秋篠宮さまが「むしゃむしゃ食べた」横須賀の"名物パン"とは…82歳現役パン職人が51年前から作り続ける理由

■店先に現れ“殿下の旧友”
「このパンを、宮内庁へ届けるんだ」
男性客の一言で、時が止まった。「え? どこへ持って行くって?」と聞き返しながら、店主の北原俊勝さんは耳を疑った。
「秋篠宮殿下から頼まれてね」
そう笑顔で話す男性は、殿下の旧友だと名乗った。半信半疑で会話を交わした数日後、店には宮内庁からお礼の品が届いた――。

北原さんが経営する北原製パン所は、地元・横須賀市追浜で長年愛されているお店だ。創業は第二次世界大戦開戦前の1938年(昭和13年)。今年で88年を迎える老舗で、1日に約300人が訪れる人気店である。
ショーケースに並んでいるのは、食パン・アンパン・クリームパン、焼きそばやコロッケを挟んだ惣菜パンなど、昔ながらのラインアップがずらり。値段も一つ100円台からと、物価高のご時世にはうれしい、昔ながらの“町のパン屋”であることがわかる。
それが、一体全体なぜ、宮内庁からご用命いただけるようになったのだろうか。
■きっかけはテレビ朝日「朝メシまで。」
きっかけは、2025年秋にテレビ朝日で放送された、「朝メシまで。」という番組だ。同番組は深夜に働く人々を取り上げるもので、国道16号線を自転車で走っていたテレビクルーが見つけたのが、「北原製パン所」の作業場からこぼれる光だった。時刻は深夜3時。調査のためにカメラが店に入ると、そこには黙々と仕込み作業を行う、御年82歳の現役パン職人・北原さんが立っていた、というわけだ。
番組内では一風変わった名物、「ポテトチップサンド(通称:ポテチパン)」(税込み230円)が紹介された。名前の通り、コッペパンにポテトチップスを挟んだもので、見た目は非常にシンプルである。VTRで作り方が紹介されると、「うまそう」「どんな味なんだ」「絶対おいしいでしょ」とスタジオは大いに盛り上がっていた。秋篠宮殿下はこの放送を見ていたらしい。後日、横須賀在住の旧友に「悪いけど、ポテチパンを買ってきてほしい」と依頼した。

■毎日120個が完売、10個以上まとめ買いする人も…
さて、この「ポテチパン」は、「一度食べるとやみつきになる」と口を揃えるファンが多い。1日120個作っているものの、早々に売り切れてしまうことが珍しくないようだ。取材のため、筆者が平日12時頃に伺ったところ、「あと3個で終わり」というギリギリのタイミングだった。名物商品ゆえ、地元・日産自動車硬式野球部の関係者が「差し入れに」と大量購入したり、一般のお客さんが10個以上購入することもあるらしい。

今にも売り切れそうな「ポテチパン」を急いで注文し、ほかのパンとともに会計を頼む。すると、「さっき11個買って行った人がいたよ」と北原さんの妻・潤子さんがそっと教えてくれた。
みながこぞって「ポテチパン」を買い求める理由は、その味付けにある。使っているのはカルビーの「ポテトチップス うすしお味」だが、2種類の粉マスタードをブレンドした自家製マヨネーズで和えてから、パンに挟んでいる。
「『なにこの味⁉』ってびっくりされるね。このマヨネーズは、北原の命ですよ」
実際に食べてみると、ポテトチップスの塩気と自家製マヨネーズのスパイシーさが合わさり、なんとも後引く味わいだった。
筆者が無心で「ポテチパン」を頬張る横で、「小泉進次郎さんだって、これ食べてるんだよ」とうれしそうに語る北原さん。聞けば、なんと今年で勤続60年。パン作りが好きで好きで仕方ないように思える柔和な微笑みだが、意外にも「パン屋になりたくてなったわけではない」という。
■ロケットエンジニアを諦め、パン職人の道へ
北原製パン所は、北原さんの父・治夫さんが、銀座木村家で修業したのちに創業したお店だ。3人兄弟の次男として生まれた北原さんは、幼少期からロケットエンジニアを目指し、大学では応用化学を専攻。学生時代に熱心に取り組んだのは、漁業無線を使った気象観測だった。
「当時、山手の『港の見える丘公園』の近くに測候所(現・横浜地方気象台)があってね。昔は人工衛星がなかったから、漁業無線を使ってみんな(気象データを)通報するわけですよ。朝9時とか12時に定時速報というものがあって、風速とか風力とかを無線で聞きながら、天気図を書いたりしてましたね」
ときには売り子や配達要員として、パン店の手伝いをしたこともあった。けれど、「あんまりうちに帰りたくなかったから、いつも学校にいた」そうだ。

