世界が評価する「日本の石油備蓄」、元通産省幹部が語る誕生秘話と楽観論に傾く高市政権への警鐘

鹿児島県の志布志国家石油備蓄基地では5月1日から追加放出が始まった(写真:共同通信社)
ホルムズ海峡の事実上の封鎖を受け、日本は石油備蓄の放出などで当座をしのいでいる。1970年代の2度の石油危機を契機に構築された備蓄制度は、どのような経緯で今の形になったのか。「週刊文春」「文藝春秋」の編集長を務めた木俣正剛氏が、備蓄制度の基盤を築いた香田忠維氏(元通産省元大臣官房審議官)に、制度誕生までの裏話と、現在の政府の危機対応について聞いた。香田氏は「石油の一滴は血の一滴」と楽観論を戒める一方、歴史の遺産を活かした日本独自の中東外交の可能性に期待をかける。
ポピュリズムで備蓄石油を扱うべきではない
--香田さんとは、貿易自由化交渉「ガット・ウルグアイラウンド」(1994年4月調印)の取材以来のおつきあいです。香田さんはかつて通産官僚として世界一の規模となる石油備蓄を実現させたわけですが、いま日本を経済的危機に追い込みつつあるホルムズ海峡封鎖では、その石油備蓄が注目されました。当時の教訓を日本はどう活かすべきか伺いたいと思います。
香田忠維(元通産省元大臣官房審議官、以下は香田):日本のホルムズ海峡報道を見ていると、楽観的すぎる部分と悲観的すぎる部分が混在しているように思います。
たとえば、国民に節約を呼びかけている各国と違い、日本では備蓄は約240日分あるから十二分であるとして、現政権は備蓄を放出して石油価格の高騰を防ぐことに主眼を置いています。
現状、メディアは備蓄がこれだけあっても、足りなくなるのではないかという悲観的にすぎる報道をしていますが、一方の政府はホルムズ海峡閉鎖は解除されるという楽観論をベースにガソリンへの補助金を継続し石油の備蓄を放出しているような感じがします。

香田 忠維(こうだ ただつな)氏
1967年4月通商産業省入省、同省で要職を歴任し、1994年7月通商産業大臣官房審議官に就任。退官後1995年10月オマーン国駐箚特命全権大使、1998年7月電源開発(J-POWER)取締役、2001年6月石油資源開発(JAPEX)常務取締役、2006年10月同社専務取締役、2009年6月同社代表取締役副社長、2011年6月大林組社外監査役、2013年6月日東紡績社外取締役。財団法人中東協力センターの理事長、相談役も務めた。
石油の一滴は血の一滴。太平洋戦争の最大の教訓を学べば、ポピュリズムで備蓄石油を扱うべきではありません。
--その意味では、「平和ボケ」は現在も同じなんですね。
原油価格が4倍に高騰した第一次オイルショック
香田:石油危機は2回ありました。第一段階は1973年の第一次オイルショックで、原油価格が約4倍に高騰しました。日本経済が深刻な打撃を受け、高度経済成長が終焉したことが出発点です。
第四次中東戦争の勃発により、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)加盟のアラブ諸国による原油生産が大幅に減少したうえ、イスラエル寄りの欧米と日本に対する原油の輸出禁止もあって、原油価格が3.01ドルから11.65ドルへ急騰しました。そこで政府は、1975年「石油備蓄法」を制定して、民間石油会社に備蓄義務を課す制度がスタートしました。
民間会社は自前の石油備蓄基地を持っていましたが、(在庫を抱えることは経営的に)大きな負担でした。1975年当時の民間備蓄60日分という目標だけでは日本経済が危機に耐えられる状態ではなかったと思います。
--日本が本格的に石油備蓄に乗り出したのは、続く第二次オイルショックですね。このあたりから香田さんの出番ですか?
