ソフトバンク・中村晃の決断で思い出す 星野仙一、掛布雅之、金本知憲を引退へ向かわせた“分岐点”
引退を決める瞬間は、必ずしもシーズンの終わりに訪れるとは限らない。
長年チームを支えてきた選手であっても、ある一球、ある一打、あるアクシデントをきっかけに、自らの限界をはっきり意識することがある。ソフトバンクで長年主力を担ってきた中村晃も、今季限りでの現役引退を発表した背景には、忘れられない試合中のアクシデントがあった。【久保田龍雄/ライター】
石炭ガラになったのかと
中村は7月3日、今季限りでの引退を発表した。昨年10月18日、日本ハムとのクライマックスシリーズ(CS)ファイナルステージ第4戦の3回、一ゴロを放った直後に塁審と衝突し、頭を強打。後頭部を打撲し、慢性的な腰痛も再発したため、オフには腰の手術を受けた。

今季はその影響で調子が上がらず、代打で二飛に倒れた6月4日の中日戦後に引退を決意したという。結果的に、試合中のアクシデントが大きな引き金になった形である。
過去の名選手たちにも、現役生活の終わりを意識するきっかけとなった“あの試合”が存在した。
打倒巨人に闘志を燃やし、巨人戦で通算35勝を挙げた中日・星野仙一は、宿敵相手の不本意な投球が引退の引き金となった。
1982年4月20日、熊本で行われた巨人戦。星野は8回まで1失点と力投し、2対1とリードして最終回のマウンドに上がった。
先頭の原辰徳を遊ゴロに打ち取り、完投勝利まであと2人。次打者・淡口憲治には、カウント0-2と追い込んでから3球目の直球を中前に運ばれた。
「打球がセンター前に飛んだ時は、1秒の何分の1秒かの時間ですが、おれはもう、石炭ガラになったのかと思いました」(近藤唯之著『引退 そのドラマ』新潮文庫)
長年の宿敵・巨人を相手に見せてきた粘着力と集中力を欠いた投球が、星野には信じられなかったのだろう。
ここから星野は、気持ちが切れたように投球リズムを崩していく。柳田真宏にも9球粘られて安打を許すと、松本匡史、二宮至に連続四球。押し出しで同点に追いつかれた。さらに2死後、山本功児に右中間へ打たれ、逆転サヨナラ負けを喫した瞬間、「ああ、オレの命は終わった」と痛感したという。
6月30日の巨人戦でも、再び悪夢に襲われる。
8回まで2失点に抑えていた星野は、4対2の9回1死一塁で、因縁の淡口に同点2ランを浴びてしまう。これが星野にとって最後の巨人戦となった。
その後はリリーフに回り、チームの8年ぶりリーグ優勝を手土産に、14年間の現役生活にピリオドを打った。もし熊本の巨人戦で勝利していれば、「勢いに乗って巨人にも3つか4つ勝ち、全部で10勝ぐらいは挙げていたかもしれない。ピッチャーとはそんなものなのだ」(自著『星野仙一の巨人軍と面白く戦う本』文芸春秋社)と、現役を続けていた可能性を示唆している。
まさに投手生命の分岐点となった試合だった。
33歳の若さで引退
野球人生最良の年の翌年から、引退へのカウントダウンが始まったのが、阪神・掛布雅之である。
1985年、掛布は打率.300、40本塁打、108打点を記録し、チームの21年ぶりリーグ優勝と日本一の立役者になった。その翌1986年、状況は一変する。
開幕後、5試合連続無安打と不振に陥った虎の4番は、4月18、19日の中日戦2試合で9打数4安打4打点1本塁打と当たりが戻り、チームの連勝に貢献した。翌20日の中日戦でも、4回に2試合連続となる3号2ランを放った。
好調が戻りかけた矢先だった。6回の4打席目、中日のルーキー・斉藤学から左手首に死球を受けて骨折。連続試合出場記録も「663」で止まった。
この時点で、それが引退の引き金になると誰が想像しただろうか。
負の連鎖は続く。5月16日に復帰した掛布は、同27日の巨人戦で打球を右肩に受けて再離脱。8月26日のヤクルト戦では左手親指を骨折し、同年は67試合の出場に終わった。
翌1987年以降も腰痛、左膝痛など故障が相次ぎ、再び輝きを取り戻せないまま、1988年9月14日、「これ以上続けると、チームや球団に迷惑をかける」と33歳の若さで引退を発表した。日本一からわずか3年後のことだった。
引退の引き金となった死球について、掛布氏は2017年2月24日放送の日本テレビ『人生が二度あれば 運命の選択』で、「(連続出場記録が途切れ、試合を休めることに)安心してしまった。あの厳しい4番のバッターボックスに入らなくていいんだ」と明かしている。肉体の故障だけでなく、4番として打席に立ち続ける精神力も、その死球を境に揺らいでいったのだろう。
勝つための手段として僕は外れる
世界記録の通算1492試合連続フルイニング出場を達成した“鉄人”金本知憲は、肩のケガが引退への大きな転機になった。
2010年3月17日のオープン戦、ヤクルト戦。試合前の練習で左中間への飛球を追っていた金本は、中堅手と激突し、右肩棘上筋部分断裂の重傷を負う。
4番の責任感から、開幕後も金本は試合に出続けた。右肩の不安が最悪の形で露呈したのは、4月17日の横浜戦だった。
6回2死二塁、吉村裕基の三遊間を破る打球を処理しながら、本塁送球を自重して失点を許した。3点ビハインドの8回にも、2死二塁で石川雄洋の左前安打を処理した直後、本塁に送球しようと振りかぶった瞬間に動作を中断する。肩が壊れる予感があったのだろう。ボールはグラウンドに叩きつけるような悪送球となった。
翌18日の横浜戦の試合前、金本は真弓明信監督に「これ以上出てもチームに迷惑をかけるし、特に投手に、あのスローイングじゃ迷惑をかけている。勝つための手段として僕は外れる」とスタメン辞退を申し出た。
真弓監督は必死に説得したが、本人の意思は固かった。この瞬間、世界記録も「1492」で止まった。
「2010年にケガしてからは、24時間、常にそのこと(引退)が頭の中から離れなかった」(自著『人生賭けて〜苦しみの後には必ず成長があった〜』小学館)
金本はその後も、ボロボロの体に鞭を打ち、44歳の2012年までプレーを続けた。肩のケガがなければ、世界記録をさらに伸ばし、50歳近くまでプレーできたのではないかとも言われている。
プロ野球選手が引退を決断する理由はさまざまだ。成績不振、年齢、ケガ、チーム事情。その決断に至るまでの道のりには、自分の体や心の限界をはっきり突きつけられる瞬間がある。
中村晃にとっては、試合中のアクシデントと、その後の回復過程で味わった違和感がそうだったのかもしれない。星野、掛布、金本もまた、それぞれの“あの試合”を境に、現役生活の終わりを意識していった。
名選手の引退は、突然訪れるように見えて、実はどこかで静かに始まっている。その引き金となった試合を振り返ると、華やかな記録の裏側にある、選手だけが知る限界と葛藤が見えてくる。
久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘! 激突! 東都大学野球』(ビジネス社)
デイリー新潮編集部
