【コシノジュンコ 我が道28】見知らぬ男の子は寛斎さんだった 今でも忘れられない出会いの瞬間
山本寛斎さんとの出会いは、もうびっくり過ぎちゃって今でも忘れられません。場所は、横浜大さん橋。遊び仲間で、後に有名なディスコ「ムゲン」をプロデュースした浜野安宏さんが渡米することになり、友人たちと一緒に見送りに行った時のことです。1960年代初め、飛行機代は物凄く高くて、外国へ行くなんて夢のまた夢。比較的運賃の安い船で何日もかけて行くしかなかった頃でした。
5色のテープが舞う中、みんなで別れを惜しんでいると、突然、私のそばに見知らぬ男の子が近づいてきて、いきなり「上着の裏を見せてもらえませんか」と言われました。「えっ?」。私は少し怖くなって後ずさりしましたが、その真剣な表情にしぶしぶ「いいわよ」。その時、私が着ていたのは、表はショッキングピンクで裏はグリーン、おまけにバラの花がプリントされたド派手なジャケット。大勢の見送り客の中でもひときわ目立っていたはず。ボタンがついてなかったのできっと裏まで見えたのでしょう。仕方なく見せてあげると、今度は「すみません。名前と住所を教えてください。明日、行ってもいいですか」。この一風変わった男の子が、寛斎さんだったのです。
まさかと思いきや、次の日、彼は六本木のアトリエへ本当にやって来ました。そして、入ってくるなり、私の前で両手をついて「今日から弟子にしてください」と何度も繰り返すんです。私はまだ自分の店も持ってないし、ましてや弟子なんてと思い、偉そうに「親の許可がないとダメ」と突っぱねましたが、相手は「勘当されてます」と全く動じません。結局、それ以降、毎日来るようになって、気が付くと私のことを「師匠!」と呼ぶようになっていました。
寛斎さんは、その時、普通の大学生。デザインの勉強もしてなければ、裁縫もできません。得意なことといえば、中学か高校時代に応援団で培った「チャッ、チャッ、チャッ」だけ。もっとも仲間とのパーティーでは、それで随分と盛り上げてもらいましたけど。でも、ヤル気は人一倍。必死にお針子の修業をして基礎から学び、地道な努力と精進の結果、新人デザイナーの登竜門「装苑賞」を獲ることができました。それを機に大きく羽ばたくことに。渡英してロンドンで日本人デザイナーとして初めてショーを開催。ロックスターのデビッド・ボウイの衣装を手がけるようになったのです。
あの頃は、今みたいにものにあふれ、何でもスマホで手に入る便利さはなかったけど、頑張れば必ず夢がかなういい時代でした。だから、みんな、毎日、一生懸命。友人たちと集まって、それぞれの将来を一晩中熱く語りあったり、時にはお酒を飲んで大騒ぎしたり。まさに甘酸っぱくもホロ苦い青春のひととき。すべてのことが楽しい思い出です。
◇コシノ ジュンコ 文化服装学院在学中に装苑賞を受賞。1978年から22年間、パリ・コレクションに参加。世界各国でファッションショーを開催、国際的な文化交流に力を入れる。オペラ、DRUM TAOの舞台衣装、花火、ユニホーム、インテリアのデザインなどを手がける。フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ受章、旭日中綬章受章。2025年11月には文化勲章受章。大阪府岸和田市出身。

