前田敦子35歳に「羨ましかった、絶対にかなわないなって…」俳優転身、“ブス会”との出会い…21歳でAKB卒業を決めた理由とは?
〈「テレビに出るな」とクレーム殺到、ファンからも批判…「私は一番のアンチになった」前田敦子が抱えていた“絶対的センター”の苦悩〉から続く
7月10日、俳優の前田敦子が35歳の誕生日を迎えた。14歳でAKB48に加入すると、“絶対エース”、“センター”としてグループを牽引。ファンの投票によってシングルのメンバーが決まる「選抜総選挙」は社会現象になり、次第に国民的アイドルとも呼ばれるように。21歳でグループ卒業に踏み切り、その後に選んだ“道”とは?(全3回の2回目)
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前田敦子はAKB48に加入したときより、総合プロデューサーの秋元康から「人生の選択は自分でしなさい」と言われてきたという。だが、彼女が卒業を匂わせ始めると、秋元は「この曲はやってほしい」と理由をつけては慰留した。本人としてもこのままAKBに残っても続けられるとは思っていたが、グループが前に進むためには、このタイミングで自分がやめるのが一番わかりやすいと考え、ついに決断する。

卒業セレモニーが行われた2012年8月「AKB48 in TOKYO DOME 〜1830mの夢〜」での前田敦子 ©︎文藝春秋
卒業を発表したのは2012年3月の埼玉でのコンサートの最終日だった。その本番直前、秋元からメールがあり、「卒業発表をするかどうかの判断は自分で決めていい」との言葉とともに、発表した場合としなかった場合、それぞれの未来に待っているであろう“いいこと”と“悪いこと”がずらりとリストアップされていたとか。最終的な決断を自分でさせてもらえたことは、現在にいたるまで彼女のなかで揺るぎない自信として根づいているという(前田敦子『明け方の空』宝島社、2021年)。
AKBでは結成以来の目標として、東京ドームでのコンサートと、それを終えた翌日にはいつもどおり秋葉原の劇場で公演を開くことを掲げてきた。その目標はこの年の8月に達成され、前田は東京ドームでの卒業セレモニー、そして劇場での卒業公演を花道に、14歳で入ったAKBに別れを告げた。
「私、この世界にどっぷり浸かりたいです」
すでにこのときまでに彼女は個人で映画やドラマにあいついで出演していた。AKB卒業の前月に公開された映画『苦役列車』ではヒロインを演じ、さらなる新境地を拓こうとしていた。撮影自体は卒業発表前に終えていたが、彼女のなかではすでに決意が固まっており、その打ち上げで「私、この世界にどっぷり浸かりたいです」と宣言していた。
《羨ましかったんです、映画だけで生きている人たちが。こんなにも作品と向き合えて、こんなにも熱くて。AKBをやりながらでは、その熱量に絶対にかなわないなって》と、当時の心境をのちに著書に記している(前掲、『明け方の空』)。
そもそも前田敦子が初めて映画に出演したのは、AKBでデビューして3年目の2007年に公開された市川準監督の『あしたの私のつくり方』である。ただ、俳優志望だった彼女には大きなチャンスだったが、オファーを受けたときは「怖い」と思ってしまったという。この時点でまだ中学3年生で、未熟な自分がスクリーンを通してどんなふうに見られるのかと考えると不安だったらしい。撮影に入ってからも、市川監督は熱心に指導してくれたにもかかわらず、初めてAKBの仲間から離れての仕事とあって心細さから、毎日泣いていたという。
「姫」と呼ばれていた世間知らずの時代
そうした苦い経験を味わいながらも、その後、映画やドラマに出演する機会が増えていった。2010年放送のドラマ『Q10(キュート)』(日本テレビ系)ではヒロインのアンドロイドを演じ、演技の楽しさに目覚めた。このとき共演した同年代の高畑充希、柄本時生、池松壮亮と親しくなり、その後も「ブス会」と称して4人で定期的に集まっては他愛もない話を交わす関係を続けることになる。
AKB以外で同年代の友達ができたことで、自分の生き方がちょっと世間からズレていることにも気づけた。たとえば、AKB時代の彼女は、いつもタクシーチケットをもらえたので、移動にはタクシーを使うのが当たり前だと思っていたが、ブス会のメンバーにそれを言ったらドン引きされたという。
会ができてしばらくのあいだ、ほかの3人からは「姫」と呼ばれていた。前田はそれをあだ名だと思っていたが、やがて世間知らずのお嬢様という意味での姫だと気づく。その後、「あっちゃん」と呼ばれるようになったときには、同じ人間として認められた気がしてうれしかったとか(『週刊文春』2024年2月15日号)。
3人と比べて焦りが募っていった
ブス会で集まったときには、仕事の話はほとんどしないとはいえ、ほかのメンバーがどんどん成長していくのを間近で見るうち、しだいに焦りが募っていった。ほかの3人がお芝居のことだけ考えているのに、前田はAKBでの活動もあり、個人での仕事と両立する難しさも痛感する。
AKBを卒業していざ俳優を本格的に目指そうとしたとき、その勉強ができていなかったと気づく。そこでAKBの総合プロデューサーである秋元康からの助言もあり、映画をたくさん観るよう心がけた。幸い、前田の周囲には映画を死ぬほど観ている人が大勢おり、それぞれに違う作品を薦めてもらえた。ソロ曲のミュージックビデオの制作を機に親しくなった映画監督の犬童一心は、誕生日プレゼントにお薦めの恋愛映画を選んでくれたという。
ブス会のメンバーにも、もっと演技を勉強したいと思っていたところへ「舞台をやってみれば?」とアドバイスされた。それからまもなくして蜷川幸雄演出の『太陽2068』(2014年)への出演をオファーされた。23歳を目前にしていた前田は、やれるのかという不安もあったものの、《いまこの年齢でなければできない挑戦だから、いいタイミングかな》と思い、出演を決める(『anan』2014年7月9日号)。
「私、どうしたらいいんですか?」
このとき蜷川は「映像での長回しと同じだと思えばいい」と言ってくれ、おかげであまり舞台だと意識せずに稽古できていた。だが、映画のばあい撮影途中でカメラを止めることがあるのに対し、舞台はいざ本番が始まるとノンストップとあって、やはり勝手が違った。公演中は毎日、朝の4時に共演する先輩に電話しては、泣きながら「私、どうしたらいいんですか?」などと相談していたという。
このあと舞台はもう一生やりたくないと思ったが、翌2015年には、岩松了作・演出の『青い瞳』で2度目の舞台を踏む。蜷川とは違って淡々とした芝居で、「あ、こんなのもあるんだ」と《そこから、冷静にいろいろな舞台を観に行くことができるようになったんです》という(『婦人公論』2016年3月22日号)。
なお、蜷川幸雄は前田の初舞台の2年後に死去した。初出演映画の監督の市川準もまた公開の翌年、2008年に急逝している。こうして見ると、前田にとって一つひとつの出会いは重要な意味を持っており、運命的な巡り合わせとさえ思わせる。(つづく)
〈27歳で結婚した俳優との別れ、事務所独立、「一生忘れない」大先輩の言葉は…前田敦子(35)が歩む“自分で型にはまらない”人生〉へ続く
(近藤 正高)
