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■罰則は「6カ月以下の懲役又は30万円以下の罰金」

女性新入社員を自殺に追い込んだ広告会社電通の過労死事件。亡くなった高橋まつりさん(当時24歳)は月100時間を超える時間外労働を強いられたうえ、上司からパワハラまがいの暴言を受けていたことをSNSで発信していた。

電通といえば1991年に入社2年目の男性が過労自殺し、最高裁の判決で初めて会社の安全配慮義務違反を認め、多額の損害賠償を支払った“前科”を持つ。

前回は民事訴訟であったが、今回の2度目の自殺ということで厚生労働省の「過重労働撲滅特別対策班」(通称かとく)が立ち入り調査(臨検)に入る事態に発展している。

刑事事件として立件するには、労働基準法36条に基づく労使による36(サブロク)協定を超えて違法な長時間労働が常態化していたかどうかが焦点になる。

36協定の残業の限度時間は1週間15時間、1カ月45時間、1年間360時間だ。それを超えて働かせる場合は特別延長時間に関する「特別条項付36協定」を結ぶ必要がある。

この協定を結べば従業員を半ば無制限に働かせることができ、日本の長時間労働の温床ともいえるものだ。

それはともかく、協定による電通の特別延長時間は新聞報道によると、月70時間時間に設定していたらしい。月70時間といえば年間では単純に840時間の時間外労働が許容されていたことになる。

代理人弁護士によると、電通はこの70時間を死守するために「労働時間集計表」に過小申告するように指導していた。亡くなった高橋さんも昨年10月は「69.9時間」、11月は「69.5時間」と記載していた。

しかし、実際の残業時間は100時間を超えていた。こうした実態が高橋さんに限らず、他の社員にも及んでいたとなれば36協定違反で上司などの責任者を逮捕し、送検することが可能になる。

とはいえ、罰則は「6カ月以下の懲役又は30万円以下の罰金」(労基法32条)にすぎない。時間外労働の許容量が大きいうえに、違反してもこの程度の大甘な罰則では長時間労働の抑止につながるとは思えない。

■月100時間超の残業などなんとも思わない御仁

にもかかわらず、世の中には月間100時間超の残業などなんとも思わない御仁もいるらしい。

武蔵野大学の長谷川秀夫教授がニュースサイトにこの件に関して投稿したコメントが世間の顰蹙を買った。翌日に削除されたが、彼はこう述べていた。

<月当たり残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を続けるべき>

一見、今は1970年代のモーレツサラリーマンの時代かと思えるほど時代錯誤も甚だしいコメントだ。しかも日本の残業時間が以下のようにEU諸国はもとよりアメリカと比較しても突出していることを考えれば、長谷川教授の意見は完全なに的外れだろう。

ILOの報告では週49時間以上働いている労働者の割合はEU諸国が11%台、アメリカが15.4%であるが、日本は23.1%とダントツに高い。

長谷川教授はグローバル学部グローバルビジネス学科の教授であるが、日本の労働時間はグローバル標準を逸脱している。かつて日本の長時間労働が諸外国から「非関税障壁」だと批判されたこともある。

「残業時間は関係ない」と言うのはグローバルビジネス感覚としてもおかしいだろう。

長谷川氏はかつて東芝に勤務したことがある。自身の体験に照らしてキャリア開発の観点から言ったのであろうが、これもかなりピントが外れている。

コメントで「自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識」「プロ意識」と言っているが、そもそも高橋さんは入社1年目であり、仕事のプロではないし、プロ意識など持ちようもない。

■プロに育てるOJTが電通では崩壊?

一般的に新入社員は入社後の研修後に職場に配属され、OJT(職場内教育訓練)による実務研修と座学などを通じて仕事の基礎を学びながら仕事のプロフェッショナルになるための経験を積んでいくものだ。

大手企業の多くは入社5年目でセミプロ、10年目で一人前のプロフェッショナルになるような育成計画を整えている。つまり、順当にいけば32歳で高い専門性を持つプロになり、初めてプロの自覚と意識も生まれる。

そのときに労働市場でも通用する専門性でがあれば、外資系企業など他社に転職し、キャリアアップを図る人も出てくるだろう。

長谷川氏が入社1年目の社員にプロ意識を持てとか、転職を考えるべきとか言うのは無理な話であり、まさにピントが外れていると言わざるを得ない。

それよりも問題にすべきは、プロに育てるための基本であるOJTが電通では崩壊していたのではないかという疑いである。

一般的にOJTに際しては、管理職以外に職場の先輩や主任・係長クラスを仕事の指導役に命じるケースが少なくない。仕事に関する疑問への対応や仕事の進め方をサポートし、場合によってはプライベートでの悩みも聞きながら、仕事の能力が着実に伸びるようにフォローするのが指導役の職務だ。

だが、近年はこのOJTが形骸化している。

とくに広告代理店は従来のテレビや紙媒体からインターネット広告などにシフトし、業務も複雑化してきているため、管理職世代は知識・技能の面で指導できない状況も生まれていると聞く。

その結果、他の大手広告代理店は中堅社員とは別に若手の社員を指導役に任命するなど、2人体制でOJTの改善に努めている。

■「もう体も心もズタズタだ」

では電通はどうなのであろうか。高橋さんはSNSでこう発信していた。

「休日返上で作った資料をボロくそに言われた。もう体も心もズタズタだ」(10月13日)

「はたらきたくない。1日の睡眠時間2時間はレベル高すぎる」(12月9日)

「死にたいと思いながらこんなストレスフルな毎日を乗り越えた先に何が残るんだろうか」(12月16日)

これらを読むかぎり彼女は社内で孤立していたのではないかと思われ、OJTの指導役の存在をうかがいしることもできない。仮にボロクソに言った社員が指導役であるとすれば、完全にその職務を放棄しているだろう。

ましてや入社1〜2年目の大事な成長期に「睡眠時間2時間」では能力開発どころではないだろう。指導役失格どころか、電通全体のOJTが機能不全に陥っているのではないかと疑いたくなる。

仕事のプロ、広告のプロを夢見て入社したであろう高橋さんがプロになる前に遂げた非業の死は、一方で電通の人材育成戦略の失敗を露呈したといえるだろう。

(溝上憲文=文)