作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』

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 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開II その12」をお届けする(第1498回)。

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 ヨーロッパ歴訪中の裕仁皇太子が大砲の砲身に跨って笑っている写真をご存じだろうか?

 この写真を見たことがある読者の率直な印象をお聞きしたい。写真を見てどう思いましたか? 皇太子も意外とお茶目だな、ですか? それとも、リラックスして楽しそうだな、ですか?

 ここで、前回の最後に紹介した裕仁皇太子のコメントを思い出していただきたい。

 〈「貴族富豪が、アソール公のような簡易生活をして、公共の為に全力を傾ければ、所謂ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない。アソール公その人及びその生活は、貴族の模範である」〉
(『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』波多野勝著 草思社刊)

 このコメントについて、当の裕仁皇太子が「打電してもかまわない」と随行していた新聞記者に直接許可を与えたにもかかわらず、日本では一切報道されなかった。その理由についてのGoogle AIの見解も紹介しておいた。

 曰く、「大正・昭和初期の日本において、皇太子や天皇の私的な会話や率直な感想がそのまま新聞に載ることはありませんでした。特に『ボルシェビキ(共産主義革命)』という言葉は、当時の日本政府が最も警戒していた極めて敏感な政治的ワードであり、検閲や皇室の尊厳保持の観点からも、公に報道されることは不可能な社会情勢でした」

 この裕仁皇太子の「大砲お跨り写真」は、これまでたびたび引用してきた『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』にも掲載されている。この写真は皇太子に随行した竹下勇海軍中将のご遺族から提供されたものだそうだ。ということは、この写真はまず間違い無く戦前は門外不出だったと推測される。なぜそう言えるのかは、おわかりだろう。「皇室の尊厳保持」に抵触するからである。

 ひょっとしたら、この意味がわからない若い人(若い人に限らないが)がいるかもしれないので少し補足しておくと、「尊厳」とは「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま」(『デジタル大辞泉』小学館)であり、「尊厳死」という言葉が示すように人間すべてに適用されるものではある。

 しかし、とくに「皇室の尊厳」になると話はかなり違ってくる。なぜなら、大日本帝国憲法第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とあるからだ。つまり「天皇=神」であって、その「尊厳」は「人間らしさ」を超越したところで保たれなければならない、という考えになるからだ。

 そういう意味では、皇太子がある意味で楽しくふざけているような写真を撮ることも、公開することも許されないことになる。極右の国家主義者なら、なぜこのような写真を撮ったのか、と激しく非難するだろう。「殿下が撮れと仰せられたので」などと言い訳をしてもダメだ。こうした写真は皇室の尊厳を損なうことになるから、「お止めすべきだった」ということになるからである。

 ちなみに、この写真はフランスで撮影されたものだが、皇太子が跨っているのはどういう大砲だろうか。別に軍事オタク的興味で言っているわけではない。帝国憲法(第11条)が「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」つまり、天皇は帝国陸海軍の総司令官と規定しているからだ。軍人にとって兵器は生死を共にするものであり、先輩の血と汗が滲んでいる神聖なものである。つまり、いかに皇太子とは言え軽々しく「跨れる」ものではないのだ。場合によっては、フランス軍人に「日本軍のトップに我が軍の兵器が侮辱された」と取られかねない。

 しかし、当時の常識でもこういうことが可能な場合が考えられないわけではない。それは、この大砲がフランス軍によって敵国から鹵獲、つまり分捕った大砲である場合だ。そこで、前回でも引用した『昭和天皇実録 第三』(宮内庁編 東京書籍刊)を見てみると、「大正十年六月」の項に次のような記述があった。

 〈シュイニュにてはドイツ軍の遺棄した攻城重砲、通称「グロス・ベルタ」を御覧になり、特にその砲架に登られ、詳細に御視察になる。〉

 おそらく、写真の大砲はこれだろう。「砲架に登られ」とあるし、ドイツ軍からの分捕り品なら跨ることぐらいなんの問題にもならない。シュイニュとはフランス北部のソンム県シュイニュ(Chuignes)のことで、第一次世界大戦中にドイツ軍の陣地があった場所である。

