元女子ソフトボール日本代表監督・宇津木妙子

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 2020年東京五輪で3大会ぶりに女子ソフトボールが正式種目となる。今ではすっかりお家芸の競技となったが、独自の指導法でナショナルチームの礎を築いたのが宇津木妙子氏である。実業団で監督を務めながら1996年のアトランタ五輪から首脳陣としてチームに関わり、監督として臨んだ00年シドニーでは銀、04年アテネでは銅メダルに導いた。指導した選手たちは08年の北京で監督や主力選手となって圧倒的な強さを誇るアメリカを決勝で破り、悲願の金メダルを獲得。その組織運営と育成手法は多方面で関心を集めた。現在は競技団体の要職や全国各地での講演などを精力的にこなし、後進の育成とソフトボールの発展に力を注ぐ。自身の体験に基づいた指導方法や指導者のあるべき姿について聞いた。

監督は社長であり、用務員である
 ─スポーツの女性監督として代表的な存在です。
 宇津木「私はもともと指導者を目指してきたわけではありませんでした。ユニチカ垂井(岐阜県不破郡垂井町)で実業団選手としてプレーし、31歳で引退後、埼玉の実家に戻って母校の星野女子高校(埼玉県川越市)でソフトボール部の指導を手伝っていたときに、日立製作所高崎工場(日立高崎)から“12月のシーズンオフの時期だけでよいからトレーニングコーチをやってほしい”と依頼されました。当時の監督がやめることになったそうです。「正式な監督が決まるまで」という条件で指導を引き受けましたが、翌年には、私が正式な監督になり、指導者としてキャリアが始まったのです」

 ─当時、女性の監督はいたのでしょうか。
 宇津木「いなかったと思います。しかし、選手たちは懸命に私の指導についてきてくれました。シーズンオフ時のコーチとして関わり始めて1カ月が経った年末に、日立高崎の工場長から正式な監督の要請をうけました。いったん、返事は保留したのですが、翌日から総務課長が私の実家や行く先々に電話をかけてきました。高校時代の恩師に相談すると「男性社会のなかに飛び込んで厳しい思いをすることはない」と断るように促されました」

 ─それでも監督を引き受けたのはなぜですか。
 宇津木「日立高崎の指導に関わって選手の変化を見るうち、人を育てることの興味が強くなりました。そこで父親にも相談すると、やはり断るように言われました。ですが、自分がソフトボールを通じて学んだこと、苦労してきたことを真剣に伝えました。すると父から「指導者やリーダーは物事の決定権がある社長でもあり、雑用もこなす用務員でなければならない。両方の立場で責任を果たす覚悟はあるのか」と言われました」

 ─そこでどのように答えたのですか。
 宇津木「私は覚悟を持って「はい」と答えました。ユニチカ時代は総務部員として、トイレ掃除を含め、雑用はなんでも行って、働くことの厳しさを学びました。寮母として新入社員の精神的なケアやほかの寮生とも仲良く助け合ってきました。ソフトボールを通じては先輩の食事の給仕や道具の手入れなど厳しい上下関係で鍛えられました。こうした自分のキャリアを指導者として活かす挑戦をしたいと強く思いました。このことを父に伝えると「そこまで言うのならやってみなさい。ただし、必ず結果も出しなさい」と認めてくれました」

強くて愛されるチームをつくる
 ─指導の核にしてきたことはどんなことですか。
宇津木 強くて愛されるチームを基本方針に掲げました。そのために選手の意識改革に取り組みました。寮の食堂に「挨拶・時間厳守・整理整頓」と書いた模造紙を貼り、食事の前に唱和し、意識づけを行いました。ソフトボール部を快く思わない人もいます。1人でも多くの理解者をつくり、応援してもらわなければ活動は安泰ではないのです。実業団スポーツの難しさです。選手には7時半に出社して大きな声であいさつし、机の上を掃除するように命じました。勤務中はコピー取りなどできることを精一杯させました」