〈元TBSアナが「被爆体験伝承者」に〉長峰由紀さんが81年前の広島を語り継ぐ理由「これは昔話ではありません」
今年も間もなくその時間になる。81年前の1945(昭和20)年8月6日。午前8時15分。人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下された。被爆者の多くが亡くなり、高齢化が進み、被爆体験を直接話せる方は少なくなった。そんな中、広島市は被爆者の体験や平和への思いを受け継ぎ、伝えていく「被爆体験伝承者」を2012年から養成している。約2年の研修を経て、被爆体験伝承者に認定され、広島平和記念資料館ほか全国で講話活動に取り組む一人に、元TBSアナウンサーの長峰由紀さんがいる。被爆の実相や平和への思いを、戦争を体験していない世代、人間として、これからの人にどう伝えていくのか。長峰さんに話を聞いた。
埼玉県で生まれ育った長峰さんが伝承者になった理由
原爆が投下された広島市では、その年の12月末までに14万人が亡くなったとされる。
2025年8月6日現在で広島市の原爆死没者名簿に記載されている方は34万9,246名(広島市HPによる)。同年3月末現在で生存されている全国の被爆者(被爆者健康手帳所持者)は91,105名、平均年齢は86.66歳(厚生労働省HPによる)。
被爆者本人から体験を聞ける時間が残り少なくなる今、広島市の被爆体験伝承者に認定されている人は約300人。伝承者としての活動は原則ボランティアだ。
埼玉県で生まれ育ち、現在は東京在住の長峰さんがなぜ伝承者になったのか。
長峰「1963年生まれの私は、子どもの頃から戦争の話をよく聞いて育ちました。1927年に生まれ、18歳で熊本で終戦を迎えた父は、長崎で勤労動員されていましたが、原爆が投下された日はたまたま熊本に帰っていて難を逃れた。その罪悪感もあったようですし、子どもの私に『戦争責任』という言葉すら語っていたほどでした。
1931年に水戸で生まれた母は『戦争中はとにかくお腹が空いていた』『あの頃と比べればへっちゃら』が口癖で、95歳の今でも『そんなに無理して食べなくても』と思うぐらい、食事は絶対残さない。自分の一番身近な存在である両親をそんな目に遭わせた戦争というものを、私は子ども心に憎いとすら思った。それが原点にありますね」
そんな原点を持つ少女は、成長していく中で、戦争を語る人が目の前に次々に現れるように感じたという。
長峰「小学生の時は、先生がある時『原爆を許すまじ』という歌を歌ってくれました。2番の歌詞まで真剣に歌う先生に、児童はびっくりしていましたが、今でも記憶に強烈に残っている一場面です。
中学になると英語の先生が『花はどこへ行った』の英語の歌詞を書いた手製のプリントを配って生徒に歌わせてくれました。世界的に有名な反戦歌ですが、プリントには手描きのイラストもあり、お墓にたくさんの花が手向けられていた絵がすごく印象に残っています。
高校3年の時には日本史の先生が最後の授業に、カセットデッキを持ち込んで、ジョン・レノンの『イマジン』を聴かせてくれました。
私は女子高だったのですが、先生が最後に『女性であろうと男性であろうと、あなた方は自分の人生を自分で選んで生きていきなさい。でもそれをさせてくれないのが戦争なんです。だから戦争は絶対駄目なんです』と言ったんですね。その時私は、そうか、戦争とは自由を奪っていくものなんだなと思いました」
ひとりの被爆者との出会い
そんな10代を送った長峰さんは大学卒業後、TBSにアナウンサーとして就職。仕事をする中でも、多くの人が戦争について教えてくれたという。
長峰「特に永六輔さんです。『永六輔 その新世界』というラジオ番組で、私はアシスタントとして5年間ご一緒したのですが、永さんは12歳で終戦を迎えられた。
『疎開から帰ってきたら友達が亡くなって、家が焼けていた』と泣きながら話してくれました。そういう永さんだからでしょうね、ゲストにも戦争体験者が多く、皆さんの『戦争をしてはいけない』というメッセージ、言葉がどんどん心に積もっていきました」
そして約4年前。60歳定年を前に「これからどう生きていこうか」と考えた長峰さん。戦争に関する多くのメッセージをもらってきた自分は、もらいっ放しでいいのか。いや、次の世代に伝えなきゃいけない。と思ったものの、戦争について断片的な知識しか持たない自分。
今のままでは伝えられない。系統立てて学ぶ方法はないだろうかと調べるうちに、広島市の伝承事業を知った。長峰さんは定年退職の1年前に申込み、アナウンサーの仕事を続けながら、夏休みなど休日を利用して広島にまず1年目の研修に通ったという。
長峰「子どもの頃からの戦争に対する疑問、怒りが私の中にあって、広島の制度に辿り着いたんですね。実際に広島に行って、恥ずかしいことですが、それまで知識の浅かった核兵器について一から学ぶことができました」
清水弘士さんの言葉と思いを伝承する
広島市の研修では、被爆の実相、核兵器を巡る世界情勢、広島の歴史、戦時下の暮らしについての講義を受けた。その最後に、9人の被爆者の証言を聞く時間が設けられていた。証言を聞いた上で、どの方の被爆体験を伝承したいかという希望を出し、決まれば次の1年間は一人の被爆者から学ぶ研修期間となる。
証言を聞く中でとりわけ感銘を受けたのは、清水弘士さんの話だった。
清水さんは1942年生まれ。原爆投下の時は3歳で、広島市の爆心地から1.6キロの地点にある、吉島町という場所で暮らしていた。両親と10歳上の兄の4人家族だった。長峰さんを含む、その日の50人ほどの受講者に清水さんは言った。