 現在もこの大砲は公開されているらしいが、特筆すべきは裕仁皇太子がこの歴訪で第一次世界大戦の激戦地となった場所をかなり綿密に巡っていることである。戦争で国土が破壊されるということがどれほど悲惨なことか、はっきりその目に刻んだということだ。のちに昭和天皇となったときに戦争の拡大方針にはあまり乗り気ではなかったのは、このときの印象がよほど強烈だったからではないか。

万難を排し訪米を実現すべきだった

 さて、「天皇の神格化」の話に戻ろう。このヨーロッパ歴訪よりずっと先の話になるが、裕仁皇太子は即位して昭和天皇となり、第二次世界大戦敗北後に占領軍の意向もあり、「人間宣言」を出した。次のようなものだ。

〈天皇人間宣言
1946年1月1日に出された詔勅の通称で、この中で天皇の神格を否定した部分があるのでこの名がある。この詔勅では太平洋戦争敗北後の新日本建設の指針として1868年(明治1)の五ヵ条の誓文を掲げ、ついで天皇と国民の紐帯(ちゆうたい)は神話と伝統によって生じたものではなく、また天皇を現人神(あらひとがみ)としそれを根拠に日本民族の他民族に対する優越を説く観念に基づくものでもないとして、天皇の神格を否定した。この詔勅はGHQの支持を受けて幣原喜重郎首相が英文で起草し、占領軍による日本民主化政策の一環として発せられた。それまで国家神道を中心に国民の戦争への動員がなされてきたので、発布時には天皇の神格否定の側面が国民に強い印象を与えたが、1977年8月、昭和天皇はこの宣言の〈神格否定は二の問題〉であり、五ヵ条の誓文が民主主義の伝統を表すものであることを強調したのだと発言した。〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者佐々木隆爾)

 この宣言の分析はいずれ昭和編で詳しくやらねばなるまいが、とりあえず押さえておいていただきたいのは、日本と激しく戦い辛うじて勝ったアメリカが日本の民主化の最大の障害と考えていたのが、「現人神」つまり「天皇の神格化」だったということだ。これはアメリカの一方的な思い込みでは無いことは、この『逆説の日本史』シリーズの愛読者ならば、じゅうぶんに理解していただけるだろう。

 かつての日本いや東洋世界には、民主主義成立の基本である「万人平等」という考え方が無かった。仏教はともかく、人間は能力の差で分別することが可能という儒教(朱子学)が全盛だったからだ。日本も中国・朝鮮半島ほどではないにせよ、士農工商という身分制度が定着し、欧米型の民主主義社会になるにはきわめて困難な状況にあった。

 そこで先人たちは、もともと神の子孫として尊敬されていた天皇をさらに絶対的な権威として持ち上げることによって、その下では華族も平民も変わりないという形で四民平等(士農工商の廃止)を実現させた。つまり、日本の近代化において天皇の神格化は絶対に必要な措置だったのである。

 だが、どんなことにも行き過ぎはある。あまりに天皇の絶対化が進むと、その天皇の権威を笠に着て他者からの批判を受けつけず、独断専行する組織や人物が出現する危険性がある。そこで、すでに述べたように元老西園寺公望は天皇絶対の大日本帝国憲法「改正」は不可能(天皇に過ちがあったと認めることになる)なので、「教育勅語の追加」という形で日本により民主的な土壌を築こうとしたし、伊藤博文は軍部をなんとかして政党内閣のコントロール下に置こうとした。

 しかし、これらの試みは残念ながら失敗した。もしこれらの試みが成功していれば、実際には戦後の人間宣言の後に提唱された「人間天皇」のように、この裕仁皇太子のヨーロッパ歴訪において皇太子の人間的側面が強調されて、その後の天皇神格化による軍部の暴走は避けられたかもしれない。

 だが、そうはならなかった。この時点では、西園寺や伊藤の試みがすでに失敗に終わっている。帝国憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」という規定を厳守するほうが優先されたからである。

