に来てしまったことに気が付き、呆然とする。

そして麻布・白金グループのランチ会が、会員制の東京アメリカンクラブで催されることになり、政界名門妻・東郷綾子のエスコートでなんとか中に入る悠理だったが―。




「それでは、皆様、改めましてご入園おめでとうございます。これからよろしくお願いいたします」

元麻布在住の政界プリンス妻、東郷綾子の挨拶に、テラス席に座った8名の母親たちはお辞儀をする。

太陽光がふんだんに入る美しい空間でビュッフェを楽しんだあと、食後のコーヒーが運ばれてきた。

―東京アメリカンクラブ、凄いなあ。麻布の一等地にこの広さ、ラグジュアリーなプールやジム、ライブラリー…。入会金350万円も納得ね。もし私が会員なら毎日来ちゃう。

はじめは綾子に連れられて恐縮しきりだったものの、元来ミーハーなところがある悠理は、次第にテンションが上がってきた。

テラスの向こうには遊具がふんだんにあり、早々に食事を終えた子どもたちが遊ぶのを見守りながらお茶をできるのも嬉しい。

悠理の隣には、たびたびママモデルとして雑誌に登場する神崎葵が座っている。

「私、学生時代からずっと芸能界なので、こんなふうに大勢のお友達とランチした経験が少なくて。遅れてきた青春って感じで嬉しいです。主人もああ見えて外食が好きじゃなくて」

神崎葵は、テーブルを見渡すといかにも嬉しそうに笑った。

―彼女のご主人って、確か…。

悠理の脳裏に、ある有名人の顔が浮かんできた。


芸能人、有名人ぞろいの麻布妻。対してどう出る白金妻?


先輩ママから訓示された、脅威の「絶対ルール」


神崎葵の夫は有名なIT起業家で、時代の寵児ともてはやされる億万長者だ。たびたび夫婦でメディアに登場しているため、夫の恵比寿様のような顔まで思い浮かべることができる。

「南麻布に住んでいるので、今度有栖川公園で子どもたちを遊ばせましょうね。ああ、白金グループの方は少し遠いかな?」

葵が集団の左半分、白金グループの4名を見ると、一斉にゆるゆると首を振る。そのシンクロぶりに、悠理が見当違いな感心をしていると、一人がにっこりと応戦した。

「たしかに私たちの住む白金『台』から行くには、三光坂をずっと下って商店街も越えないと…でもご心配にはおよびません、車なら10分です。主人のクリニックも麻布方面なので」

彼女が「白金台」という単語を口にしたとき、『台』という部分だけを妙に強調したように聞こえた。

たしかに一括りに"白金"といっても、昔ながらの商店街を中心とした白金3丁目周辺と、高台でプラチナ通りに近い白金台1丁目は全く趣を異にする。

―つまりご主人はお医者さんで、白金というより白金『台』グループと呼んで欲しそう…?

そのとき悠理は、自分たちが「麻布」「白金」というエリアごとに、真っ二つに分かれて座っていることに今更気が付いたのだった。

元麻布の政界プリンス妻東郷綾子、南麻布のモデルで長者妻神崎葵、十番に住む悠理。そして麻布グループの最後の一人は、さっきから一言も発しない、女優の藍沢美紀だ。

「藍沢さんは西麻布でいらっしゃいますよね?幼稚園お休みされるときは、近隣でお荷物やお手紙を預けあうようにとのことでした。よろしくお願いします」

綾子が白金妻の言葉をスルーして、どこか遠くを見ている藍沢美紀に話しかける。

美紀は、すうっと首をこちらに傾け、綾子を見た。その動きだけで、全員がはっと息をのむほどに美しい。




「…そろそろ仕事に出なくては。息子はまだまだ遊びたそうなので、シッターを置いていきます」

あっけにとられる一同を尻目に、美紀はさっと立ち上がると、ウエイターを呼んで全員の支払いを自身の会員ナンバーにつけるように言い添えてサインをした。

「お近づきのしるしに。お先に失礼してごめんなさいね」と微笑むと、テラスで遊ぶ息子に声をかけ、去っていく。

「…さすがに、お仕事してらっしゃるから、お忙しいわね」

綾子は多少面白くなさそうな顔でつぶやくと、軽く咳払いをして残りの母親たちの顔を見た。

「ご存知の通り、私は上の娘が年長に在籍しております。今日は、少しばかり先輩として、この園における『鉄の不文律』を皆様にお伝えしておこうと思います」

―鉄!?

悠理はその不穏な響きに驚いて綾子の顔を見た。

綾子の言葉に、全員がバッグから手帳を取り出す。まるで今日はそのために集まったと言わんばかりではないか。

―な、なにが始まるの…?


