ナイフで切りつけ現金を奪ったのは「現役の日大職員」…《“逮捕時の言葉”が流行語になった》「ヤンチャカップル」の正体(昭和25年の事件)〉から続く

 日大の現役職員(19)が同僚を切りつけ給料を奪った「日大ギャング事件」。年下の恋人と逃亡するも、逮捕時に「オー・ミステーク」と叫んだあまりにあっけない結末は、同年の流行語になるほど世間を騒がせた。

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 あれから数年――。判決時に「彼を待ちます」と健気に言い放った令嬢の恋人は、服役する彼を本当に待ち続けたのか? 一方、刑務所を出た男が歩んだ予想外の人生とは。戦後日本を揺るがした“カップル”の驚きのその後を描く。

 鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)


写真はイメージ ©getty

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日大襲撃の犯人は「臨時職員の19歳男性」

 山際は事件前年の1949年2月に日大に臨時職員として雇われ、7月に運転免許を取得し輸送課に移籍。毎月22日に職員の給料を富士銀行と千代田銀行に下ろしに行くことや、車の通るコースや金額も熟知していたことから所轄の丸の内署は計画的犯行と断定し、強盗傷害の容疑で山際の行方を追う。

 ほどなく山際が奪ったダットサンが大手町の富士銀行前で発見された。後の供述によれば、山際はこの後、タクシーで品川駅まで行き、国電に乗り換え有楽町駅へ。映画を観てから洋服や下着類を購入。

 夜になって、銀座7丁目の喫茶店で化粧品店に勤務する恋人の藤本佐文(同18歳)と落ち合う。彼女は日大文学部の藤本藤次郎教授(同60歳)の娘で、いわゆる令嬢だったが、夜な夜なダンスクラブに出入りする「アプレ族」を象徴するようなプレイボーイ気取りの山際と付き合い始めたころから不良性を発揮するようになったそうだ。

 犯行当夜、2人は目黒駅前の旅館で一泊。翌日、山際はGHQの職員2世とその妻と称して品川区大井の会社員宅を間借りする契約をし、高飛びする計画を立てていた。

 が、事件から2日後の9月24日昼間、間借り先の夫婦と酒盛りをしていた際、大家の妻が肩鞄やボストンバッグに千円札や百円札が剥き出しになっていること、山際の左腕に「ジョージ」と入れ墨が入っていることや彼の会話に英語が混じっていることを不審に感じ警察に通報。

 16時ごろ、大森警察署員が下宿先に急行し、2人に同行を求めた。このとき彼らは6畳間にあるダブルベッドに寝そべっており、容疑事実を追及されると山際は佐文に向かい「オー・ミステーク」と肩をすぼめ、手を広げて叫んだそうだ。

流行語になった「逮捕時の言葉」

 2人の犯行は新聞で大きく取り上げられており、逮捕が報じられると、作家の林芙美子(1903−1951)が朝日新聞に〈捕まる時に叫んだという「オー・ミステーク」という言葉は、現代の社会を風刺しているようで、全く喜劇的な、落下していく人間の不気味な声であるように思った〉と書いたことで、この言葉は世の中に広く知れ渡り、事件は後にアメリカかぶれの少年が起こした「オー・ミステーク事件」とも呼ばれるようになる。

 強盗傷害罪と同幇助罪で起訴された山際と佐文の裁判は1950年12月13日から始まり、翌1951年2月23日に判決。少年法が適用され、山際に懲役4年〜7年の不定期刑、佐文には懲役2年執行猶予3年が言い渡された。山際は水戸少年刑務所では模範囚として過ごし1954年6月に仮出所。

「彼を待ちます」と言った恋人は…

 判決後、「彼を待ちます」と言っていた佐文が面会に訪れることはなく、2人の関係は自然消滅した。

 その後、山際は運転手、英語の家庭教師などをした後、美容師となり、東京都内で美容院を経営。「オー・ミステーク」については「マスコミのでっち上げ」と反論した。

 一方、佐文は父親が責任を取る形で日大教授を辞任し天理大教授に転身したのに伴い、奈良県天理市に移住。母親の実家でもあった天理教教会で修行を積み、信仰の道へ入った後、結婚して3児の母となったと伝えられている。

(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))