土俵際でジャンプした「大の里」は横綱として“姑息”か? 改めて問いたい「死に体」の判断基準…大の里は「負け」でも、豪ノ山を「勝ち」とすることへの違和感
大相撲名古屋場所四日目、横綱・大の里対豪ノ山の一番は〈物言い〉の末、〈行司差し違え〉で豪ノ山の勝ちと判定された。
横綱がまた苦しまぎれに引いて墓穴を掘ってしまった。絶対に「してはいけない」と横綱自身もわかっているはずの悪癖が出た時点で、自ら白星を手放したも同然だから、敗戦はやむを得ない。「大の里が勝っていたんじゃないか?」と強く疑問を呈する気持ちはない。
先に断っておくが、私は中村泰輝君(現大の里)に、彼が高校2年の時に出会い、以来ずっと応援し続けている取材者だ。『大の里を育てた〈かにや旅館〉物語』という本も上梓している。だから、大の里びいきで疑問を呈していると思われても仕方がない。けれど、幼稚園のころから相撲に魅了され、熱い思いを抱き続ける大相撲ファンのひとりとして、「最近、勝負判定の基準がずれてしまっていないか」という、私の中で生まれている素朴な違和感から一石を投じたい。【小林信也(作家・スポーツライター)】
【写真】名古屋場所で土俵際の勝負判定で物議を醸した横綱・大の里の姿
「大の里は土俵の外で宙に浮いてた」
この勝負、本当に「大の里の負け」「豪ノ山の勝ち」で正しいのだろうか? ここ数年、土俵際の勝負判定はしばしば物議を醸している。主に「体(たい)が残っているか、体がないか」という視点が判断材料にされる。

大の里は、下がりながら豪ノ山を突き落とし、自分は後方(土俵外)に飛び出すのを避けるため、俵の上で大きくジャンプした。大の里の体がまだ空中にある間に、豪ノ山はばったりと土俵に這いつくばる格好になった。
日刊スポーツの佐々木一郎記者は、その日の夜(19時30分)に次の記事をウェブサイトに公開している。
<土俵際の勝負判定について、審判団はどのような判定を下したのか。(中略)
庄之助は「私は(豪ノ山の)手が早い(と判断した)。大の里が跳んだということ。土俵(の協議)では意見が割れて、最後はビデオ判定で決まった」と話した。
九重審判長は、大の里の体勢について「円の外に出ているということ。これは体がない。絶対戻ってこれないでしょう」と説明。豪ノ山が土俵に手を着く前に、大の里は土俵の外に出ていたという判断だ。「ビデオ室にも確認しました。『もう一丁あるか?』と聞いたら『ない』と。『間違いないか?』とも聞きました。最後は全員が納得した。本当に間違いがないか、何度もやりました」と手続きに瑕疵がないことも説明した。
決まり手係の甲山親方(元幕内大碇)も「大の里は土俵の外で宙に浮いてた。豪ノ山が手を着く前に。今はそういう判断でやっていますから」と判定の妥当性を口にした>
相撲の勝負が決まる局面は2通り
審判長の言う「身体が円の外に出ている、絶対戻ってこれない」という基準が、現在は勝負判定の鉄則になっているらしい。その基準に照らして「大の里の負け」と判断された。
しかしそれは相撲の原則を揺るがす重大な拡大解釈と言えないだろうか? こうした勝手な解釈を加えると、他の視点で見た時に簡単に矛盾が露呈する。そんな心配はないだろうか。
本来、相撲の勝負を決める規則は明快だ。大相撲(日本相撲協会)は競技規則を公式ホームページで公開していないから、アマチュアの公益財団法人日本相撲連盟審判規程を引用する。その第7条にこう記されている。
『勝負判定については、この規程に別段の定めがある場合を除き、次の各号に該当する場合、当該選手を勝ちとする。(1)相手選手を先に勝負俵の外に出した場合(2)相手選手の足の裏以外の一部を先に土俵につけた場合』
要するに、相撲の勝負が決まる局面は2通りしかない。
「先に土俵の外に出た方が負け、出した方が勝ち」「土俵に足裏以外の身体が触れた時点で負け、触れさせた方が勝ち」。相撲ファンなら誰もが知っている大原則だ。もちろん、例外もある。相手や自分のケガを回避するためにする「かばい手」は許され、先に手を着いても勝利が認められる。
早速、ひとつ例題を出してみよう。
練習問題:土俵際で押し込まれ、上体が後ろに反り返った態勢で相手を右または左に投げる〈うっちゃり〉は正規の技であり、ファンを沸かせる人気抜群の決まり手のひとつだ。押し込まれた力士Aが相手力士Bに〈うっちゃり〉を打った時、勝負の行方は「どちらが先に土俵に手や身体を着いたか」で決まるはずだ。たとえAの身体が下であっても、投げを食らって先にBが手を着いたら、Aの勝ち、Bの負け。そう信じて今日まで相撲を見続けてきた。しかし、先の審判長の見解を当てはめると、わからなくなる。
力士Aは、力士Bに圧倒され、身体全体が土俵下に倒され、背中が土俵外に大きくのけぞっている。この態勢から再び起き上がることは不可能り、ほとんど体がない。その時点で力士Aは負けと判断されるのだろうか?
