来日公演が行われた武道館(写真はイメージ)

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 60年前の1966(昭和41)年6月29日未明、ビートルズが来日した。30日から7月2日まで計5公演は日本武道館で行われたが、メンバー4人は宿舎(東京ヒルトンホテル)から外出禁止(実際には外出した)、警視庁は延べ8370人の警察官を動員した。ルポライターの竹中労氏は、ビートルズ公演で警視庁のとった態勢を「70年安保弾圧の予行演習になった」としている。世界的な人気グループ来日とはいえ、どれほどの警備が敷かれていたのだろうか?(全2回の第1回)。

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警察側から記録した映像

 東京・赤坂の日枝神社の入り口に、警視庁機動隊の指揮官車(四駆で屋根に指揮台が設置されている)が停まっている。その近くには、赤坂警察署長名で書かれた看板が。

来日公演が行われた武道館(写真はイメージ)

「ビートルズはファンの方とは会いません すぐおかえり下さい」

 看板の横には二人の女性警察官。また周囲にいる警察官は当時の夏服(長袖)姿だが、目立つのは全員が白手袋。着用する制帽にも白いカバーがついている。

「ザ・ビートルズ来日に伴う警備」という、この無音声・モノクロ映像が撮影されたのは、1966年。ビートルズ来日時の警備の様子を、警視庁の警備課機動隊が撮影したものだ。「日枝神社整理線 検問と説得」として紹介されている上述の場面は、ビートルズのメンバーが宿泊した東京ヒルトンホテル(現在のザ・キャピトルホテル東急)の周辺に配置された機動隊員が、メンバーを一目見ようとやってくるファン(大部分は女性)を規制している。

 来日中に警視庁に補導された少年少女は、実に6520人。学校を無断で休んだり、地方からはるばる東京へ出てきたりしたケースもあったという。

 映像では、6月29日午前3時39分に羽田空港に到着したビートルズが、用意されたキャデラック(ピンク色だった)に乗ってホテルへ向かうシーンもある。パトカーに前後を挟まれ、首都高速に入るが、上下線とも完全通行止め。高速を降りると赤信号もなく、ホテルへ一直線――ノンストップでの移動だが、皇族や国賓並みの扱いである。

 ビートルズの来日公演は、同年3月から水面下で動き始めていた。招へいしたプロモーターで、キョードー東京会長を務めた永島達司氏(当時は協同企画社長)や来日公演の関係者を取材した、元週刊誌記者(57)が語る。

「ロンドンの興行会社NEWSのヴィック・ルイスから、永島さんに電話がかかってきたのがすべての始まりです。その数年前、永島さんは人脈作りのためにニューヨークやロンドンに出掛けているのですが、自身が英国に住んでいたことがあり、当時の日本人では珍しい、格調のあるイギリス英語で会話ができたので、ヴィック・ルイスはよく覚えていた。それで永島さんに『ビートルズが日本に行きたがっている、あなたにお願いしたい』と連絡してきたそうです」

動き始めた警視庁

 第12代警察庁長官の山田英雄氏(94)は当時、警視庁警備課長だった。ビートルズの来日公演は、2年前の昭和39年に完成したばかりの日本武道館が会場に決まり、警視庁が警備を担当することに。4月に入ると、山田氏は現場を視察に出かけた。警視庁警備課長(現在は警備第一課長)は本部の課員に加え、機動隊(当時は全5隊。現在は同10隊)を指揮下に持つ。

 警視庁機動隊は〈戦後の混乱期における集団犯罪、労使紛争等の続発に伴い、これに対処するため機動性をもった集団警備部隊として〉(警視庁HPより)昭和23年5月25日、警視庁予備隊として創設。同32年4月に警視庁機動隊と改称され、第一〜第五機動隊が設置された。

 昭和27年5月1日の「血のメーデー事件」(デモ隊1名死亡)、同29年1月2日の「二重橋事件」(皇居一般参賀の二重橋で将棋倒しが発生、17人が死亡*16人とする報道もある)、そして同30年から始まった「砂川闘争」、また同35年の「60年安保闘争」(デモ隊の東大生が圧死)などに出動した機動隊だが、同34年の皇太子殿下(現・上皇陛下)ご成婚パレード、同39年の東京オリンピックなどにも動員されている。

「山田さんは警備実施や警備情報などを担当する部下を連れ、警備計画を立てるために、武道館周辺へ出向いたのです」(前出の元記者)

 視察の途中、武道館の北側、田安門に3人の少女がいた。

〈「君たち、ビートルズが来るけど、公演を見に来るのかい」と尋ねる山田に、少女たちは屈託なく答えた。
「もちろん。足の一本折ってもいいから、客席から飛び降りてでも舞台まで行って、抱きついてキスするんだ」〉(『戦後史開封 スポーツ・文化編』扶桑社文庫)

 音楽会の警備――そう思っていた山田氏だが、これは本腰を入れて取り組まないといけないと思ったという。機動隊を動員するとして、その当時の機動隊は、学生運動や反体制運動団体と対峙する場面が多く、警備実施=暴徒鎮圧に伴う治安警備が主だった。ビートルズ公演は雑踏警備に当たるが、会場の2階から飛び降りてでも……というファンを対象にする警備である。

始まった警備実施計画

 昭和36年6月8日、警視庁に「警備心理研究会」が発足した。その目的は「群衆心理を研究し、常に警備事象に即応した有効適切な対策を講じること」。学識経験者と警視庁警備部長が指名した職員で構成される。「血のメーデー事件」や「二重橋事件」で犠牲者を出した反省から、集団や群衆の心理や行動を分析・検討、雑踏警備に役立てるものだ。

 山田氏は警備課の雑踏警備係に、ビートルズの基礎調査を命じる。完璧な警備実施のためには入念な準備が欠かせない。新聞、雑誌、テレビのニュース……ありとあらゆる情報を収集する。

「アメリカや西ドイツなど、ビートルズが公演を行った国では、ファンが暴動を起こし、けが人や逮捕者が出ている例が確認できました。また、当時上映していた『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(現題は『ア・ハード・デイズ・ナイト』)を観に行った雑踏警備係長は、大変なショックを受けました」(前出・記者)

 スクリーンめがけて走り、頬ずりして泣き叫ぶ興奮した少女たち……。田安門で山田氏に語った「足の骨を折ってもいいから〜」というファンの言葉は決して誇張ではない。これはとんでもない警備対象を抱えることになった。

 警備対象は来日する羽田空港、宿泊先の東京ヒルトンホテル、そして武道館……。連日のように「ビートルズ対策会議」を開いた警視庁の、威信をかけた警備計画が練られることになった。

【第2回は「【ビートルズ来日60周年秘話】メンバーが『トーキョーは車が少ないね』と呟いたウラに『首都高封鎖』の警備態勢…機動隊員が警棒ではなく『白手袋』を身に着けた深い理由」】

デイリー新潮編集部