FW並のスプリントを繰り返し、鮮やかなパスで上田のゴールを演出。川崎戦の荒木は、天才が生きていく道を示唆する活躍を見せた。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト編集部)

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 等々力陸上競技場で荒木遼太郎の疾走ぶりに目を奪われていた。13番をつけていても、荒木に託された役割は10番に近い。だが同じように高校を卒業して間もない小野伸二が華麗なテクニックで違いを見せつけていた頃と比べると、そのハードワークぶりには隔世の感がある。

 荒木を天才と呼ぶべきかは、後世の判断に委ねることになるだろう。しかし十代で鹿島のエース級になる選手が、成長過程で天才と呼ばれなかったはずがない。

 その昔、お山の大将と言えば、我儘の象徴だった。攻撃の才が傑出していれば、不得意な守備には目を瞑ってもらえる傾向があった。

 実際リオネル・メッシは、そのまま大人になり、他の9人が一斉に守備へと切り替えている時でも堂々とピッチを闊歩している。かつてアマチュア末期に、日本代表がワールドカップへの初出場を賭けて韓国との決戦に臨んだことがある。先にプロが出来た韓国は、当時明らかに格上だった。そこでボランチの宮内聡は、10番の木村和司に「もう少し守備を」と頼もうとした。だが「そこはお前がカバーしてくれ」と機先を制され「分かりました」と頷くしかなかった。
 

 ところが荒木は、相手のCBにプレッシャーをかけたかと思えば、川崎が自分のサイドからカウンターに出れば必死の形相で戻って来る。どちらも掛け値なしの全速力だ。

 プロだから仕事や役割だと割り切ってしまえばそれまでだが、チーム屈指の芸術肌が守備のためにフルスプリントするのは、なかなか出来ることではない。しかもそれでいてボールを受けた時のプレーの質もまったく落ちない。終わってみれば荒木の走行距離はチームトップの12275メートル。スプリントも22回を記録した。

 鹿島で荒木に次いでよく走ったのがレオ・シルバで、こちらは12081メートル。だがスプリントは14回なので、負荷はだいぶ違う。荒木はFW並のスプリントを繰り返し、対戦相手の川崎で最もスプリント回数が多い山根視来の仕掛けに対応しながら、わずかな隙を突いて上田綺世のゴールを導いたことになる。まさに攻守が途切れない新時代に、天才が生きていく道を示唆するようなプレーぶりだったーー。

 
 天才という響きは、短命=儚さを想起させる。しかし世界的に天才の夭逝は、事故や薬物などの影響を受けたロック・ミュージシャンを初めとする芸術畑に多く、日本では不治の病とともに減少傾向にある。

 サッカー界で周知の天才の早逝となると、直近でも1958年のマンチェスター・ユナイテッドの航空機事故まで遡る。当時、イングランド随一の有望株だったダンカン・エドワーズも、生きていればもう84歳だ。

 一方で生命そのものではなく現役生活に視点を変えても、儚くて惜しまれた天才の引退例は、それほど脳裏から浮かび上がっては来ない。最も惜しまれたのは、バロンドールを3度獲得したマルコ・ファン・バステンの29歳での引退で、ラストゲームがチャンピオンズカップ(現行のチャンピオンズ・リーグ)決勝だったという事実が悲哀を帯びている。偉大なストライカーは、度重なるファウルの餌食となりついにヒザが悲鳴を挙げた。

 こうしてファン・バステンやディエゴ・マラドーナら非凡な才が悪質なファウルに痛めつけられる状況を背景に「フェアプレー・プリーズ」を謳い文句とした90年イタリア・ワールドカップでは、カードが急増するのだった。

 天才の大敵は故障と自己管理だ。どうしてもスタンドを魅了する芸術家は、対戦相手の最大の標的になる。また遊びの中で育って来た奔放な天才たちは、生活の急変にコントロール不能に陥りがちだ。 ワールドカップを2度制した天才肌のドリブラーだったガリンシャは、アルコール依存症から身体を壊し49歳で早逝。2002年日韓ワールドカップで得点王に輝いたロナウドも、故障が相次ぎ三十路を前に肉がつき始めた。そしてマラドーナが薬物に手を出すようになったことも周知の事実だ。