アメリカ人女優マリリン・モンローは、ジョン・F・ケネディと関係を持つ一方、精神的に疲弊し、精神病院へ強制入院させられた。絶世の美女と謳われた女優に何があったのか。別冊宝島編集部・編『知れば知るほど泣けるマリリン・モンロー』(宝島社)より、一部を紹介する――。

※本稿は、プレジデント・オンライン編集部で一部を再編集したものです。

1953年12月号の写真誌に掲載されたマリリン・モンロー(写真=Studio publicity still/Public domain/Wikimedia Commons)

■民主党大統領候補ケネディとの逢瀬

1960年の後半、34歳のマリリンはジョン・F・ケネディとも夜を共にしていた。ケネディの女性好きはよく知られていた。マリリンはそのうちの一人でしかなかったが、大統領候補で上院議員であるケネディとのひと時は、自らの存在価値を確かめられる時間でもあった。

ケネディとの出会いはマリリンがジョー・ディマジオと結婚した時期にさかのぼる。パーティーで上院議員であったケネディと知り合った。

「上院議員のケネディです。私はあなたの大ファンなんです。映画はすべて見ています」

愛想のいい笑顔が印象的だったが、そのときは、それで終わった。

マリリンは政治にも関心が高かった。1960年の大統領選挙についても知人に手紙を送っている。

「(ネルソン)ロックフェラーはどうかしら、彼が民主党の中でいちばん自由主義者だわ。ニクソンはダメね。理想を言えば、最高裁判事のウィリアム・O・ダグラスがいちばん大統領にふさわしいわ。副大統領にはケネディね」

アプローチはケネディからだった。電話でホテルを指示され、夜を共にするだけだった。1960年11月、民主党のケネディは共和党のニクソンを破って大統領に当選した。そして、61年1月、ケネディは大統領に就任する。

マリリンと愛人関係にあったジョン・F・ケネディ(写真=Cecil W. Stoughton/Public domain/Wikimedia Commons)

■アカデミー賞への道は閉ざされた

ケネディが大統領に就任するころ、マリリンには大きな2つの事件があった。アーサー・ミラーとの正式な離婚が決まったことと、マリリンがアカデミー賞を狙った「荒馬と女」が公開されたことだ。

マリリンの3人目の夫・劇作家アーサー・ミラー(写真=米国国務省/Public domain/Wikimedia Commons)

「荒馬と女」の評価は散々だった。

「ジョン・ヒューストンが新作を撮った。ゲーブルが主役を務めた。それだけだ」
「彼女の感情表現が乏しい。不幸にも、この映画は、そんな彼女を永遠と見続けなければならない」
「ゲーブルは素晴らしいが、作品は最低だ」

いま、見れば、マリリンの抑えた演技は決して批判されるようなものではないが、当時は評価を得ることができなかった。興行的にも大失敗だった。マリリンが望んだアカデミー賞の道は閉ざされた。

2月5日、マリリンはニューヨークのペイン・ホイットニー・クリニックに入院する。マリリンは暗い寝室に閉じこもり、センチメンタルな音楽を聴きながら睡眠薬しか口にしなくなっていた。周囲が無理やり入院させた。

■精神病院から救い出してくれたのは元夫

マリリンが入った病室は、鍵のかかる重い精神病患者が入るところだった。暗い閉所にマリリンは恐怖を感じた。こぶしが血でにじむほど壁を叩き続け、出してくれるよう懇願した。

医者は精神病患者の特徴だと考え、「静かにしないと拘束具をつけるぞ」と脅した。

その状態が2日続いた。マリリンの窮状を見かねた看護婦がいた。看護婦はマリリンの意思を受け入れるよう医者に進言した。マリリンの伝言が許された。彼女は演技指導をしてくれているストラスバーグ夫妻に連絡をとった。

しかし、ストラスバーク夫妻にはなす術がなかった。病院側にマリリンの退院を求めても相手にしてくれない。マリリンは許可を取って、知り合いの2、3人に電話をした。ダメだった。やっと応じてくれたのがジョー・ディマジオだった。

マリリンと2人目の夫であるプロ野球選手ジョー・ディマジオ(写真=Macfadden Publications/Public domain/Wikimedia Commons)

電話を受けると、すぐにディマジオは病院に駆けつけ、マリリンを明日にでも退院させるよう病院に要求した。病院が拒否すると、「病院を粉々にしてやる!」と怒鳴りつけた。

ディマジオはマリリンをペイン・ホイットニー・クリニックから助け出すと、コロンビア大学付属のプレスビテリアン病院に入院させた。

■「フロリダで2、3週間暮らさないか」

ディマジオは毎日、病院へ見舞いにきた。そして、提案した。

別冊宝島編集部・編『知れば知るほど泣けるマリリン・モンロー』(宝島社)

「フロリダの俺の家で、気持ちが落ち着くまで2、3週間暮らさないか」

マリリンはうなずいた。マリリンは、プレスビテリアン病院で3週間の治療が終わると、ディマジオいるフロリダに向かった。

途中、ブルックリンでアーサー・ミラーの母親の葬儀に出席している。義理の父親であったイサドア・ミラーを慰め、アーサー・ミラーにお悔やみを述べた。のちにイサドア・ミラーは話している。

「彼女は退院したばかりだったが、今度は私が入院することになっていた。私が入院して手術を終えると、彼女は毎日見舞いに来てくれた」

フロリダには3週間ほどいた。ディマジオはマリリンを人影が少ないビーチに案内した。一緒に泳いだり、砂浜に絵を描いたりした。夜は静かなレストランで食事をとった。

フロリダで、ディマジオはヤンキースのコーチをしていた。マリリンもディマジオと一緒にヤンキースの練習を見に行った。彼女は手を振って応援した。ヤンキースの選手は、マリリンの声に、より一層、練習に熱が入った。

このとき、はじめてディマジオはマリリンを誇りに思った。そして、新婚当時、なぜ、それができなかったのか、自分が情けなかった。

■マリリンを愛したフランク・シナトラ

1961年の後半、マリリンはフランク・シナトラの邸宅で静養している。2人は1955年ごろから親密だった。マリリンに本気になっていたのはフランク・シナトラだった。

歌手のフランク・シナトラ(写真=Capitol Records/Public domain/Wikimedia Commons)

マリリンとジョン・F・ケネディの関係は終わっていた。ケネディが大統領になると、CIAやマフィアの眼が厳しくなった。マリリンと会うチャンスはなくなっていた。

そこに現れたのが、ロバート・ケネディだった。ジョン・F・ケネディの弟で、ケネディ政権では司法長官を務めていた。ロバートは当初、ジョンのメッセンジャーに過ぎなかったが、マリリンと関係を持つようになった。

ジョン・F・ケネディの弟ロバート・ケネディ(写真=作者不詳/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

恋の復活と同時にマリリンの体力も戻りつつあった。子宮内膜症の治療のため、胆のう摘出手術も受け回復に向かっていた。

1961年前半の絶望的な状態から、少しずつ前向きな感情が芽生えてきた。マリリンはフランク・シナトラの邸宅で数カ月過ごした後、カリフォルニアに戻ってきた。

そして、1962年初頭に精神分析医グリーンソンのすすめでロサンゼルスに邸宅を購入した。マリリンは、最後まで、この家に住んだ。

(別冊宝島編集部)