俳優の水谷豊さん(右)と、作家の松田美智子さん(左)(撮影:大河内禎)

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2026年7月6日放送の『しゃべくり007』に水谷豊さんが初出演。愛娘・趣里との知られざる喧嘩エピソードや、妻・伊藤蘭へのプロポーズの言葉などを語ります。そこで、水谷さんが作家の松田美智子さんとこれまでの俳優人生を語りあった、婦人公論』2023年10月号の記事を再配信します。*****放送24年目に突入したドラマ『相棒』で主演を務める水谷豊さんは、昨年古稀を迎えた。こんなに長く、第一線で活躍を続けられる理由とは――。このほど水谷さんへのインタビューを本にまとめた作家の松田美智子さんが、その秘密に迫る(構成:篠藤ゆり 撮影:大河内 禎)

【写真】優しい目つきでほほ笑む松田さん

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お酒とコーヒーで深夜まで語り合った

水谷 初めて会った時、僕たちはまだ20代前半でしたね。優作ちゃん(俳優の故・松田優作さん)がジーパン刑事役で出演していた『太陽にほえろ!』(72〜74年)に、僕が犯人役として出演したのが20歳か21歳の頃。優作ちゃんとは初対面で意気投合し、一緒に焼肉を食べに行ったなあ。

松田 初めて豊ちゃんが遊びに来たのは、確か、優作と私が神奈川・中央林間の米軍ハウスに住んでいた時だったかしら。

水谷 ええ、そうでした。下北沢のアパート時代も、車で優作ちゃんを送っていったことはありましたけど。

松田 若い頃の優作は喧嘩っ早いところもあったけれど、豊ちゃんとは一度もぶつからなかった。

水谷 家に招かれると、いつも夜中まで話し込んだ。優作ちゃんはお酒を飲みながら。僕は飲まないから、マミさん(松田さんの愛称)の手料理をつまみながらコーヒーを飲んで。

でも、難しい演技論や仕事の話はしたことないんです。冗談言っては笑い合って、お互い他人には話せないことも話した。まさに親友でした。役者としての方向性も性格もまったく違うけれど、お互いリスペクトしていたんでしょうね。

松田 気が合うだけではなく、根底に尊敬があったのね。あの頃、豊ちゃんは萩原健一さんと組んだ『傷だらけの天使』(74〜75年)で一躍人気俳優に。

水谷 生田スタジオでの撮影の前日に泊まらせてもらったことがあったでしょう。僕はどうしようもない方向音痴で、行ったことがある場所でも必ず迷う。だから優作ちゃんが、家からスタジオまでの綿密な地図を描いてくれて。その通りに運転して行ったら、無事に辿り着けた。そういうマメなところもあったんですね。

松田 それは知らなかった。放っておいたら、どこに行っちゃうかわからないとでも思ったんでしょうね。(笑)

葬儀の日は言葉を交わすことなく

水谷 マミさんと優作ちゃんのお嬢さんが生まれた時、覚えてます?出産祝いに、赤ちゃん用の靴をプレゼントしたのを。

松田 覚えていますよ。赤い、かわいい靴。私が優作と離婚してからは、豊ちゃんと会う機会はなくなってしまって。再会したのは1989年、膀胱がんで亡くなった優作の葬儀の日でしたね。

水谷 あの日はお互い、とても言葉を交わす気持ちになれなくて。その後、マミさんはノンフィクション作家として活躍するようになり、2007年に刊行した『越境者 松田優作』のための取材を受けた時に再会しましたね。

松田 ほぼ15年ぶりでした。

水谷 優作ちゃんが亡くなって、その時までは彼についての取材はシャットアウトしていたんです。

松田 そこから10年以上の時を経て、週刊誌でのロングインタビューの連載で再会して、それが膨らんで、今回の本(『水谷豊自伝』)に繋がりましたね。これまでにない企画でしたが、どうして引き受けてくれたのですか?

水谷 最初のインタビューが楽しかったので、もっとマミさんと話したいなと思ったんです。

松田 トータルで1年半くらいかけてインタビューしましたね。

水谷 半世紀近い僕らの関係性があるから、つい、雑談に流れがちに。本のタイトルは『長い雑談』かなって(笑)。でも、後からメールでマミさんから質問がいっぱい届いたでしょう。その答えを探すことで、自分自身と向き合う時間を持つことができました。昨年、古稀を迎えたので、人生を振り返るいいタイミングだったと思います。

松田 幼少期のことも、初めて伺うことができて。小学生でタイマン(1対1の喧嘩)を張るようなちょっとヤンチャな男の子が、いかにしてすばらしい役者になったのかがわかりました。人との縁で道が開けていったんですね。

水谷 本当に人の縁に恵まれていたと思います。おかげで今まで仕事を続けてこられたのだと、改めて実感しました。

<後編につづく>