「被爆体験の伝承というのは、8月6日の体験を語るだけではありません」
清水さんは、1時間の話の中で、核兵器が一生、人を苦しめることや戦争の背景についても詳しく話してくれたという。
長峰「清水さんは『日本が侵略によって戦争を始めたことや、広島が軍都だったこと、その歴史を忘れてはいけない』と言いました。『国はどうやって国民を戦争に巻き込んでいったのか、大人たちはなぜ戦争に反対できなかったのか。歴史を知って学んでください。』と。
そして『同じことが繰り返されようとしていないか、今の世の中を見極める目を持って伝えてください。戦争で犠牲になるのはあなたたちなのですから』と。
自分の味わった苦しみを、次の世代には味わわせたくないという強い思い。普通の市民や弱い立場の人を巻き込んでいった戦争、権力者への怒りが根底に流れているお話に深く感銘を受けて、ぜひ清水さんの伝承をしたいと熱望し、結果的に受け入れてもらいました」
講和で必ず伝える「空白の10年」
こうして清水弘士さんの体験と思いを中心に、独自の原稿を書き、スライドを用意して、2024年から伝承活動をするようになった長峰さん。
「子どもの頃から周りの人たちが戦争の話をしてくれて、広島で清水さんに出会い、戦争によってもたらされた核兵器の本当の恐ろしさを深く学ばせてもらった。振り返るとまるで、全部繋がっている一本の道のように感じています」
そう話す長峰さんの講話は、胸に迫る言葉で満ちている。
中でも長峰さんが必ず伝えるのは、清水さんがぜひ知ってほしいと切望し、自身の証言でも語っていた「空白の10年」についてだ。
空白の10年とは、広島と長崎の被爆者が行政から支援もなく、お金がないために病院にも行けず、差別と偏見に苦しんだ時間を指す。
原因は戦後日本を占領したGHQが1945年に「プレス・コード」という規則をつくり、報道や出版を取り締まったことにある。新聞や出版物が検閲され、原爆の悲惨さ、放射線の後遺症などの事実が隠蔽され、原爆被害によって苦しむ被爆者は存在しないことにされてしまった。
日本政府も、被災した人に治療や食事を無料で支給する法律を規定通り2か月で打ち切った。広島に53か所あった救護所は全て閉鎖、被爆者は治療や生活の支援を受ける道を閉ざされてしまった。
原爆の詳しい情報がない中、被爆者は差別や偏見に苦しんだのだ。原爆投下から7年後の1952年、日本がサンフランシスコ平和条約によって占領状態から独立すると、「プレス・コード」も廃止される。
そして1954年、ビキニ環礁でのアメリカの核実験によって第五福竜丸などが被爆し、初めて日本の人々が核兵器の被害を実感することになる。
その後、のちにノーベル平和賞を受賞することになる日本被団協が結成され、1957年には原爆医療法の実現により、国の費用で被爆者の治療と健康診断が行われるようになった。
原爆投下から12年もの間、公的支援を受けられなかった清水さんは、被爆で亡くなったお父さんに代わって闇市で生活を支えたお母さん、お兄さんと共に、原爆症と貧困に苦しみながらも、なんとか生き延びたという。
空白の10年は、国の指導者が戦争を形式上終わらせても、被害者にとっての戦争は終わらないことを示している。清水さんは「あの悲惨な歴史を二度と繰り返さないように、未来への教訓を伝えることが最後の仕事だ」と言っていたという。
『これは昔話ではない。今、考えてほしいことなのです」
そんな清水さんは残念ながら昨年7月、83歳で亡くなった。亡くなる2週間前まで、最後の力を振り絞り、修学旅行生に被爆体験を語り聞かせていた。
今、長峰さんは広島平和記念資料館や、主に関東地方の学校などに派遣され、伝承者として清水さんの言葉を語り継ぐ。
中学校での活動が多い長峰さんは「戦争のこと、原爆のことをよく知らない人、特に子どもに伝えたいと思っています。私が大人たちに伝えてもらったように」と話す。
嬉しかった体験の一つとして、東京都内の中学校で講話をした後、生徒の感想文をまとめた手作りの文集が送られてきたことがあったという。
長峰「一人の生徒さんが『清水さんは苦しいことだらけだったから、天国でゆっくり休んでください』と書いてくれたのを読んだ時、とっても嬉しかった。清水さんを生身の人間として捉えてくれたからこその感想ですよね。
自分と同じ人間がこれほどの目に遭った、人生を狂わされたということを伝えるのが、私たちの役割なんだと気づきました。だから私は、清水さんの人生を丁寧に伝えるように努めています」
長峰さんは毎回、伝承講話をこんな風に締め括る。
「『核兵器をなくしていく力はどこにあるかといえば、政治の指導者ではなく、私たち一人一人の民衆の力。私たちが声を上げて世界中の人と手をつなぎ、その声を大きな塊にしていくことによって、初めて変化が起きるのではないか』。清水さんはそう信じていました」
「清水さんは、『今が本当に平和なのか、よく考えてほしい』といつも言っていました。世界のどこかで戦争は続き、国の指導者は核兵器に頼っています。
皆さん、世の中の動きに敏感になってください。あふれる情報をただ信じ込むのではなく、いろいろな人と話し、自分で調べて、自分の頭で考えてください。そしておかしいと思ったら、ぜひ声を上げてください。
清水さんが被爆体験を伝える時、必ず言っていたのは、次の言葉でした。『これは昔話ではありません。今、考えてほしいことなのです』」
文/中島早苗