超名門幼稚園、驚異の「七つのお約束」とは?


小さな世界の、「絶対のお約束」


悠理も慌てて手帳を引っ張り出す。

綾子は「申し上げます」と言ったあとで皆を見回すと、自身の手帳に挟んである1枚のカードを、声に出して読み始めた。



その一、ご挨拶は常にごきげんよう。園外でも在園生や卒業生、先生をお見掛けしたらすぐにご自身からご挨拶を。

その二、母親としてふさわしい装いを。遠足や運動会を含めた一切の行事には紺の衣装で臨むこと。

その三、すべての行事はもちろん、毎月の保護者会には必ず出席のこと。当園では運動会などもすべて平日に催されますが、万障繰り合わせて両親で参加のこと。

その四、年少さんのお母さまは朝、『ドライブスルー当番』があります。車寄せに立って、園児が送迎の車から降りるのをサポートしてください。雨天時は傘をさしてお教室までお送りします。降園時も同様。

その五、幼稚園への欠席の連絡、母親同士の伝言などには便箋使用のこと。皆様、入園試験の時に提出された身上書と同様に鳩居堂を使用されます。常備のこと。

その六、常に新札と小銭を用意し、急な集金にも園や役員の方に決してご迷惑をかけないこと。ポチ袋も無論、鳩居堂。

その七、園に下のお子さんを連れていらっしゃるのは禁止。保護者会や行事の際はベビーシッターなどを利用のこと。



綾子は一息に読み上げると、一同を見回し、にっこりと微笑んだ。

「まだまだありますが、以上のルールは明日からすぐに実践してください」

「…あの、すみません、こういうお約束って、皆さん本当に守られてるんでしょうか?」

悠理はおずおずと切り出した。

理子を生後半年で保育園に預け復職した悠理は、公園や児童館でいわゆるママ友と時間を過ごす余裕がなく、『母界』における呼吸がいま一つ飲み込めていない。

てっきり皆同じように感じているものと思ったが、どうやら他の母親はこの掟を受け入れ、ともすれば誇りにさえ思っているような気配である。

その証拠に、全員が悠理を白い目で見ていた。

「菱木さん。お言葉ですけれど、私たちの幼稚園を普通の幼稚園と一緒にされては困ります。伝統やOB、周囲の目というものもありますし、何より子どもを守るためです」

綾子の怒りを含んだもの言いは、言ってはならないことを口にしたのだと悠理に気づかせた。

子どもを守るため、という言葉はどうも納得できないが、それを言い募るにはあまりにも悠理の園に対する理解が浅かった。噛みしめた唇が痛い。

「まあまあ綾子さん。菱木さんはまだ園になじんでいらっしゃらないだけじゃないかしら。そうだ!菱木さん、役員をなさってみれば?接点が多ければ、すぐに馴染めるでしょ?」

神崎葵が、キュートな笑顔で助け舟を出したかと思えば、とんでもないことを言い出して、悠理はぎょっとする。




「役員なんて…私、この通り不勉強で、幼稚園でのマナーさえよくわかってないんです」

悠理は力いっぱい首を横に振るが、葵の発言で、それまで冷ややかだった雰囲気が一転、和やかで友好的に変化した。

「それはいい考え!役員になれば毎週のように通って、子どもの様子も見られるチャンスがいっぱいだし、園でお友達もできて楽しいはず」

今にハグの一つもされそうなムードに、悠理は単純にほっとして、気が緩むのを感じた。

―ま、まあ確かに、仕事辞めちゃって暇だし…理子の園での様子がたくさん見られるのは、いいかも…。

その一瞬の迷いを、彼女たちは見逃さなかった。賛成の拍手喝采である。

後には引けず、悠理はやけくそ半分で、腹をくくって宣言した。

「…わかりました。私でお役に立てるのであれば、勉強させていただきます!」

その言葉を待ち構えていたかのように、綾子が高らかに宣言する。

「それでは明日、麻布・白金グループからは菱木さんに決まったと先生にお伝えしましょう。…そうそう、もうひとつお約束があったのをうっかり忘れておりましたわ。

八つ目のお約束は『先生には極力ご迷惑をおかけせず、行事関連で何かあればすべて役員が収める』でした。まずは来月の運動会、菱木さんのお手並み拝見ですわね」

―役員が、すべて収める運動会!?

悠理は、なおも笑顔で拍手を続ける母親たちを見ながら、額に冷や汗が浮かんでくるのを感じていた。

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名門幼稚園の運動会は何もかもが衝撃的!悠理、さっそく大ピンチ!?