 マスコミの代表である新聞は、この「大砲お跨り写真」も含めてもっと皇室の人間性を示す事実を報道すべきだった、というのは正論で口にするのは簡単だが、この時点では社会の態勢がそれを許さない形になってしまっている。裕仁皇太子が許可を与えたにもかかわらず、その発言が報道されなかったことがその証拠だ。

 また、昨今はさすがに声高に叫ばれることは無くなったが、かつて左翼歴史学者が主張していた「戦前の日本は天皇の独裁国家だ」という見方もまったくの誤りであることがわかるだろう。ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーのように、あるいは北朝鮮の金正恩のように、法律や道徳など一切無視して自分の意志を押し通せる独裁者によって統治される国家を独裁国家という。

 皇太子という「ナンバー2」、いや大正天皇はすでに執務不能だったから大日本帝国の実質上の「ナンバー1」である裕仁皇太子の報道して欲しいという望みが周囲の思惑によって遮られる国家など決して独裁国家とは言えないし、少なくともその頂点にいる天皇あるいは皇太子も独裁者ではない。中学生にもわかる、あたり前の理屈である。

 しかし、あらためてこのヨーロッパ歴訪が裕仁皇太子自身の思想に与えた影響を考えてみると、きわめて大きかったということはおわかりだろう。

 さて、ここで思い出していただきたいのは、本連載の第一四八五回に書いた文章である。現在の上皇御夫妻御成婚の際、旧皇族には根強い反対論があった。

 「皇太子明仁親王の実母香淳皇后もこの結婚に反対だったことは、よく知られている。それでも結婚できたのは、昭和天皇が反対しなかったからだ。これは大英断と言うべきであろう。結果的に、この結婚によって皇室と民間の距離が縮まった。この件については、昭和天皇は具体的にはどのような態度とお言葉でそれを認めたのか、ぜひ現上皇に回顧していただきたいと私は常々願っている。昭和史の要所のひとつであるからだ」

 あくまで推測ではあるが、私はなぜ昭和天皇が旧皇族の反対を押し切って「平民との結婚」を認めたのか、その理由がわかったと思っている。おわかりだろう、皇太子のときのヨーロッパ歴訪が、その考え方を根本に近いところから変えたのだ。

 そして、もうひとつ。以前、外務省つまり日本政府が皇太子の歴訪先からアメリカを除外したことについて、私の見解は「この項の最後に述べる」と予告しておいた。少し早いが、それを述べよう。

「万難を排して訪米を実現すべきだった」である。理由は二つある。

 一つは、すでに述べたようにこの時期の日米関係、とくに相互の信頼関係は急速に悪化しており、アメリカでは日本人移民排斥の気運が高まっていたからだ。皇太子が訪米したからといってこうした感情が急速に改善されるものではないかもしれないが、少なくとも両国が互いを知り友好関係を深めるための第一歩にはなっただろう。

 裕仁皇太子にはそうした関係を深める優れた能力があったと私は考える。それで、この時点から二十年後に起こる戦争が止められたかどうかはわからないが、少なくとも悲惨な事態のいくつかは避けられたのではないかと思われる。

 もう一つは、じつは報道の問題である。この時点で日本では、皇室問題について自由な報道がすでにできなくなっている。だが、アメリカの記者は遠慮が無い。皇太子の言ったことがそのまま忖度無く報道される可能性も高い。それは結局、日本の閉鎖的な報道環境に風穴を開ける結果になったのではないか。

 ちなみに、昭和天皇自身は戦後の一九七五年(昭和50)に初めて訪米が実現したとき、「ながき年心にとどめしことなれば旅の喜びこの上もなし」と詠じた。本人も訪米を切望していたのである。

 それにしても、大正十年に皇太子訪米を事実上阻止したのも、昭和二十一年に天皇の人間宣言を起草したのも、同じ幣原喜重郎であった。このとき幣原はどういう感想を抱いたのだろうか。人間の運命とは不可思議なものだ。

 (第1499回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2026年8月14・21日号