15歳でバツ2だって!?「マムシの娘」濃姫が織田信長に嫁ぐまでの結婚歴を紹介

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戦国乱世を駆け抜けて「天下布武」の覇業を推し進めた風雲児・織田信長(おだ のぶなが)。

信長の正室と言えば「マムシの娘」と呼ばれた濃姫(のうひめ。美濃国の大名・斎藤道三の娘)が有名ですが、実は彼女、信長との結婚が最初ではありませんでした。

信長に嫁いだ時点で15歳だった濃姫は、いったいどんな男性歴を歩んできたのか、今回紹介したいと思います。

一人目の夫・土岐八郎頼香

濃姫の生年については諸説ありますが、ここでは『美濃国諸旧記』の天文四1535年説を採用。また、濃姫という呼称は「美濃の国の姫」という程度の意味で、本名は不明(帰蝶、胡蝶は創作)のため、便宜上「濃姫」で統一します。

「美濃のマムシ」斎藤道三。Wikipediaより。

その父親はご存じ「美濃のマムシ」こと斎藤道三(さいとう どうさん)。この時点では長井新九郎規秀(ながい しんくろうのりひで)と名乗っていましたが、こちらも便宜上「道三」で統一します。当時40歳。

道三は後に守護大名・土岐(とき)氏を追放して美濃国(現:岐阜県南部)を乗っ取るのですが、その野望を果たすため、まずは濃姫を土岐氏の一門である土岐八郎頼香(とき はちろうよりたか)に嫁がせました。

娘をいわば人質に差し出すことで忠誠心を示した道三ですが、天文十三1544年9月、尾張国(現:愛知県西部)の織田信秀(おだ のぶひで。信長の父)との戦いにおいて、どさくさに紛れて頼香に刺客を差し向け、自刃に追い込んでしまいます。

頼香暗殺の真相は部外秘とされたため、道三は表向き土岐氏との姻戚関係を保ったまま、有力なライバルを一人消し去ることに成功しました。

こうして濃姫は10歳という幼さで夫を失う悲劇に直面するのですが、その黒幕がまさか自分の父親であるとは、このとき思いもしなかったことでしょう。

二人目の夫・土岐次郎頼純

夫を失い、悲しみにくれていた濃姫ですが、娘の涙ごときに心を痛めるようでは「マムシの道三」とは言えません。

二番目の夫・土岐頼純。Wikipediaより。

天文十五1546年9月、政敵を追放した道三は土岐次郎頼純(とき じろうよりずみ。頼香の甥)を守護職に就けて傀儡(かいらい。操り人形)とし、濃姫を嫁がせることで美濃国の支配権を掌握しました。

濃姫は12歳になっており、そろそろ成人(当時の成人は13〜15歳ごろ)を迎える多感な時期にあって、その胸中は複雑きわまるものだったと察せられます。

しかしそのままめでたしめでたしとはならず、結婚から一年ほどが過ぎた天文十六1547年11月17日、頼純が急死してしまいました。

直接の死因は不明ですが、美濃国守護として自立(傀儡からの脱却)を目指したことを疎ましく思った道三に暗殺されたものと見られています。享年24歳。

頼香よりも年齢が近かったと推測され、また濃姫の方にも女性としての自我が確立しつつある時期とあって、又しても夫を失った悲しみは、頼香の時以上だったことでしょう。

信長の元へ嫁ぐことになる、2年前のことでした。

終わりに

(……しょせん私は、父にとって野望を遂げる謀略の道具に過ぎない)

相次ぐ夫の死を直面し、濃姫がそう悟ったかどうかはわかりませんが、いくら戦国乱世とは言え、傷心の娘さえ「政略の道具」として徹底的に使い倒す道三の「マムシっぷり(ゲスぶり)」には改めて驚かされるばかりです。

とかく「マムシの娘」として愛情の薄い女性に描かれがちな濃姫ですが、こんな過去を知らされたら「そりゃ冷たくもなるわ」と納得、むしろ同情すら禁じえません。

信長の雄姿を見つめる濃姫の像。その胸中やいかに。

(どうせ今度の夫・信長も、父に殺されてしまうのでしょうし……)

そうならなかったのは幸か不幸か、信長からどのように扱われたのか不明な濃姫ですが、せめてあの世では存分に愛されて欲しいと思います。

※参考文献:
岡田正人『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999年9月3日 初版
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018年10月5日 4版