相撲関係者はもちろん、次のように反論するだろう。「うっちゃりの場合、力士の足がまだ土俵の中に残って地面に着いている。しかも相手の身体にしがみついて逆転の可能性を残している」と。
「だったらその体勢から身体を起こして土俵に戻れますか?」と聞いたら審判長はどう答えてくれるだろう。「土俵に戻れるか」が基準なら、背中が後方に深く傾いた時点で負けとするべきではないか?
豪ノ山は「勝者」に価するのか
もうひとつ、別の視点から問いかけよう。
土俵際で大の里は上に跳んだ。豪ノ山は土俵に這いつくばった。この時、自分の身体をコントロールできていたのはどちらだろう?
大の里はあの巨体を自分の意志で動かしていた。豪ノ山は、前に倒れる勢いをどうにもできず、自己コントロールは失っていた。
勝負審判たちは、「戻ってこられるか?」という問いかけを豪ノ山にはしなかった。果たして、大の里が上に跳んだ時、豪ノ山は手をつかず立ち上がれる状態だっただろうか?
大の里の負けは認めよう。だが、だからといって、豪ノ山は「勝者」に価するのか?
大の里の体がないと認定するなら、その時点で豪ノ山の体もまた「なかった」ではないか。それならば〈取り直し〉が妥当ではなかったかと私は考える。
この点を曖昧にしておくと、力士たちが土俵際や勝負の際で最後までどう粘るべきかの指針がわからず、混乱することになる。
ネットの書き込みを見ると、「審判長の横綱へのお灸ですか?」という論調がけっこう多かった。「上に跳んで時間を稼ぐのは横綱として姑息だ」との意見もあった。多くのファンが、ルールを素直に適用すれば、先に土俵に落ちた豪ノ山の負け、大の里は命拾いが妥当と考えているように感じた。が、横綱に対する強い指導のために、審判長は大の里にお灸をすえた。そういう上下関係を、なんとなく理解できるのが相撲界の空気でもある。
しかし、明確な規程・基準は大切だ。かつて三代目若乃花、二代目貴乃花は、師匠(父)の厳しい教え、「投げを打たれても手を着くな」を厳守し、顔から土俵に落ちて顔に傷を負ったことがある。それは「執念」と礼賛された。一方で、空中に跳ぶ行為は「時間稼ぎで姑息」と糾弾される。イメージ的にわからないでもないが、最後まで勝利への執念を燃やし続け、決して勝負をあきらめない姿勢が非難されるのは力士に対する冒とくのようにも思う。最後まであきらめない、だからこそ、宇良や藤ノ川が数々の逆転劇を演じ、ファンを沸かせているのだ。
それに、土俵際で咄嗟に跳びあがった大の里を、改めてご覧いただきたい。189kgの巨体であの高さまで軽々とジャンプする横綱を、長い大相撲の歴史の中で誰が見たことがあっただろう。あの身のこなしは、当たり前に見られる光景ではなかった。私は、不利な体勢になると思わず相手の首に手をかけ引いてしまう大の里の悪癖に言葉を失いながら、その軽快な身のこなしには驚嘆し、だからこそ輝きを取り戻してほしいと切に願う。
スポーツライター・小林信也
デイリー新潮編集部