香田:私は、第一次オイルショックのときは、課長補佐として輸入課にいて外為法の担当でした。石油の価格が大幅に高騰し巨額の資金が外に出ていく。つまり巨大な所得移転を目の前で見ることになり、非常にショックで悲しかったことを覚えています。
石油の供給が減少したため、割り当てによる石油製品の販売や街角のネオン規制などが行われました。また、国民の中でトイレットペーパーの買い占めパニックが起こったことも忘れられません。
第二次オイルショックは、イラン革命の勃発による原油生産激減により発生し、石油価格はさらに上がりました。
公害や環境汚染を恐れた根強い反対も
香田:こういう状況では民間だけにまかせておくわけにはいきません。国家主体で石油備蓄基地を建設し、長期間の石油輸入停止に備えねばならないということになりました。こうした国家備蓄の事業が立ち上がった時期に課長として働きました。
大規模な陸上基地の建設には1基地当たり2000億円といった費用、そして備蓄する石油の購入費用がかかります。実施のため石油公団、備蓄会社、現場の建設会社、これら事業に関わる多くの人々が活動しました。
ただし、当時は必ずしも国家備蓄を進めるうえで環境が良かったとは言えません。「経済安全保障」という言葉もなかったですし、石油は普通の商品であって金さえ出せばどこからでも買えるという人もいました。高度成長時代の重厚長大型の工業基地を推進した地区では公害や環境汚染を恐れて根強い反対がありました。
民間備蓄の目標は当初の60日分から段階的に90日分まで引き上げられましたが、民間石油会社はその負担に苦慮していました。今は、日本は石油備蓄については十二分に準備している先進国と言っていますが、当時は国をあげて安全保障のため備蓄をするという空気ではなかったと思います。

石油の国家備蓄基地(出所:)
--石油備蓄基地の建設には時間もかかります。国際情勢は急を告げて急がなければならないのに、国内で足を引っ張る動きがあったということですね。具体的に、どんなご苦労がありましたか?
香田:基地の立地決定までには地元、地方自治体、そして政治家の理解を得ることが必要です。特に国会では議論が活発に行われました。当時の政治は、自民党と社会党の二大政党。与野党の多くの政治家の理解を得るために頻繁に説明に行きましたね。
まず、候補地の選定、地元の説得から始めましたが、難航しました。まあ、いきなり多くの石油タンクが目の前にできるというと(実は原油は簡単に燃えるものではないのですが)、公害や事故が怖いという反対運動が盛り上がりましたし、この事業に絡む利権に関係したスキャンダルが発覚したりしました。地元民の反対運動をあおる政治家もいれば、地元への誘致を働き掛ける政治家もいました。
--マスコミの動きはどうだったのですか?
写真誌が「壮大なる税金の無駄遣い」と批判
香田:最初の躓きは、マスコミのせいでした(笑)。すぐには陸上で備蓄基地ができないとわかったので、つなぎとしてタンカーによる備蓄をしました。当時は船舶不況で海運量が減り、船舶が余っていました。こういった状況でタンカーに備蓄をお願いしたんです。
その一つが三光汽船です。通産大臣を務めた河本敏夫氏の会社ですから、メディアからは一斉に「政治利権だ」と批判し、国会でも質問されました。私たちが一番堪えたのは、一部の写真誌がタンカー備蓄の船の上で船員がゴルフの練習をしている写真が掲載され、「壮大なる税金の無駄遣い」と報道されたことでした。
今にも、石油を断たれ、国が亡びるかもしれない、石油不足で、太平洋戦争を起こした…こういった歴史を政治家にも国民にも、メディアにも思い起こしてもらいたい、国民の安全安心は大丈夫なのか悩んだことを覚えています。
--私も当時は、三光汽船の救済だという論調の記事を文春でも展開していた記憶があります。
香田:石油備蓄が安全保障上大事な問題であるにもかかわらず、政府あげて協力しようという空気ではありません。現場の基地では1万人くらいの人間が基地建設のために働きましたが、あまり歓迎ムードの中で仕事をしているという実感はなかったですね。
それでも、1988年までに10基地体制がおおむね整備され、地上タンク・地中タンク・地下岩盤貯蔵・洋上タンクという4方式を組み合わせた世界でも類を見ない多様な備蓄方式が確立したわけです。
たとえば白島国家石油備蓄基地という北九州市の洋上タンクは、地上基地建設にOKしてくれる地域がなくて、海上に基地をつくることを決めました。しかし、漁業権の問題がありました。福岡は力のある政治家が多くて、大いに関心を持たれたのも事実です。
与党議員だけでなく野党議員も口出し
--福岡は炭鉱が斜陽産業になり、補助金や、転業のための資金が投入されていました。政治家がそれを取り仕切って、その代わりに献金を受け取っているという話がメディアでも何度も取り上げられました。香田さんは、立場上、話せないと思いますが、福岡出身で総理を目指していた田中六助氏と、宏池会のプリンス宮沢喜一氏が派閥のトップの取り合いをしていて、田中氏がかなりの金額を集めたなんていう噂も週刊誌に掲載されました。