そのうち、すでに会社勤めをしていた一つ歳下の潤子さんと交際を始め、妊娠を機に学生結婚することに。当初は周囲に反対されたが、ダンプトラックの運転手や土木会社での肉体労働など、アルバイトをしながら生活を支えた。だが、1966年(昭和41年)に転機が訪れる。
「お前がパン屋を継げ」
急に実家に呼び出されたと思ったら、父親からそう一言かけられた。家業に入ったはずの長男が夜逃げ同然でいなくなり、新しい後継者が必要になったからだった。
「(兄は)それまでずっと封建的な親子関係で抑えられてたからね。余計に反発して、家を出ちゃったんじゃないかなと思いますね。私も家業を継ぐのは嫌でしたよ。でも、昔は親の言うことが絶対だったからね……。しょうがない。やるしかない」
潤子さんが長女を出産したその日、北原さんはパン職人になる道を選んだ。
■「こんなのパンじゃない」敬遠された販売当初
家業に入ると、「目で盗む」修行の日々が始まった。当時、パン作りはすべての工程が手作業で、7〜8人の職人がいた。だが、「みんな昔気質の職人さんだから、丁寧に教えてくれるわけではなかった」そうだ。
「1回か2回、塩の配合を間違えて、300個分のパンをダメにしちゃったことがありましたね。今でも製品ができるまでは心配ですよ。手抜きはできないし、いい加減にやったら完全にアウトだし」
店のパンは、生地を2回に分けて混ぜる「中種法」を採用している。しっとり・モチモチの食感を生み出すには、必要不可欠な工程だ。作った生地は、半日寝かせて発酵・熟成させる。発酵室の扉を閉めるときのお決まりは、2回柏手を打つこと。「いいパンができますように――」と、パンの神様にお願いしているそうだ。

毎日毎日、ひたすらパンと向き合い続けていると、10年も経つ頃には一人前に仕事ができるようになった。ちょうどそのタイミングで先代が考案したのが、例の「ポテチパン」だ。
1975年(昭和50年)頃、追浜には海水浴場があり、夏場は大勢の行楽客で賑わっていた。当時、北原製パン所では海の家を出店しており、ラーメンと一緒に販売する商品の一つとして、ポテトチップスを挟んだパンを開発したのである。
「50年も前の話だけど、先代が考案した『ポテチパン』は、真夏でも、どこへ持って行っても、傷まなかった。野菜を挟まないから水分を吸わないし、翌日でも美味しい状態で食べられるからね」
だが、販売当初は「こんなのパンじゃない」と文句を言われたり、驚かれたりしたらしい。
■40年経ってようやく人気が出始める
しかし、その後も基本のレシピを守りつつ、自家製マヨネーズの配合を変えるなど、試行錯誤を重ねていった。すると、2016年になって人気が出始めるように。きっかけは、横須賀スタジアムで行われる、横浜DeNAベイスターズ戦での出張販売だ。「ポテチパン」を持って行ったところ、瞬く間に評判となったのである。
「試合の間はずっと販売してますけど、いつも完売よ」と潤子さん。毎回約300個のパンを持って行くが、そのうち150個以上が「ポテチパン」だと言う。ちなみに、地元で開催されるイベント「よこすかフェスタ」では、200個も売れるそうだ。

また、横須賀市内には「ポテチパン」を販売するパン店がほかに3店舗あり、テレビ番組で食べ比べ企画が放送されたことも影響した。「北原のポテチパンがおいしい」という評判が徐々に広がり、開発から40年かけて人気商品へと育っていったのである。
■ケーキは佳子さまに、マドレーヌと焼き菓子は…
さて、冒頭で紹介したテレビ番組「朝メシまで。」が放送された翌日、北原製パン所には開店前から長い長い行列ができていた。
「開けたらこっちがびっくりしちゃって……。『これはダメだ』と思って、急いであるパンを全部出した。その日はもう早く店が閉まったよね。お昼頃にはなくなっちゃったんだから」
それからしばらくは、早々に売り切れてしまう日が続出した。また、番組が全国ネットで放送されたことで、沖縄や滋賀など、遠方からわざわざお客さんが訪ねて来るようにもなった。別の日には、来店した40代の男性が「今の仕事を辞めようかと思ってたけど、俺もがんばんなくちゃいけないなと思って」と北原さんに感謝を伝えてきたこともある。番組が再放送されると、「今テレビ見てるんだけど、がんばってくださいね」と福井県から激励の電話をかけてきた人もいた。
そうした反響が続いているときに店にやってきたのが、秋篠宮殿下の旧友だった。宮内庁へ「ポテチパン」が届けられると、とても喜ばれたという。
「殿下がむしゃむしゃ食べるもんだから、『そんな食い方するなよ』ってご友人が言ったらしいんですよ。『よっぽど美味しかったのかね』って笑ってましたね」
相当北原さんのパンを気に入ったのか、同年12月には特製クリスマスケーキの注文が入り、翌年3月にはマドレーヌと焼き菓子の注文が入った。ケーキは次女の佳子さまに、マドレーヌと焼き菓子は、ニューヨークに住む長女・眞子さんと小室圭さん夫婦にも送られたそうだ。

■手のひらが物語る、職人人生
取材が終盤に差し掛かった頃、北原さんはこう切り出した。
「ロケットあげるのもいいけど、この仕事もまんざらじゃなかったんだなって、自分で納得できるよね。やっぱ人っていうのはさ、真面目に一生懸命やってると、救われるのかなと思ってさ」
目線の先には、くっきりと深いしわが刻まれた手が、固く握られている。来る日も来る日も、街が寝静まった深夜3時から、仕込みを続けてきた手だ。
「真面目に一生懸命やってると、救われる」――その言葉が、じわりと胸に響いた。

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弓橋 紗耶(ゆみはし・さや)
フリーライター
1987年、神奈川県生まれ。2010年からインフラ企業で営業・営業企画を経験し、2022年に独立。現在は、ストーリーライティングを軸とした取材・記事執筆などを手がける。企業の広報から経営者インタビューまで、営業現場で培った人との対話力を活かし、企業の持つ本当の価値や想いを言葉にして伝えている。
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(フリーライター 弓橋 紗耶)
