元中日・鹿島忠氏【写真:山口真司】

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鹿島忠氏は鹿実から鹿児島鉄道管理局へ「食いっぱぐれることはないかな」

 高校卒業時の進路は監督指令と安定した未来を考えて選択した。元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏は、鹿児島実から社会人野球の日本国有鉄道鹿児島鉄道管理局に進んだ。高校時代にプロから声がかからなかったわけではないが、敢えてその道は“封印”したという。その背景にあったものは……。まず大きかったのは、恩師である鹿児島実・久保克之監督の考えだった。

 鹿児島実時代の鹿島氏は当時の高校3年生投手では浪商・牛島和彦(元中日、ロッテ)、府中東・片岡光宏(元広島、中日、大洋)、箕島・石井毅(元西武)らとともにプロ注目の逸材との評判だった。「久保監督に呼ばれて『プロから声がかかっているよ。大学も社会人からも話はあるよ』と言われた。プロがどこの球団とかは教えてくれなかったけどね」。ただし、その時点で、進路の選択肢にプロだけはなかった。

「監督が『俺はプロには行かせんぞ、大学か社会人を出てから行きなさい』って。ウチの学校からは定岡(正二)さんが(1974年ドラフト1位で高校から)巨人に入っているし、誰でも駄目だったわけじゃないけど、俺の場合は『世間をもうちょっと勉強してからにしなさい』ってことだった」。もともとプロ志向ではなかった鹿島氏は納得して監督の言う通りにした。「家に帰って両親に大学にするか、社会人にするか相談した」という。その結果、鹿児島鉄道管理局に進むことを決めた。

「大学はお金がかかる。ちょうど3つ違いの弟が高校に入る時だったし、高校と大学のダブルはしんどいということで、じゃあ社会人しかないだろうってなった。いくつか話はあったけど、鹿児島鉄道管理局は国鉄。ここだったら怪我をしても食いっぱぐれることはないんじゃないかと思ってね」。まだ国鉄がJRに民営化される前の時代。一番、堅実な道と思って選んだわけだ。

ロッテ&オリで監督を務めた西村徳文氏と同部屋だった

 しかし、そこでの生活も楽ではなかった。「仕事は各駅の駅長らが住む社宅の管理。誰がどこに入っていて、家賃がいくらとか駅ごとに書き込んだり、駅長から電話で問い合わせを受けて調べたり……。最初は電話もまともに出られなかったけど、やっているうちに人との会話もできるようになった。午後3時まで仕事して、そこからグラウンドに移動して日が暮れるまで練習。そんな毎日だった」。朝、昼の食事は会社の売店でおにぎりとかを買って済ませ、夕食だけは寮で食べたそうだ。

「基本給が7万5000円だったかな。そこから税金、組合費、寮費とかを引かれると、手取り3万もなかったと思う。お金がなかったから売店のおにぎり代とかもツケ。給料が出たらまとめて払わなければならないから、給料はそれでほぼなくなる。財布なんて持っていったことがなかったね」。苦しい時代だった。寮は2人部屋。後にロッテに入団した内野手で、ロッテ、オリックスの監督も務めた西村徳文氏が部屋長だった。

「厳しい上下関係とかはなかった。西村さんは優しかったし、あの人がプロに入ったのは刺激になった」。西村氏は1981年ドラフト会議でロッテに5位指名されてプロ入り。鹿島氏はその1年後に中日入りを果たす。投手と野手。ポジションは違っても、高いレベルの人との生活はためになったという。

 振り返れば確かにそれまでは世間知らずの面があったという。だから社会人を経てのプロ入りは鹿島氏の場合、プラスに働いた。高校から直接のプロ入りにストップをかけた恩師の鹿児島実・久保監督はもとより、それを見抜いていたのかもしれない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)