香田:私はその問題の真偽はわかりませんが、漁業権には、与党だけでなく、野党も絡んできます。
ほかの基地候補で不透明だったのは、鹿児島県にある志布志国家石油備蓄基地です。志布志湾では、昭和40年代に大規模工業開発に対する住民の反対運動が起き、活動家がいました。成田空港に反対する成田闘争もあったので、現地での視察は注意するようにと警備当局から言われました。
この地域には自民党の実力政治家がいて、「基地は目障りだ」と言われ、当初計画の浜に近いところではなく、沖合150メートルに建設することになったと聞きました。沖合に出た分、埋め立て経費が大幅に増えたようです。
通産省は、当時の建設省や厚生省のように利権の絡む官庁ではなかったので、相当面食らうことが多かったですね。
神戸出身で選挙区も兵庫県の土井たか子氏(社会党)が、志布志湾に現れ、漁民と話し合う会を開いたり、和歌山の国会議員である玉置和郎氏が、突然馬毛島(鹿児島県西之表市の無人島)に基地をつくれと言ってきたりしたこともあります。
電気ガス業界の意向を受けて反対していた経団連の斎藤英四郎会長(新日本製鐵=現日本製鉄=元社長)は、「石油備蓄基地をつくると鉄を大量に使います」と申し上げたところ賛成にまわってくれました(笑)。
世界に先駆けて地下岩盤貯蔵や洋上備蓄を実用化
--陸上だけでなく地下や洋上に備蓄基地ができていくのは、現地の政治や社会状況にも左右された結果だったんですね。
香田:当初は、ほとんどの国民や官庁、メディアからあまり評価されないなかで、多くの関係者に猛烈に働いてもらいました。申し訳ないという気持ちが強くありましたが、10年近く経って湾岸戦争が勃発したとき、石油備蓄のおかげでパニックが起きなかったのを見て、苦労した関係者に納得してもらえたのではないかと感じました。
--今回のホルムズ海峡封鎖で、この240日分の備蓄が短期的な供給途絶リスクに対する強力な緩衝材として機能しています。半世紀前のオイルショックで得た教訓、つまり「エネルギーは平時に積み上げ、危機に取り崩す」という哲学が、まさに今、真価を発揮している局面と言えますね。
香田:アメリカの戦略石油備蓄も参考にしましたが、世界に先駆けて地下岩盤貯蔵や洋上備蓄といった独自技術を実用化したのは、狭い国土で大量備蓄を実現する日本ならではのイノベーションとして国際的にも評価されています。
今、日本は石油備蓄の放出をしています。アメリカがイランとことを構えたのはイスラエルの意向も受けたからだと思いますが、足抜けは容易でなく、以前のようにホルムズ海峡を自由に通航するのは当面望めないと思います。
高市総理は備蓄石油を放出していますが、節約を呼びかけるべきだと思います。慎重な国民性を持つ日本人は「備蓄はあと数カ月」となった時点で、パニックを起こしかねません。少なくともガソリンに補助金を出すのは、いかがなものかと思います。石油元売りにいた友人も同じ懸念を持っています。
中東諸国と友好関係を維持する日本は外交的貢献を
--イラン情勢が240日の備蓄がある間に解決するという保証はどこにもありません。
香田:私は、かつてオマーンで大使を務めました。オマーンの国民は大変に穏健でイランとも長年にわたり友好関係を保っています。日本は中東諸国と友好関係を維持しているので、何らかの外交的貢献ができるか考えてもいいのではないでしょうか。
日本とイランの関係は深く、1953年の「日章丸事件」が有名です。英系石油メジャーが主導するイラン封鎖のなか、国有化されたイランから出光のタンカー「日章丸」が原油を積み出した事件です。イランの国民感情を大きく高揚させ、日本とイランの友好の象徴になった出来事は、今でも忘れられていません。
出光の日章丸事件を記念する会を開くと、イランの要人がたくさん来たと出光から聞いています。日本はこういったイランとの友好関係の蓄積を生かして貢献することができるのではないでしょうか。
--ホルムズ海峡には機雷が撒かれたとの情報もあります。日本の自衛隊は世界最高水準の掃海艇隊を持っています。戦争終結後に機雷除去が必要になった場合、自衛隊がすぐに取りかかることができたら、アメリカやイラン、さらには日本にとって重要なインド・太平洋の諸国家に日本の存在を認識させることができます。そういう臨機応変な外交をやってほしいものだと思います。
香田:日本の掃海艇派遣の指揮官だった落合蔲(たおさ)氏は、沖縄戦で有名な太田実・海軍中将の息子さんですね。中東地域は日本にとって大事な国々ですから、国も民間ももっとスケールの大きい外交を展開してほしいと思います。
インタビューを終えて
インタビュー後、香田氏はつぶやきました。「バビロン捕囚からユダヤ人を解放したのはペルシャ。恩を仇で返す戦争をイスラエルはしていることにならないのかなあ。そういうことを直言する人はいないのかな。今回の戦争は誰も得をしていない戦争なんです」。彼は二・二六事件で死刑になった香田清貞大尉の甥として、その遺族の会、仏心会の代表理事を務めたこともあり、青年将校たちの行動と精神について啓発する運動をしています。
筆者:木俣 正剛,香田 忠維
